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「しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか」

2009 年 7 月 3 日 金曜日
「しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか」

「しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか」

「私とマリオ・ジャコメッリ」と同じく、これもNHKのテレビ番組(2月に放送されたETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」)を再構成し、大幅に拡充した本。「マリオ・ジャコメッリ」同様に200ページ足らずの本である。僕はこの番組を見ていないが、大きな反響を呼んだのだそうだ。

辺見庸は脳出血とガンと脳梗塞にかかっており、恐らくガンが完治したかどうかはまだ分からない状態なのだろう。右手はよく動かず、左手で携帯電話に入力した文章をパソコンに送って書いているという。世界の機能不全について書いたこの本を読むと、自分が死の淵にいるからこういう本を書いたのではないかと思ってしまうが、それを見透かすように本書の終盤にはこうある。

「あんたは躰が悪いし、脳出血で、がんにもなっているから、自分の身体の機能不全と世界の終末というか、世界の機能不全っていうのを二重うつしに、いっしょくたにしているんじゃないか」「自分の先が短いから、世界についてもそういうんじゃないか」と人はおもうのではないかと、僕は意地悪く想像している。
でも、自分があとわずかしか生きられないから、死なばもろともで<世界もひどくなれ>とは全然思わない。それはまったく別の問題です。

しかし、死を間近に意識している人が世界の破局を意識するというのは少しも違和感がない。いや、大いにありそうなことだと思える。

本書は金融恐慌に始まって秋葉原事件や派遣切り、ホームレス、新型インフルエンザ、壊れた資本主義、戦死者に匹敵する年間3万人以上の自殺者などなど同時進行的に進む世界の破局の様相に触れている。破局の同時進行は人間的な価値観が壊れているからであり、その価値を見直す必要があるというのが一貫した主張だ。著者はこう言う。

民主主義というのははたして労働者に奉仕していたのか、それとも市場・資本・国家に奉仕していたのかというつよい疑問があります。現在のように労働者の大量解雇をくりかえし、資本がかつてなく露わに暴力化しつつある段階では、それに抗う者たちの思想性と持久力、闘争力がリアルに問われる。断末魔の資本主義は貧困の大量生産という暴力にうってでているのです。

労働組合が弱体化し、労働者は企業に都合の良い派遣やアルバイトの形となり、企業の思うとおりに何でもできる社会。いわば企業の奴隷と化した社会。不況だから人件費を抑制するのは仕方がない、とは言わせない。これは空前の好況と言われた時も同じ構造だったのだから。世界的な不況に陥って問題が表面化しただけのことなのだ。社会を覆う閉塞感の要因はこうした企業に有利な、労働者が抵抗できないシステムにある。それが人の心の荒みも生み、秋葉原事件のような事件が起きる。

辺見庸はマルクスやケインズやマクルーハンなどある意味懐かしいとさえ感じる先人の考え方を引きながら、こうした事象を検証していく。現在が資本主義のもたらす欠陥そのままの社会になっていることに慄然とせざるを得ない。このシステムを変える力はまだどこかに残っているのだろうか。そんなことを考えさせられる。

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「私とマリオ・ジャコメッリ <生>と<死>のあわいを見つめて」

2009 年 6 月 16 日 火曜日
「私とマリオ・ジャコメッリ」

「私とマリオ・ジャコメッリ」

マリオ・ジャコメッリはイタリアのアマチュア・カメラマンで、2000年に死去した。作品は世界的に高い評価を受けているそうだが、日本で本格的に紹介されたのは昨年3月から5月まで東京で開かれた写真展「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」による。この本は昨年5月に放送されたNHK日曜美術館の「この人が語る私の愛する写真家 辺見庸 私とマリオ・ジャコメッリ」を元にして大幅に加筆したもの。100ページ余りの薄い本だが、内容は堅い。

辺見庸は5年前に脳血管障害で生と死の間をさまよった。ジャコメッリも20代のころ、自動車レース中の事故で瀕死の重傷を負った。そうした体験はその後の作品に大きな影響を与えるという。辺見庸はジャコメッリの作品について、こう書く。

かれの映像は見る者の無意識と身体に、しばしば予想をこえるつよさで「作用」してくる。つまり、映像によって心にあるいは躰の奥に<刺青>が彫られるような不思議な感覚を覚えるのである。それは感動などというクリシエではおおいつくせはしない特別の感覚である。眠っていた記憶の繊毛たちがいっせいにさわさわと動きだし、見る者はいつしか、語ろうとして語りえない夢幻の世界への回廊を夢遊病者のようにあるいているのだ。

そしてジャコメッリの作品には異界=死が漂っていると指摘する。確かに、本書に収録されたモノクロームの写真には死の雰囲気が漂う。小さな村「スカンノ」やホスピスの人々は死と隣り合わせにいるように、あるいは死者の世界の人のように異様に写し取られている。よく白黒映画なのにカラーを感じると言う時があるけれども、ジャコメッリの作品には風景を写したものでさえ、カラーを感じない。白と黒があるのみだ。しかし、この白と黒は深い意味を感じさせる。それはとりもなおさず、死をイメージさせるからなのだろう。

英語のフォトグラフに写真という訳語を当てたのは不幸だった、と辺見庸は言う。これによって写真は真実を写し取るものという無意識の制限が生まれるからだ。合成写真もあるというジャコメッリの作品は写真による表現を追い求めたもので、ここにはやらせなどという低次元のものはない。写真で映画のようにフィクションを意図しても全然構わないのだ。

辺見庸の本を読んだのはあの傑作「もの食う人々」以来。「私とマリオ・ジャコメッリ」を買った後、書店の文庫本コーナーで立ち読みしたら、最後の従軍慰安婦の場面でやっぱり胸をかきむしられるような気分になった。以前読んだ本は倉庫の段ボール箱の中にあり、なかなか読めないので、思わず買ってしまいそうになった。

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