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「黒澤明という時代」

「黒澤明という時代」

「黒澤明という時代」

黒澤明の映画をデビュー作の「姿三四郎」からリアルタイムで見てきた小林信彦がDVDで全作品を見直して書いた作品論・作家論。黒澤作品のどれを見るべきかがよく分かる本で、読んでいて僕は「野良犬」「酔いどれ天使」「わが青春に悔いなし」などを無性に再見したくなった。

20年ほど前にビデオで「天国と地獄」を見た時に「ごく控えめに見ても大傑作」と思った。完璧な映画の出来もさることながら、主人公の三船敏郎が演じる権藤という男のキャラクターにしびれたのだ。職人気質で頑固である半面、間違い誘拐の身代金を出すことを決意する権藤の在り方はほとんどハードボイルドだと思った。学生時代に名画座で「羅生門」を見た時、ラストの取って付けたようなヒューマニズムに違和感を覚えたが、「天国と地獄」ではヒューマニズムが作品と一体になっていた。ちょうどその頃、小林信彦はこの映画について「失敗作」と書いていたと記憶する。これはつまらないという意味ではなく、警察の描き方などを指した言葉だったと思う。この本の中には「文句なしに面白い『天国と地獄』」という第15章に触れてある。少し引用する。

そこでの熊井啓氏の発言は、その<問題>に関してである。仲代扮する戸倉警部が、このまま犯人をあげても刑期十五年で終ってしまうから、犯人を泳がせておいて、(共犯者二人殺しの)さらに動かぬ証拠をつかもう、と断言する件りだ。警部は犯人を極刑に持ってゆくつもりだが、犯人は計算外の動きをしてしまう。
(中略)
<何度見てもおもしろい。見るたびに新しい発見がある。>
と、ためらいなく日本人(芝山幹郎氏)が評価するのは、長い時を経てからであった。

小林信彦が高く評価する黒澤作品はこの「天国と地獄」まで。僕はこの後の「赤ひげ」にも感心したが、小林信彦は「完璧なテクニックだけの映画」としている。何か言ってやろう、何か見せてやろうというものがないからだ。

僕らの年代では封切り時に劇場で見ることができた黒澤作品は「デルス・ウザーラ」(1975年)以後だ。といっても「デルス・ウザーラ」は劇場では見なかったので、僕が実際に封切りで見ているのは「影武者」(1980年)以降の5作品にすぎない。その中で本当に感心したのは「乱」だけだった。映画は劇場で見なければいけない、というのは特にスケールの大きな黒澤作品の場合、あてはまることだが、同時に時代性というのは封切りで見ないと分からないためもある。作品的な評価だけでなく、封切り時の時代の空気を伝えるのがこの本の目的でもあっただろう。

黒澤作品のほとんどはテレビ放映時に録画したビデオを持っていたが、カビがはえたので全部捨ててしまった。DVDでそろえようかと思うが、これから買うならブルーレイの方が良いかもしれない。

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「B型の品格 本音を申せば」

「B型の品格 本音を申せば」

「B型の品格 本音を申せば」

鹿児島のOさんと電話で話していて、「出ましたね」と教えられた。週刊文春の連載エッセイ「本音を申せば」をまとめた小林信彦のこの本をOさんも毎年楽しみにしているのである。昼休み時間に会社のそばの大きな書店で探した。エッセイコーナーにあるだろうと見当を付けていたが、なかなか見つからない。他のコーナーも探し、再びエッセイコーナーに戻ってようやく見つけた。平積みになっていても、本が多いとなかなか見つからないのだ。大きな書店は何の目的もなくふらりと入って、たくさん並んでいる中から本を選ぶ楽しみはあるが、目当ての本を探す時には時間がかかる。こういう時、amazonに頼もうかと思ってしまう。 書店には検索機械もあったが、触っても反応しなかった。僕の操作の仕方が悪かったのか。

僕にとって小林信彦のエッセイを読む楽しみは自分の映画の見方が大丈夫かどうかを確認することにある。リアルタイムで週刊誌の連載を読んでいれば、映画観賞ガイドとしての機能もあるのだろうが、1年分をまとめて読む場合は前年に公開された映画の見方の確認が主な役割となるのだ。

内田けんじの「アフタースクール」について小林信彦はこう書いている。

ラストで、パズルのピースがみごとにはまり、全体の図(ストーリー)が完成したとき、なるほど、こういう話だったのかと感心した。<頭を使った脚本>ではあるが、それだけではない、ほのぼのとした味がある。

自分がどんな感想を書いたか気になったので、Sorry, Wrong Access: 「アフタースクール」を読み直してみる(元はmixiに書いた日記をコピーしたもの)。

個人的には大技に比べて、終盤の展開はややドラマ的に弱く、少しバランスが取れていない感じを受けた。ドラマ的な弱さは構成と関係してくるので難しいのだが、ここをもっと強化すれば、映画は完璧になっただろう。ただし、内田けんじ監督の良さはこういう軽いほのぼの感にあるのだと思う。

まあ、「ほのぼの」が一致しているのでいいだろう。しかし、この本で取り上げられたこれ以外の映画はほとんど見ていない。「接吻」「相棒 劇場版」「ICHI」「その土曜日、7時58分」など。これはDVDを借りてみようと思う。特に「接吻」が見たい(これと「その土曜日、7時58分」は宮崎映画祭で上映するけど)。ニコール・キッドマン主演で劇場公開はされなかった「マーゴット・ウェディング」も見たいと思った。

タイトルのB型に品格に関しては5回に分けて書いてある。僕は血液型による人の分類は占い程度のものと考えている。血液型の本に書いてあることが当たってるように思えるのは大まかに当てはまることしか書いてないから。アメリカなら人種や民族で分けるところを、日本はほぼ単一民族だから、こういうもので分類しないと分けようがないのだろう。もし血液型で人のタイプが分類できるというなら、環境が異なるA型のエスキモーとA型のアボリジニが同じタイプだったというような統計的データを示してほしいものだ。小林信彦自身、「この連載のために、いま出ている血液型人間学の本をパラパラ見たが、こりゃダメだと思った。A型男性はこう、A型女性はこう、という風に決めつけているからだ」と書いている。まあ、それでもここで小林信彦が書いている自分の周囲や芸人の血液型に関するエピソードは読み物として面白い。

週刊文春の連載は映画のほかに政治、世相、東京のことなどを取り上げることが多く、本書のオビに書いてあるように「クロニクル(年代的)時評」の様相が濃かった。これまでに10冊出ている本もそうだったが、今回は映画に関する文章が多い。あとがきによれば、これは「某新聞に連載していた映画のコラムをやめて、新旧の映画のことが気をつかわずに書けるようになった」ためだそうだ。

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「昭和のまぼろし 本音を申せば」

週刊文春に連載されている小林信彦のエッセイをまとめた8冊目の本。自宅に帰ったら、届いていたので読む。疲れていたので読み始めてしばらく寝てしまい、起きてまた読み、実家に行って酒を飲んだ後も読み、帰ってまた読んで読み終えた。小説はなかなか読み終わらないのにこういうエッセイはすらすら読める。というか、小林信彦の本は好きなので、読めるのだ。

毎回感じることだが、論旨のはっきりしている文章を読むとほっとする。この本の中にも「今のような異常な時代になると、<意見がブレない>ことが何よりも大切だと思う。田中知事には日常の別の戦いがあり、麻木久仁子は家庭・子供を守るという立脚点がある。二人とも、外からの強風によって<ブレない>信用があるのだ」(105ページ)とある。

小泉首相批判は以前から徹底していて、「小泉なにがしという小派閥の手代がヒトラーまがいの暴政で国民を苦しめる」(109ページ)という表現がある。今の日本が完璧に戦前の雰囲気になったのは間違いないようだ。小泉首相もあと少しの任期だが、その後が問題。今より良くなるか悪くなるか。一番人気の人ではたぶん悪くなる方に行きそうな気がする。

映画に関しては「ビヨンドtheシー」「ミリオンダラー・ベイビー」「スター・ウォーズ シスの復讐」「奥様は魔女」「タッチ」などに触れてある。 「タッチ」の長澤まさみについて、はっきりスター性があると書いている。スターというのはあくまでも主役を張れる俳優のことで、演技はうまくてもどこまでいっても脇役でしかない俳優がほとんどなのだ。

「本音を申せば」

鹿児島のOさんからの手紙に「もう買いましたか」と書かれていた。小林信彦の週刊文春のエッセイをまとめた本のことである。Oさんも小林信彦のファンで以前、電話で「昨年の分はまだ出ないんですかね」という話をしていた。これで7冊目だそうである。

毎年この本を買うのは僕自身の映画の見方が間違っていないかどうかを確認するためにほかならない。映画に関する文章は多くはないが、意見が合っているとホッとするのだ。

例えば、「コールドマウンテン」について小林信彦はこう書く。

この映画は<ハリウッド久々のメロドラマ>という風に喧伝されていて、物語の骨格はそうなのだが、実は反戦映画だと思う。

僕はこう書いている。「そうした女たちの目から見た戦争批判をこの映画はさらりと描いている。この軸足を少しもぶれさせなかったことで、映画は凡百のラブストーリーを軽く超えていく」。まあまあではないか。

「華氏911」については

ドキュメンタリーとしてフェアでない、という人もいるが、<完全にフェアなドキュメンタリー>なんてあるのか。

僕は「内容に偏りがあるという批判は分かるが、主義主張を込めないドキュメンタリーには意味がない」。

ただ、「ハウルの動く城」について、「語りたい強烈なエネルギーがない」とした上で「自分の体験からみて、これは作者が<枯れた>からだ、と感じた」という指摘は僕にはできない。だから分かったような分からないような感想にしかならないのだなあと反省する。

小林信彦は以前からこの連載をクロニクルと位置づけている。連載は8年目に入った。小泉政権や中越地震に関するタイムリーな文章が収められたこの連載はもう立派なクロニクルだと思う。後世の人はこの本を読んで、小泉純一郎という総理の下の日本はなんとひどい国だったかと思うことだろう。

「花と爆弾 人生は五十一から」

小林信彦が週刊文春で連載しているエッセイの昨年分をまとめたもの。今年4月の発行。毎年、夏頃までには買う本だが、会社の近くの書店が閉店したので、買えなかった。週に一度ぐらい寄る郊外の書店ではこの本、見かけなかった。仕方がないので楽天ブックスに「ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判(2)」と一緒に注文したら、取り寄せで1週間ほどかかった。昨日届いたので一気に読む。

このエッセイ、「人生は五十一から」というタイトルで続いていたが、今年に入って「本音を申せば」というタイトルに変わったとのこと。週刊文春はあまり読まないので知らなかった。連載をまとめたものとしては6冊目にあたり、過去のコラムとだぶる部分もあるが、東京の町のこと、映画のこと、政治のこと、イラク戦争のことなどが綴られている。

映画に関しては「レッド・ドラゴン」「シカゴ」「踊る大捜査線2」などが取り上げられている。映画に関する文章が少ないのはクロニクルという連載の趣旨を尊重しているためだろう。

著者も70歳。孫のことを書いた「K君が現れた日」など読むと、その年齢を強く感じる。以前なら、70歳の作家が書いた本はあまり読む気にならなかっただろうが、未だに小林信彦に変わる作家が現れないので仕方がない。小泉首相をはじめ政治に関する文章で「太平洋戦争の時代でもこんなことはなかった」という指摘は説得力があり、今の日本がどんなにひどい状態か痛感させられる。それだけ、僕らは悪さに鈍感になっているのだろう。