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「粘膜蜥蜴」

遅ればせながら、飴村行の粘膜シリーズにはまった。4作すべて読んだが、ベストはこれ。第弐章「蜥蜴地獄」の秘境冒険SFの部分がたまらない。ページをめくる手が止まらない面白さだ。肉食ミミズだの、巨大なゴキブリだのが攻撃してくる東南アジア・ナムールのジャングルの描写は貴志祐介「新世界より」の奇怪な生物たちがかわいく見えてくるほど。

日本推理作家協会賞受賞作なので、ミステリの部分も申し分ない。グチャグチャグッチョンの描写があるのに、ラストには切なさが横溢しており、この小説の余韻を深いものにしている。傑作としか言いようがない。

粘膜シリーズには河童や爬虫人ヘルビノなどが登場してくる。だから粘膜なのかと思ったが、作者インタビュー(http://bookjapan.jp/interview/090114/note090114.html)によれば、「粘膜というと卑猥なイメージがあるでしょう。グロテスクで、さらに卑猥というイメージ。河童が代表例なんですけど、この小説の登場人物はみんなそういう、グロテスクでどこか卑猥という印象があると思います。だから、登場人物をすべて象徴する言葉として粘膜を当ててみたわけなんです」ということなのだそうだ。

これ、映画化かアニメ化ができないものかと思う。そのまま映像化すると、R-18は避けられないだろうが、監督は三池崇史が適任なのではないかと思う。

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「連合赤軍物語 紅炎(プロミネンス)」

「連合赤軍物語 紅炎」

「連合赤軍物語 紅炎」

「今から振り返ってみれば、左翼の運動だといわれていたものが全部右翼に見える」という中上健次の言葉を解説の鈴木邦男が引用している。確かに革命左派(日本共産党革命左派神奈川県常任委員会)をはじめ当時の左翼が唱えた「反米愛国路線」は幕末の「尊皇攘夷」と変わらないように見える。反米愛国なんて右翼が唱えても何らおかしくはない。

塩見孝也を中心にした赤軍派誕生の経緯から始まり、連合赤軍中央委員会委員長・森恒夫の獄中での自殺で終わるノンフィクション。連合赤軍事件の全体像をつかむのに絶好のテキストと言える。著者の山平重樹はヤクザや右翼関係の著書が多い人で、自身も民族派学生運動をしていたそうだ。全体像を俯瞰するのに、対象に近すぎる人は向かないから、鈴木邦男が言うように連合赤軍について書く著者として山平重樹はふさわしいのだろう。

よど号事件、山岳ベース事件、あさま山荘事件にはそれぞれ1章を割いている。総括によって12人の男女がなぶり殺しにされた山岳ベース事件に関して言えば、左翼がどうの革命路線がどうのと言うより、リーダーになってはいけない狭量な人物がリーダーになってしまったために起きた悲劇という以上の意味はないように思う。

ここで映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2007年、若松孝二監督)の感想を読み返してみたら、なんだ僕は同じことを書いているじゃないか。

「山岳ベース事件はリーダーの器ではなかった卑小な男女がリーダーになってしまったために起きた事件だろう。森恒夫も永田洋子も共産主義と武力闘争に忠実であるように見えて実は自分勝手なだけである。赤軍派と革命左派の幹部が次々に逮捕されて組織が弱体化していたために生まれた連合赤軍はこういうバカな人間たちがリーダーにならざるを得なかったのが悲劇の始まりだ」。

この感想はこの本を読んだ後でも変わらないわけである。ただし、連合赤軍以前からブント(共産主義者同盟)の中での内ゲバはあったし、リンチもあった。ちょっとした考え方や路線の違いから相手を排除する狭量さは、こうした流れと無関係ではないのだろう。

あさま山荘や山岳ベース事件、よど号事件は知っていても、そこに至る経緯を僕は表面的にしか知らなかった。この本はそこを十分に詳しく教えてくれる。

過激派が登場する前の「牧歌的な学生運動」について心に残るのは本書の200ページから描かれる東大安田講堂攻防戦のエピソード。屋上で最後まで旗を振った明大の上原敦男が後年、紛争当時の警視総監と語った話である。安田講堂を占拠した学生たちの中には階段を上がってくる機動隊員に対してガソリンをかけ火だるまにしようという意見があったそうだが、当時の学生たちにはまだ真っ当さがあり、それは禁じられた。

ずっと後年になって上原は何かのパーティで、先輩から参議院議員の秦野章を紹介されたことがあった。東大闘争当時の警視総監である。
おのずと安田講堂攻防戦の話になって、秦野が、
「僕はあのとき、学生に死者を出さないということを一番に考え、同時にうちの子らにも死者を出さないことを願ったんです」
と言った。「うちの子ら」とは、機動隊員のことだ。
そこで上原も、例のガソリンを撒くことを禁じたという話をした。
すると、秦野は感動した面持ちになり、
「今日はありがたい話を聞かせてもらった」
と上原に深々と頭を下げたという。

1人の死者も出さなかった「よど号事件」まではまだ良かった。当初はキューバへ向かう予定が、途中で燃料給油しないと行けないことが分かると、とりあえず北朝鮮に行き先を変えるあたりのアバウトさは牧歌的と言えないこともない。乗客とハイジャックグループとの間にストックホルム症候群のような関係が生まれたというのも分かる話である。ちなみに乗客の中に日野原重明がいたというのは有名な話らしいが、僕は知らなかった。

山岳ベース事件と逃走途中の苦し紛れとしか思えないあさま山荘事件は徹底的に批判しても足りないぐらいだが、本書の前半で僕が感じたのは考え方の若さ。出てくる関係者は大学生が中心だからいずれも20代前半。その倍以上の年齢になってこうした闘争の経緯を読むと、頭でっかちの若さと短絡的な考え方が目に付いてしまうのだ。もっとも若くなければ、革命なんて目指そうとは考えないだろう。

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「運命のボタン」

「運命のボタン」

「運命のボタン」

リチャード・マシスンの短編集。13編収録されているが、バラエティに富んでいてどれも面白く、買って損のない短編集だ。

表題作はキャメロン・ディアス主演映画の原作。ボタンを押せば5万ドルもらえる代わりに誰か知らない人間が死ぬ。その装置を預けられた夫婦はどうするか、という話。20ページと短く、ショートショートによくあるようなオチが付いている。これを映画にするには相当に膨らませなくてはいけないだろう。リチャード・ケリーが監督した映画は日本では5月に公開されるが、IMDBで5.9と低い点数が付いている。膨らませ方を間違ったのかもしれない。この監督、「高慢と偏見とゾンビ」も監督するという。この原作も面白いのに期待薄か。

マシスンの長編は「地獄の家」(「ヘルハウス」の原作)「ある日どこかで」「吸血鬼」(「アイ・アム・レジェンド」原作)「縮みゆく人間」「奇蹟の輝き」「激突」など映画化作品が多い。短編もテレビの「ミステリーゾーン」などで相当に映像化されている。その数は作家の中では一、二を争うのではないか。この短編集の収録作品では表題作のほか、「針」「死の部屋のなかで」「四角い墓場」「二万フィートの悪夢」が映像化されたそうだ。この中で最も有名なのはオムニバス「トワイライト・ゾーン 超次元の体験」の第4話となった「二万フィートの悪夢」だろう。ジョージ・ミラーが監督した映画はジョン・リスゴーが飛行機恐怖症の男を演じて面白かった。脚本もマシスンが書いたそうだが、原作を読んでみると、ほぼ原作通りの映画化だったことが分かる。

「四角い墓場」はリー・マービン主演で「ミステリーゾーン」の枠で映像化されたという。アンドロイド同士のボクシングの試合に、壊れたアンドロイドの代わりに出場する羽目になった男の話。鋼鉄(スティール)のケリーと言われた元ボクサーの主人公は男気があって、いかにもリー・マービンらしいキャラクターなので、映像化作品も評判がいいそうだ。これはヒュー・ジャックマン主演、ショーン・レヴィ監督で「Real Steel」として映画化が決まっている。公開は2011年秋。今のVFXを使えば、リアルなアンドロイドが見られるだろう。

このほか、殺しても殺しても帰ってくる「小犬」、不気味な「戸口に立つ少女」の2編のホラー作品も良い。映像化作品が多い作家というと、冒険小説ファンならアリステア・マクリーンを思い出すだろう。「女王陛下のユリシーズ号」など硬派の作品を書いていたマクリーンは後年、映像化をあてにしたような作品が多くなって映画原作屋とも言われたが、マシスンの場合はこの短編集を読むと、単に原作が面白すぎるから映像化作品が多いのだということがよく分かる。

マシスンは1926年2月生まれだから84歳。もう新作は無理だろうが、過去の作品はどれも古びていない。未訳の短編を今後も出版してほしいものだ。

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「オッド・トーマスの受難」

「オッド・トーマスの受難」

「オッド・トーマスの受難」

ディーン・クーンツの、霊が見える青年オッド・トーマスを主人公にしたシリーズ第2作。第1作「オッド・トーマスの霊感」の解説で瀬名秀明が「ストレートなプロットが採用されているため意外性に乏しく、心の傷が癒えないオッドの語り口もユーモアに欠け、一本調子だ。まるで二作目の悪いところが出てしまった新人作家のようである」と書いていたので、それほど期待せずに読み始めた。確かにストレートな話だし、1作目で深く心に残ったひどい両親の描写もなく、1作目ほどの完成度はないのだけれど、そこらの小説よりはよほど面白い。ステップアップするらしい3作目を読むためにも読み逃してはいけない作品だと思う。

オッドの親友ダニー・ジェサップの義父が殺され、ダニーが何者かに拉致される。ダニーは骨形成不全症で骨が極端に脆い。拉致は刑務所を出たばかりの嫉妬深い父親サイモン・メイクピースの仕業と思われたが、オッドがダニーの行方を捜しているうちに正体不明の邪悪な犯人の仕業であることが分かる。オッドは霊的磁力を駆使してダニーの居場所を突き止め、廃墟のホテルで犯人たちと対決する。

この小説で心引かれるのはクーンツのキャラクター描写だ。椅子に固定され爆弾を仕掛けられたダニーを見つけたオッドとダニーの会話。

ダニーは首を横に振った。「おれのために君を死なせたくない」
「じゃあ、ぼくはだれのために死ねばいい? 見ず知らずの他人のためにか? そんなことしてなんになる? 彼女はだれなんだ」
彼はいかにも自嘲的なうなり声を発した。「おれがろくでもない負け犬だってことがばれちまう」
「きもは負け犬じゃない。きみは変人で、ぼくも変人だけど、どちらも負け犬じゃない」

彼女とは犯人グループのボスであるダチュラのこと。邪悪なダチュラはこう描写される。「神話のなかでは、サキュバスというのは美しい女性の姿をした悪魔で、男とセックスをしてその魂を奪うとされている。ダチュラの顔も身体も、まさにそんな淫魔を絵に描いたようだった」。そしてダチュラの狙いはオッドの霊的能力にあった。

クーンツという作家はモダンホラーから出発した人なので、スティーブン・キングと同タイプの作家という認識を持っていた。このシリーズを読むと、キングとクーンツのはっきりとした違いが分かる。少なくともこのシリーズはオッドという主人公とそれを取り巻く警察署長のワイアット・ポーターや作家のリトル・オジー、ダイナーの店主テリ・スタンボーらがしっかりと描写されていて、そこに物語の深みが生まれているのだ。3作目でオッドはこうした理解者のいるピコ・ムンドの町を離れるらしい。どういう展開になるのか楽しみだ。

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「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは顔の造作+他人が勝手に読み取る内面情報」と書いてあるのにすごく納得。常々思っていたことだからだ。美人と思う芸能人、ブスと思う芸能人というアンケートで、黒木瞳が美人にもブスのリストにも入っていたというのにも納得。黒木瞳の顔かたちは整っているけれども、僕は女性としての魅力は一切感じない。黒木瞳から受ける内面情報が僕の嫌いなタイプであることを示しているからだ。

岡田准一と共演した「東京タワー」なんてその最たるものだった。この人、「自分は美人よ」という意識がふつふつと全身から発散されていて、それがどうも僕には合わない。もちろん、他人が受け取る内面情報が正しいとは限らないから、ちょっとしたことで嫌いから好きに変わることもあり得る。つまり人がある人を美人かどうかを判断するということはその人を好きかどうかということであり、その人の内面も判断基準に大いに関係しているのだ。

クスクス笑いながら、いろんな指摘に納得できて、とても面白い本だ。女性は必読。目からうろこが落ちるほどではないが、男が読んでももちろん面白い。著者の中村うさぎは美容整形をしたが、その理由は「顔について、これ以上、他人からあれこれ言われたくない」ということであり、男にもてるためではなく、あくまでも自分のためという。自立した女であるバービー人形のようなビジュアルが理想なのだそうだ。

くらたま(倉田真由美)は、「女の価値は男が決定する」と思っている。しかし、私はそうは考えない。女の価値を決定するのは、同性の女たちなのである。そして、バービーは「男の欲情のシンボル」ではなく「女の欲望のシンボル」であるがゆえに、女たちからは熱い羨望の眼差しを注がれ、彼女たちのボディイメージの理想モデルとなりうるのだ。
言い換えれば、バービーの肉体が意味しているのは「セックス」ではなく、「ファッション」なのである。

そして、整形をした結果、「自分の顔にまつわる面倒な自意識を手放した」。

ブスなのか美人なのか、と、他人の評価に揺れ動くこともなくなった。ブスか美人かは他人が判断することかもしれないが、好みの顔かどうかは私が判断することだ、と、自分で顔を選択した今なら、堂々と言えるからである。
自意識の安定……結局、我々が求めるのは、それではないか。他人の評価は安定しないし、信用できない。しかし、自分の好みは、自分で決めればいいんだもの。

さて、それでは内面情報はどうなのか。美人が発する内面情報を著者は「美人オーラ」と言う。美人オーラの三大要素は気品、知性、優しさ。お薦めは優しさだそうだ。気品や知性は本物の中身がある程度備わっていないと、メッキが剥げた時にかえってヤバイ。付け焼き刃の『気品』や『知性』は、あっという間に見透かされて、「何よ、上品ぶっちゃって」「頭いいふりしてるけど、じつはバカなんじゃん?」ということになり、美人オーラのつもりが強力なブスオーラになってしまうからだ。

僕も美人は好きだが、嫌いな美形の女性というのも数多く存在し、それがつまりはその人が発散する内面情報によるものなのだ。この本を読むと、女性が顔の美醜という基準に振り回されていることがよく分かる。それを形成しているのは根本的には連綿と続いてきた男社会なのではないかと思う。

著者の美人論のほかに、巻末には対談が二つ付いている。その中の一つ、もてない男・小谷野敦との対談で、「実家が金持ちであったらモテただろうと思いますけど」という発言に対して中村うさぎが「ううーん、どうしてそっちに行くかな」と言っているのはちょっと違うと思った。

女性が美人であることと、男が金持ちであることは同じという指摘を以前、小林信彦の本で読んだ。それはハワード・ヒューズの言葉だったか、映画で描いていることだったか忘れたが、そういうことなのである。男の魅力に経済力が関係ないとは言わせない。おとぎ話でお姫様が結ばれるのはハンサムである上に裕福そうな「白馬に乗った王子さま」であり、ハンサムではあるけれど金はない「白馬に乗ったホームレス」では決してない。

すべての経済力のある男がもてるわけではないし、経済力のない男がもてないわけでもないが、それは美人でももてない女性や美人じゃないのにもてる女性がいるのと同じこと。男と女では評価の基準が違うのだ。

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