「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」

「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」

「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」

「テレビは見てはいけない」というメインタイトルよりも「脱・奴隷の生き方」というサブタイトルの方がメインの内容である。編集協力・オフィス1975とあるので、これは著者自身が書いたものではなく、編集協力者が著者の考え方をまとめたものだろう。それでも面白いのだけれども、20代のころに読んでものの見方が変わった岸田秀の著作ほどインパクトがない要因ともなっている。著者の苫米地英人はオウム信者の脱洗脳にもかかわったことがあるそうで、その実用的な考え方を自身の手でまとめてほしいものだ。他の著作もあるので、読んでみようかと思う。

テレビを見てはいけない理由の一つは序文の中にプロダクト・プレイスメントという広告手法があるからという理由で説明されている。これは番組内でさりげなくスポンサーの商品を映し出し、視聴者に広告と気づかせずに商品の性能や特徴をアピールすること。このプロダクト・プレイスメントによって、欲しくもない商品を欲しいと思わされることになる。つまり洗脳されるわけだ。そうした状態を著者は奴隷と呼ぶ。そしてそういう洗脳はこの社会の至る所にある。

「偏差値が低い学校に行くのはカッコ悪い」「有名な会社に勤めてこそいい人生」などといったステレオタイプな価値観を子どもに植えつける親はたくさんいます。自分たちの価値観を強制して、子ども自身がもっている可能性の芽を摘んでしまっていることに気づかない大人たち。
そういう人たちを「ドリームキラー」と呼びます。文字どおり「夢を殺してしまう人」です。多くの人にとって、もっとも「ドリームキラー」となる確率が高いのは親です。

実はこの部分を呼んで、岸田秀を思い出したのだ。もう随分前に読んだ本なので、詳しく覚えてはいないが、人は3歳になるまでに親からねじを巻かれている。人の行動の規範はその時までに形成される、といった内容だった。思春期になって自立心が芽生え始めると、親から巻かれたねじとの間に齟齬が生じ、悩むことになる。マザコンやファザコンの人、親を尊敬しすぎている人は親から巻かれたねじが強力だったのかもしれない。

親だけでなく、その後も学校や会社や組織の中で価値観の強制はある。日本の社会では空気を読むことが必要とされ、読めない人はKYと言われる。これが女子高生あたりから出て来た造語であることを考えても、若い世代からこういう考え方にどっぷり浸っていることがよく分かる。著者は「『空気読め』は差別のシステム」と断言している。

ではどうすればいいのか。「want to」でやれ、「have to」で生きるな、というのがこの本の主張だ。画一的な価値観を捨て、自由に生きること。こうしなくてはいけないと決められたものに縛られるな。なかなかそれを実行するのは難しいのだが、難しいと思うこと自体が画一的な価値観に縛られているからなのかもしれない。

苫米地英人は脳機能学者、計算言語学者、認知心理学者、分析哲学者。上智大卒業後、三菱地所、イェール大大学院、徳島大助教授、ジャストシステム基礎研究所長などを経て、現在はドクター苫米地ワークス代表、コグニティブリサーチラボCEOなどの肩書きがある。帯の写真を見ると、ちょっと軽薄な感じも持ったが、書いてあることはまともだった。

【amazon】テレビは見てはいけない (PHP新書)


「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」」への2件のフィードバック

  1. 45

    関係ないんですけど、娘の担任に「最近、さきさんの言葉使いが気になります。『死ね、くそ』とお友だちに言ってたそうです」と何気に言われたので娘に「ダメじゃん!死ねとか言ったら!くそはいいけど」と注意したら「お母さん、くそもダメです・・・・(^^ゞだけど、それぐらい言っちゃいますよねー」とガハハーと三人で笑ってきました。

    自分は大人だ、と思ってる人、逆に自分は子どものままでいたい、とかって人、けっこう気持ち悪いですよね。

  2. hiro 投稿作成者

    言葉遣いと言えば、「クレヨンしんちゃん」の臼井儀人が亡くなりましたね。僕は原作はあまり読んだことはありませんが、アニメや映画はよく見ていたので残念。「サザエさん」のように原作者がいなくても続いていってほしいものです。合掌。

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