「ハンニバル」

不要な部分がほとんどなく、その見事な描写にほれぼれするのが「ハンニバル」。ご存じトマス・ハリス「レッド・ドラゴン」「羊たちの沈黙」の続編。4月の発売直後に買ってほったらかしにしてあったのをようやく読んだ。「羊たちの沈黙」はアームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のような趣向を堪能させる猟奇ミステリだったが、今回はハンニバル・レクター博士を中心にした長編サスペンスの趣だ。何が凄いと言って、物語が一応終わった後に用意される第6部「長いスプーン」が凄すぎる。ここだけで「ハンニバル」はミステリ史に名をとどめるだろう。

なにしろ脳みそを食うんですぜ、脳みそを。いや脳みそを食うぐらいの話なら、以前にもあっただろう。トマス・ハリスが凄いのは生きた男の脳みそを食う(脳の活き作りですな)様子を一流シェフが料理するように非常に優雅に描いていることだ。陰惨ではなく、しかもリアル、というのが感心する。脳の前頭葉をスプーンで4切れすくい取られた男は突然、「ねえ、お星様の上でブランコに乗ろうよ」とビング・クロスビーのヒット曲を歌い出すのである。「突拍子もない大声でしゃべるのは、ロボトミー(前頭葉切断手術)を受けた人間の通癖である」という説明が笑わせる。

この場面に至るまでの物語ももちろん面白い。前作で逃亡後、フィレンツェで暮らすレクター博士と、博士に復讐を企む富豪、FBIでいわれない冷遇を受けているクラリス・スターリングを絡めた緊密な展開はページを繰る手が止まらないほど。レクター博士の過去にスポットを当てた部分も興味深い。博士の妹は幼い頃、脱走兵に食われてしまうのだ。これが人食いレクターのトラウマとなったのか、などと考えてしまう。しかし、かのスティーブン・キングがこれを激賞したのは脳みそを食う場面があったからに違いないと思う。それほどこのシーンは独自性に富んでいる。結末は好みが分かれるだろうが、トマス・ハリスの凄さを再認識させる1作であることは間違いない。

「ハンニバル」は既にリドリー・スコット監督、ジュリアン・ムーア、アンソニー・ホプキンス主演で映画の撮影が始まっている。このシーンを含むラストは変更されるらしい。まあ、そりゃそうでしょう。脳みそを食うシーンを映画で見せたら気持ち悪いだけだもの。技術的には十分描けると思うが、小説のような優雅さを兼ね備えることは映画では不可能だ。