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「ラスト・チャイルド」

「ラスト・チャイルド」

「ラスト・チャイルド」

家族と友情の物語。序盤を読んで胸が打ち震えた。なんというシチュエーションだろう。主人公のジョニー・メリモンは13歳。1年前に双子の妹アリッサが何者かに連れ去られてジョニーの家族は崩壊した。母親になじられた父親は娘を捜して家を出て行き、男たちの目を奪うほど美しい母親は酒と薬に溺れるようになった。それだけならまだしも、母親はショッピングセンターを経営する実業家ケン・ホロウェイに囲われたような状態になっている。家は銀行に差し押さえられ、今、住んでいるのはケンから月1ドルで借りている安普請の貸家だ。

町外れに建つどうしようもないあばら屋だ。キッチンは狭く、メタルグリーンのリノリウムの床はすり切れ、隅がめくれ上がっている。コンロの上の電球がついていたので、ジョニーはゆっくりとひとまわりした。ひどいありさまだった。吸い殻でいっぱいの皿、空き瓶、それにショットグラス。テーブルに鏡が平らに置かれ、白い粉末の残りが光を受けていた。それを見たとたん、ジョニーの胸に寒々としたものが広がった。

荒廃した家は荒廃した家族をそのまま表している。ケンは母親にもジョニーにも暴力を振るう。だからジョニーはかつての幸福な家庭を取り戻すために1人で妹を捜し求める。ジョニーは事件を解決できない警察も、いくら祈っても少しも助けてくれない神も信じなくなっている。

親友のジャックも恵まれない境遇にある。ジャックの左腕は「6歳児の腕をその倍の歳の子にくっつけたように見える」。4歳のころ、ジャックはトラックの荷台から落ちて腕を損傷し、それが原因で骨が空洞になった。手術を受けたが、骨はそれから成長しなかった。兄のジェラルドは野球で大学進学が決まり、プロからも声がかかっている。父親の自慢の息子だ。家庭はすべてジェラルドを中心に動いている。優秀な兄とダメと思われている弟。ジャックの置かれた境遇を思うと、胸を打たれる。この作品のポイントはジャックの存在にほかならない。

あの日のことはよく覚えている。曇天で、涼しかった。先生から手をつなぎなさいと言われたが、女の子は誰もジャックと手をつなぎたがらなかった。

ジョニーは少し後ろに下がり、ジャックが惨めな様子で立っていた場所に視線をさまよわせた。ほかの生徒から少し離れた、森のすぐ手前。彼はそこで同級生に背中を向け、リベットで裸岩に固定された錆の浮いた小さな鉄板をじっと見つめていた。泣いてなんかいないというように、標識に見入っていた。

そして事件を捜査する刑事ハントもまた家庭を顧みなかったために妻が出て行き、息子とは険悪な状況にある。ジョン・ハートが描くのはMWA最優秀長編賞を受賞した前作「川は静かに流れ」 と同じく、家族が中心だ。序盤でこうした登場人物の境遇を紹介した後、事件は動き始める。またも1人の少女が連れ去られたのだ。構成はミステリとして優れており、早川書房がポケットミステリと文庫の同時刊行という前例のない出版の仕方をしたほど自信を持っているのも納得できる。ただし、序盤で描かれる登場人物の悲痛さはミステリとして優れた展開になるほど背景に退いていく気がした。作品の長さが影響していると思われ、それが少し残念だ。

既にCWA最優秀スリラー賞を受賞し、MWA賞の候補にもなっている。水準を超える傑作であることは間違いない。

4月30日追記:MWA賞最優秀長編賞を受賞した。
http://www.theedgars.com/nominees.html
ジョン・ハートにとっては2008年の「川は静かに流れ」に続く受賞となった。

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「運命のボタン」

「運命のボタン」

「運命のボタン」

リチャード・マシスンの短編集。13編収録されているが、バラエティに富んでいてどれも面白く、買って損のない短編集だ。

表題作はキャメロン・ディアス主演映画の原作。ボタンを押せば5万ドルもらえる代わりに誰か知らない人間が死ぬ。その装置を預けられた夫婦はどうするか、という話。20ページと短く、ショートショートによくあるようなオチが付いている。これを映画にするには相当に膨らませなくてはいけないだろう。リチャード・ケリーが監督した映画は日本では5月に公開されるが、IMDBで5.9と低い点数が付いている。膨らませ方を間違ったのかもしれない。この監督、「高慢と偏見とゾンビ」も監督するという。この原作も面白いのに期待薄か。

マシスンの長編は「地獄の家」(「ヘルハウス」の原作)「ある日どこかで」「吸血鬼」(「アイ・アム・レジェンド」原作)「縮みゆく人間」「奇蹟の輝き」「激突」など映画化作品が多い。短編もテレビの「ミステリーゾーン」などで相当に映像化されている。その数は作家の中では一、二を争うのではないか。この短編集の収録作品では表題作のほか、「針」「死の部屋のなかで」「四角い墓場」「二万フィートの悪夢」が映像化されたそうだ。この中で最も有名なのはオムニバス「トワイライト・ゾーン 超次元の体験」の第4話となった「二万フィートの悪夢」だろう。ジョージ・ミラーが監督した映画はジョン・リスゴーが飛行機恐怖症の男を演じて面白かった。脚本もマシスンが書いたそうだが、原作を読んでみると、ほぼ原作通りの映画化だったことが分かる。

「四角い墓場」はリー・マービン主演で「ミステリーゾーン」の枠で映像化されたという。アンドロイド同士のボクシングの試合に、壊れたアンドロイドの代わりに出場する羽目になった男の話。鋼鉄(スティール)のケリーと言われた元ボクサーの主人公は男気があって、いかにもリー・マービンらしいキャラクターなので、映像化作品も評判がいいそうだ。これはヒュー・ジャックマン主演、ショーン・レヴィ監督で「Real Steel」として映画化が決まっている。公開は2011年秋。今のVFXを使えば、リアルなアンドロイドが見られるだろう。

このほか、殺しても殺しても帰ってくる「小犬」、不気味な「戸口に立つ少女」の2編のホラー作品も良い。映像化作品が多い作家というと、冒険小説ファンならアリステア・マクリーンを思い出すだろう。「女王陛下のユリシーズ号」など硬派の作品を書いていたマクリーンは後年、映像化をあてにしたような作品が多くなって映画原作屋とも言われたが、マシスンの場合はこの短編集を読むと、単に原作が面白すぎるから映像化作品が多いのだということがよく分かる。

マシスンは1926年2月生まれだから84歳。もう新作は無理だろうが、過去の作品はどれも古びていない。未訳の短編を今後も出版してほしいものだ。

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「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」

「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」

「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」

買ったのは昨年7月。これがミレニアムシリーズの最後の1冊かと思うと、もったいなくて読む気にならず、昨年12月から読み始めたが、他の本も並行して読んでいたために途中で中断。映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」を見たことでようやく再開、読み終えた。

第2作「火と戯れる女」のラストから始まる直接的な続編である。第1作の「ドラゴン・タトゥーの女」から少しずつ描かれてきたリスベット・サランデルの過去が第2作ですべて明らかになり、今回は少女時代のリスベットに不当で残虐な仕打ちをした公安警察の一部に対する決着が図られる。下巻の終盤、裁判の場面がこの小説の白眉。主人公ミカエル・ブルクヴィストの妹で弁護士のアニカ・ジャンニーニの弁護の手腕が鮮やかだ。そしてここで強調されるのは第1作の原題でもあった「女を憎む男たち」というテーマ。解説の池上冬樹も引用しているけれども、ミカエルはアニカにこう言う。

「だから言ったろ、この裁判にはおまえがうってつけだって。この事件の核心は結局のところ、スパイとか国の秘密組織じゃなくて、よくある女性への暴力とそれを可能にする男どもなんだ」

人権派のジャーナリストだった作者のスティーグ・ラーソンらしい言葉だ。ミレニアムシリーズはミステリのいろんな要素を集めたエンタテインメントであるけれども、こうした芯の硬さが作品の魅力になっていると思う。

リスベットは前作の最後で瀕死の重傷を負い、本書の上巻は病院に入院しているのであまり動きがない。リスベットファンとしては残念なのだが、終盤に活躍の場面が用意されている。第2作で行方をくらました金髪の巨人との決着が待っているのだ。

リスベットの妹の動向が分からないという部分は残っているのだけれど、ミレニアムシリーズはこの第3部まででリスベットの話としては完結している。作者が急逝したために予定されていた第4部、第5部は幻となってしまったが、ミステリ史に残る傑作であることは間違いないと思う。

ちなみに映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」の字幕監修はこの原作の共同翻訳者であるヘレンハルメ美穂が当たっている。この映画のパンフレットにはラーソンの唯一のインタビューが掲載されている。その中でラーソンは「推理小説を読んでいて、苛立つことがあります。それは、主要人物が通常ひとりからふたりに限られていて、しかもその人物の属する社会の外の環境描写に欠けていることです」と語っている。ミレニアムシリーズにさまざまな多くの人物が登場するのはその苛立ちを払拭するためだったのかもしれない。

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「オッド・トーマスの受難」

「オッド・トーマスの受難」

「オッド・トーマスの受難」

ディーン・クーンツの、霊が見える青年オッド・トーマスを主人公にしたシリーズ第2作。第1作「オッド・トーマスの霊感」の解説で瀬名秀明が「ストレートなプロットが採用されているため意外性に乏しく、心の傷が癒えないオッドの語り口もユーモアに欠け、一本調子だ。まるで二作目の悪いところが出てしまった新人作家のようである」と書いていたので、それほど期待せずに読み始めた。確かにストレートな話だし、1作目で深く心に残ったひどい両親の描写もなく、1作目ほどの完成度はないのだけれど、そこらの小説よりはよほど面白い。ステップアップするらしい3作目を読むためにも読み逃してはいけない作品だと思う。

オッドの親友ダニー・ジェサップの義父が殺され、ダニーが何者かに拉致される。ダニーは骨形成不全症で骨が極端に脆い。拉致は刑務所を出たばかりの嫉妬深い父親サイモン・メイクピースの仕業と思われたが、オッドがダニーの行方を捜しているうちに正体不明の邪悪な犯人の仕業であることが分かる。オッドは霊的磁力を駆使してダニーの居場所を突き止め、廃墟のホテルで犯人たちと対決する。

この小説で心引かれるのはクーンツのキャラクター描写だ。椅子に固定され爆弾を仕掛けられたダニーを見つけたオッドとダニーの会話。

ダニーは首を横に振った。「おれのために君を死なせたくない」
「じゃあ、ぼくはだれのために死ねばいい? 見ず知らずの他人のためにか? そんなことしてなんになる? 彼女はだれなんだ」
彼はいかにも自嘲的なうなり声を発した。「おれがろくでもない負け犬だってことがばれちまう」
「きもは負け犬じゃない。きみは変人で、ぼくも変人だけど、どちらも負け犬じゃない」

彼女とは犯人グループのボスであるダチュラのこと。邪悪なダチュラはこう描写される。「神話のなかでは、サキュバスというのは美しい女性の姿をした悪魔で、男とセックスをしてその魂を奪うとされている。ダチュラの顔も身体も、まさにそんな淫魔を絵に描いたようだった」。そしてダチュラの狙いはオッドの霊的能力にあった。

クーンツという作家はモダンホラーから出発した人なので、スティーブン・キングと同タイプの作家という認識を持っていた。このシリーズを読むと、キングとクーンツのはっきりとした違いが分かる。少なくともこのシリーズはオッドという主人公とそれを取り巻く警察署長のワイアット・ポーターや作家のリトル・オジー、ダイナーの店主テリ・スタンボーらがしっかりと描写されていて、そこに物語の深みが生まれているのだ。3作目でオッドはこうした理解者のいるピコ・ムンドの町を離れるらしい。どういう展開になるのか楽しみだ。

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「私の中のあなた」

「私の中のあなた」

「私の中のあなた」

読んだ動機が映画(感想は「私の中のあなた」: Sorry, Wrong Access)との結末の違いを確認するためだったので、あまり良い読み方とは言えない。ほとんど映画と同じ話なので、家族愛ものとしてよくまとまっているというぐらいの感想しか出てこない。しかし問題の結末は驚いた。こういう展開にするとは思わなかった。原題の「My Sister’s Keeper」、邦題の「私の中のあなた」に合いすぎる内容なのだ。合いすぎて厳しすぎて不快に思う人もいるのではないか。これを短編でやられたら、本を投げ捨てるだろう。映画にも向かなかったと思う。結末を変えて映画は正解だった。

同時にこれは遺伝子操作で出産するデザイナー・ベイビーに対する作者のジョディ・ピコーの考え方を表したものでもあると思う。映画があいまいに終わらせていた部分をはっきり描いているのだ。姉のドナーとして妹を出産するということが是か非か、それが浮き彫りになる。

映画とは登場人物の設定などに細かい違いがある。一番の違いはアナの弁護士キャンベルの元恋人で訴訟後見人のジュリアが出てくること。キャンベルとジュリアの高校時代からの関係がキャンベルの病気を絡めて描かれる。キャンベルは高校時代、突然、ジュリアを捨てる。事故によって病気になったキャンベルは両親にもそれを隠していたのだ。それが映画でも描かれた裁判の中での発作で周囲に明らかになり、キャンベルとジュリアは復縁を果たす。

「それともうひとつ、今度はあなたがわたしと別れるんじゃない。わたしがあなたと別れるのよ」
その言葉はぼくの気持ちをさらに落ち込ませる。傷ついた顔を見せまいとするが、今はそのエネルギーの持ち合わせがない。「だったら、もう行ってくれ」
ジュリアは僕に寄り添って言う。「ええ、そうする。あと50年か60年経ったらね」

ただ、これは本筋にあまり絡まない部分なので映画で省略しても差し支えないだろう。こういう部分まで描いていたら、映画は長くなりすぎるし、焦点もぼけたかもしれない。

映画で印象的だったケイトとテイラーの短い恋のエピソードは40ページ足らずしかなく、本と映画との描こうとしたものの違いがよく分かる。映画の主人公はあくまでもケイトなのだ。登場人物のそれぞれの視点から物語を語る手法は映画で序盤に使われていたが、小説はこれで統一されている。ケイトの視点はエピローグにしか登場しない。映画はテーマを突き詰めず、家族愛・難病ものにしてしまっているのが欠点だが、この原作の映画化として、まとめ方はそれしかなかったのだろうなと思う。

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