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「女の子ものがたり」

「女の子ものがたり」

「女の子ものがたり」

西原理恵子の自叙伝的漫画。読みながら、業田良家「自虐の詩」に似ているなと思った。共通するのは貧しさと女の子の友情である。作品としては「自虐の詩」の方が上だと感じるのは主人公と2人の友だちの間の友情の描写がやや説得力を欠くからか。3人は同じような境遇で、小学生のころから行動をともにするが、主人公以外の2人は不幸な結婚をする。その不幸の遠因も貧しさにあるのだろうけれど、主人公だけが町を出て、あとから振り返って「もう、こんな友だちは一生できないと思う」と振り返るのは少し違うんじゃないかと思えてくるのだ。主人公がそう思うにいたる過程が描き切れていないと思う。

主人公のなつみは家族3人で父親の実家のある町に引っ越してくる。山と田んぼと工場のある町。拾った黒猫を一緒の世話したことで、みさちゃん、きいちゃんという2人の女の子と親しくなる。みさちゃんの家は半分がゴミ。団地に住むきいちゃんの母親は世界で一番怖そうな母親だった。なつみの両親もなつみが寝た後でけんかをする。それぞれに貧しくて幸福とは言えない3人は別々の中学校に入っても、行動をともにする。

「自虐の詩」と似てると感じたのはなつみにまなちゃんという親友ができるエピソード。まなちゃんは成績が良くてスポーツができて美人で背が高くて家も大きい。まなちゃんと一緒に下校していたなつみは、みさちゃんときいちゃんが男子にいつものよういじめられている場面に遭遇する。そこでまなちゃんは2人を助けるが、その後で主人公は「まなちゃん、わたしね、あんたのこと大っきらい」と思うのだ。「みさちゃんもきいちゃんもきらいだけど、あんたのことがいちばんきらい」。

同じ境遇だから避けたがった「自虐の詩」の幸江と熊本さんの関係に比べると、このあたりの主人公の心境をもっと詳しく描いて欲しくなる。2人のことを嫌いと思うなつみがラストで「みさちゃんときいちゃんが好きだ」と思うようになる変化の決定的な要因がここにはない。

この原作、映画になって今日から東京などで公開された。少女時代を演じるのが大後寿々花、波留、高山侑子というのはきれいすぎる感じもある。原作にない現在のエピソードを含めて映画化してあるようだが、出来はどうなのだろう。

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「MW」(ムウ)

「MW」

「MW」

玉木宏、山田孝之主演で映画化された。予告編が面白そうだったので、手塚治虫の原作を読む。ヒューマニズムを基調にした作品が多い手塚治虫としては異色の内容で、悪事の限りを尽くす男が主人公。問題作と言われるのも納得だが、犯罪を続ける主人公の動機と設定、その発展のさせ方の説得力がやや弱いと思う。復讐のためという動機なら分かりやすいが、これに毒ガスの影響による狂気という要因が加わる。終盤に至って主人公の動機はあきれるほど自分勝手かつ幼稚なものに変わってしまう。ここが説得力に欠けるのだ。1976年から78年にかけての雑誌連載なので、物語の設定にはベトナム戦争の影響があるが、戦争批判にはなり得ていない。女装しても違和感がない美しい主人公の造型は魅力的で、作品を読ませる力があるのだけれど、すっきりしない部分が残った。

南西諸島の沖ノ真船島(おきのまふねじま)で某国の毒ガスMWが漏れ、島民全員が死ぬ。本土から来ていた結城美知夫と賀来巌は洞窟にいて辛くも難を逃れた。事件は日本政府と某国によって完全に隠蔽された。15年後、結城はエリート銀行員となっているが、その裏で誘拐や殺人の犯罪を重ねる。毒ガス事件の関係者への復讐が目的だった。神父となった賀来は結城の犯罪をやめさせようとするが、同時に結城とホモセクシュアルな関係にもある。悪の道をためらいなく突っ走る結城と、結城の行為を否定しながら結城に惹かれる賀来。やがて結城の目的が世界に惨禍をもたらすことであることが分かってくる。

事件の隠蔽にかかわった大物政治家の名前が中田英覚である点など時代を感じさせる(ロッキード事件で田中角栄が逮捕されたのは1976年だった)。ストレートに世相を反映させると、物語は古びるのも早いが、当時のことを知らない若い世代には関係ないかもしれない。

結城はバイセクシュアルだが、寝た女をためらいなく殺すところなどを見ると、ホモセクシュアルの傾向の方が強いのだろう。結城の美しさと、結城との関係は間違いと悩む賀来の在り方を見て、山岸涼子「日出処の天子」の影響があるのではないかと思ったが、発表はこちらの方が早かった。ということは山岸涼子が影響を受けたのか。手塚治虫はやはり偉大な先駆者であり、その影響力は大きかったのだと思う。

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「中春こまわり君」

「中春こまわり君」

「中春こまわり君」

「がきデカ」の雑誌連載は調べてみると、1974年から81年まで。よく読んでいたのは中学、高校にかけてであり、大学では読まなかったので、さすがに最後の方は読んでいないだろう。と、それぐらい記憶があやふやなほど、昔の話だ。先日、酒の席で「あれは泣けますよ」と聞かされて、今年この単行本が出たことを知り、慌てて買った。「泣けますよ」はオーバーな表現だが、リアルタイムで読んでいた人にとって、懐かしさと切り離せない。雑誌連載時の読者は今、40代から50代であり、妻子を持つこまわり君の姿は自分と重ね合わせて「ああ、時は流れてしまった」との感慨を持たずにはいられないのだ。

といっても基本はギャグマンガである。収録されているのは「妻の帰還」(前後編、雑誌掲載2004年)「ジュン」(3話、2006年)「斬」(6話、2008年)「痛い風」(前後編、2008年)の4つ。いずれもビッグコミックに掲載された。こまわり君は金冠生生電器(きんかんなまなまでんき)という会社の営業部に勤め、西城君も同じ職場にいる。家族は妻の圭子と息子の登。西城君はやっぱりモモちゃんと結婚している。こまわり君が突然、動物になるなどのおなじみのギャグのパターンをちりばめて、かつての逆向小学校の面々の今の姿が描かれる。雑誌連載時にはモモちゃんより優しいジュンちゃんが好きだったが、そのジュンちゃんの不幸な境遇が描かれる「ジュン」が4話の中では一番面白かった。絵が欠かせない漫画のギャグを引用することほど分かりにくいものはないが、久しぶりに再会したこまわりとジュンのやりとり。

「ジュン」
「あ! ろまわり君。違った、え~~、地回り君だっけ。え~~と、え~~と、外回りでもないし、墓参りでもないし」
「わしの名前忘れてどうすんじゃーっ!」
「こまわり君」
「やっと分かったか」

こまわりはジュンの母親から手紙を預かっている。不幸な境遇を心配する内容かと思ったら、書かれていたのは「ジュンへ 半年前に貸した三万八千円返しておくれ 母より」。こういう感じでストーリーが進行する。

「がきデカ」を含めたこの作品についてはWikipediaが非常に詳しい。「クレヨンしんちゃん」が「がきデカ」の影響を受けているという指摘にはなるほどと思う。山上たつひこの作品は「がきデカ」と同時期に連載されていた「快僧のざらし」もよく読んでいた。反戦シリアス漫画の「光る風」はリアルタイムで時々読み、「がきデカ」がヒットした時に単行本3巻をまとめて読んだ。「光る風」が少年マガジンに連載されたのは1970年で、「左手にジャーナル、右手にマガジン」と言われた政治の時代にふさわしい作品だったのだと思う。

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「ウォッチメン」

「ウォッチメン」表紙

「ウォッチメン」表紙

ヒューゴー賞を受賞したアラン・ムーア、デイブ・ギボンズのコミック。ようやく読む。本編だけで12章、412ページ。セリフが多く、各章にホリス・メイソンの自伝「仮面の下で」など物語の背景を記した文章だけのページもあるので、読むのに時間がかかった。映画の感想はSorry, Wrong Accessに書いたが、映画は原作にほぼ忠実である。違うのはクライマックスの災厄の設定ぐらいか。

映画を見た時にスーパーヒーローもののメタフィクション的な印象を受けたのだけれど、それは原作でも同じだった。アラン・ムーアの後書きによると、当初は既存のスーパーヒーロー(キャプテン・アトム、ブルービートらチャールトンコミックスのキャラクター)を使って物語を構成したかったが、かなわなかったという。それでアメリカン・コミックのヒーローをモデルにロールシャッハやナイトオウルなど独自のキャラクターを作ることになった。

忠実なだけに、これは映画→原作よりも原作→映画の順で観賞した方が楽しめる作品と言える。映画では説明されなかったロールシャッハの模様が動く仮面はDr.マンハッタンが発明した生地で、「2枚のゴムに挟まれた液が圧力や熱に反応して流動する」のだそうだ。このように映画で分かりにくかった背景などはよく分かるが、基本的に同じ話なので、真相が明らかにされる場面で映画に感じたような驚きはない。

それにデイブ・ギボンズの絵は動きが少なく感じる。日本でコミック化すれば、キャラクターの造型やアクション場面などさらに面白くなる題材だと思う。平井和正原作、池上遼一作画の「スパイダーマン」のようなリメイクをすると、面白いと思う。

この原作、amazonではまたもや「出品者からお求めいただけます」になっている。速攻で買っておいて良かった。前回はいったいどれぐらい入庫したのだろう。amazonに表示されている画像はケースの写真なので、ここには本の表紙をスキャンした。この絵は第11章の扉絵と同じで、オジマンディアスの南極の基地にある温室の中の一部を描いている。

僕の貧弱な感想では参考にならないので、大森望さんが10年前に書いた書評をリンクしておく。十年に一度の大傑作、『ウォッチメン』が凄すぎる!

「PLUTO」第7巻

「PLUTO」第7巻

「PLUTO」第7巻

昨日、書店に行ったら、長男が「出てるよ」と言ったので買う。奥付を見ると、2月に発売されたのかな。6巻まで一気読みしたのが、昨年8月。これは浦沢直樹作品ではベストではないかと思った。7巻を読んでもその印象は変わらない。

浦沢作品は「20世紀少年」も「モンスター」も長すぎる傾向がある。話がもう終わってもいいと思えるのにそれでも延々と続くのは、たぶん雑誌編集者の要請もあるためだろう。「PLUTO」は8巻で終了するという。手塚治虫「地上最大のロボット」という枠組みがあることが幸いしているのだ。話の細部を膨らませることはできても、最強ロボットのPLUTOがアトムを含む世界最高水準のロボット7台を倒すというプロットを大きく変えられないのだ。これは足かせではあるけれど、浦沢作品には有効に作用した。

7巻ではついにエプシロンも死んでしまう。そしてこれまで断片的にしか見せなかったPLUTOの全体が初めて描かれる。6巻までに主人公の刑事ロボット・ゲジヒトが死に、アトムも死んだが、この2人が復活することは容易に想像がつく。7巻では予想通り天馬博士の手によってアトムが復活した。

7巻まで読んで感心するのはドラマティックな見せ方で1巻の最後のアトムと2巻の最後のウランの登場シーンや初めてアトムが空を飛ぶシーンには胸が震える。続きを読みたくて仕方がない気分にさせる。オリジナルを超えるリメイクであることは疑いの余地がない。もうあとはボラーとの決着がつく8巻を待つだけだ。6月発売が待ち遠しい。