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「ノックス・マシン」


 「このミス」2014年版の国内編1位。表題作のほか、「引き立て役倶楽部の陰謀」「バベルの牢獄」「論理蒸発 ノックス・マシン2」の計4編を収録している。

Kindle版には「バベルの陰謀」が含まれていない。これは活字でなければできない作りだからだ。具体的には裏返し(鏡像)の文字があるのだ。こういう文字は電子書籍では画像にするしかないが、拡大縮小ができないので収録は難しい。アルフレッド・ベスター「虎よ!虎よ!」など作品中に文字以外のものが混ざっている作品も同じだろう。電子書籍、万能ではない。

この作品集、端的に言うと、SFファンにとってはSF度が物足りなく感じ、本格ミステリの名作に詳しくない人は面白さが分からないだろう。SFの知識があまりなく、本格ミステリを古い作品から読み込んでいるファンは喜ぶという作品だ。

表題作はイギリスの作家ロナルド・ノックスが1929年に発表した探偵小説のルール集「ノックスの十戒」をめぐる話。設定と経緯が長々と説明されて、いきなりエピローグになるという話である。一言で言うと、バランスが悪い。アイデア自体はバカSFに近い。2058年が舞台。コンピュータが文学を創造するようになり、質的にも人間を超えた時代、主人公の大学生ユアン・チンルウは20世紀初頭のパズラーを愛し、ノックスの十戒を研究テーマに選んだ。その第5項には政治的に正しくない記述がある。「探偵小説には、中国人を登場させてはならない」。なぜノックスはこの項目を入れたのか。チンルウはこれを深く研究し、論文を書く。ある日、国家科学技術局に呼び出しを受ける。

タイムトラベルを絡めた展開だが、設定はSFでもSF的には発展していかない。短編で書くには短く、長編を支えられるアイデアでもないという難しいところにある。「論理蒸発 ノックス・マシン2」はこれの続編で2073年が舞台となる。

作者はあとがきでこう書いている。

荒唐無稽なSFといっても、「どこまで風呂敷を広げられるか」よりも、「広げた風呂敷をどうやって畳むか」の方に思考が向かいがちなのは、ミステリ作家の性でしょう。

そう、ミステリは必ず謎が論理的に解決される閉じた物語であり、SFは開放した物語だ。例えば、アイザック・アシモフが書いたSFミステリはミステリとして完結しても結末には広がりが感じられた。ミステリ作家がSFにアプローチした場合とSF作家がミステリ寄りの作品を書いた場合、はっきりと違いが出てくる。だから、この作品にSFの面白さを期待するのは見当違いというものなのだろう。

それでも4編とも好感が持てるのはパスティーシュのようなユーモアが根底にあるからだ。ワトソンやヘイスティングス大佐が、引き立て役(名探偵の相棒)の出てこないクリスティーの「アクロイド殺し」と「そして誰もいなくなった」をめぐって議論する「引き立て役倶楽部の陰謀」にはニヤリとさせられる。電子書籍よりも活字の本を愛する作者の思いが前面に出ているのも好感の要因になっている。本当の本好きは電子書籍では満足しないものなのだ。

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「負ける技術」


 OL兼漫画家のカレー沢薫のエッセイ。クスクス、ゲラゲラ笑いながら読み終わった。月刊「モーニング・ツー」とモーニング公式サイトに掲載された136編を収めてある。非リア充の立場からリア充へのを憎しみをにじませ、「クリスマスやバレンタインのようなカップル主役のイベント」に罵声を浴びせ、負け続けてきた自分を自虐的に振り返る。

著者は高校時代に男子生徒と交わした会話はわずか2回だけ、しかもそのうち1回は記憶がおぼろげで、もしかしたら自分の妄想かもしれず、もう1回は「窓開けて」と言われただけでよく考えたら、会話として成立していない、という達人だ。

結論から言うと負けるのに技術はいらない。私ぐらいの達人になると、呼吸をするがごとく負けているし、歩いた後には300個ぐらいの敗北が転がっているのだ。

そこまで達人でなくても、たいていの人は非リア充なので、この本の至るところで多かれ少なかれ「あるある」と思ったり、「それは極端だろ」と思って笑えるだろう。著者は調子の悪いパソコンを修理に出す際、パソコンから女優とのセクシー画像を流出させた俳優(香港のエディソン・チャン)の事件を思い出してこう考える。

幸い私のパソコンに、私の上を通り過ぎていった男たちの写真や動画は入っていないが(誰も通らなかったため)、赤の他人のエロ画像が入っているという可能性はなくはない気がしてきた

男女のカップルに憎しみ光線を投げるところなどは東海林さだおのエッセイを思い起こさせるが、東海林さだおはもっとシャイで上品だし、エッセイを書くのにちゃんと取材に行っている。カレー沢薫は下ネタもあるし、自分とその周囲のことだけ書いている。それを136編も書けることに感心する。嫌みにも悲惨にもならない自虐ネタは難しいものだ。

カレー沢薫の漫画は読んだことはないが、エッセイはもっと読みたい。

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「スローカーブを、もう一球」

山際淳司さんも「パック・イン・ミュージック」を聞いていたのかもしれない。本書に収録された「たった一人のオリンピック」を読んでそう思った。野沢那智&白石冬美の深夜放送「パック・イン・ミュージック」で「ボートの津田」が話題を呼んでいた頃、よく聞いていた。津田選手はある日突然、「オリンピック選手になろう」と決意して実際にボートのシングル・スカル日本代表になってしまった。恐らく津田選手の友人の投書が発端だったのだろうが、津田選手の話題は断続的に続いていった。よほど運と才能に恵まれた人なのだろうな、と当時は思っていた。

本書を読んで、それが誤解であったことが分かった。いくら競技人口の少ないボートでも、いくら体格に恵まれていても、それだけでオリンピック選手になれるはずはないのだ。津田選手はアルバイトしをながら20代の後半をボートの練習に捧げる。念願のオリンピックの代表になるが、モスクワオリンピックへの参加を日本政府はボイコットしてしまう。

有名な「江夏の21球」をはじめ8編のスポーツノンフィクションを収録してある。表題作の「スローカーブを、もう一球」は進学校の群馬県立高崎高校が関東大会を勝ち進んで、センバツ甲子園に出場する話。甲子園出場なんて予算も考えもしなかった高校の奮闘は高橋秀実「弱くても勝てます」を彷彿させる。いや、「弱くても勝てます」はこの作品の影響もあるのではないかと思ってしまう。バッティング投手を取り上げた「背番号94」、小柄な棒高跳び選手を描く「ポール・ヴォルター」も心に残る。

「ポール・ヴォルター」の中で山際さんはこう書いている。

ふと思い出した台詞がある。
ヘミングウェイが、ある短編小説の中でこんな風にいっているのだ。
「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし、またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ。
要するに……」
といって、彼は続けていう。
「スポーツはすべてのことを、つまり、人生ってやつを教えてくれるんだ」
悪くはない台詞だ。

「競馬は人生の比喩だ」と言った人がいる。競馬に限らず、スポーツは人生の比喩なのだろう。山際さんのノンフィクションはそれに加えて選手の人生の断面を鮮やかに切り取っている。30年以上前の作品だが、まったく古びていない。それどころか、今も輝きを放っている。当然のことながら、社会風俗は古びても人の考え方は古びないのだ。

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「慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件」

100年前の1915年12月、北海道の苫前村三毛別で起こったヒグマ襲撃事件を描いたノンフィクション。解説の増田俊也は「永劫語り継がれる大傑作ノンフィクション」と書いている。そこまでとは思わなかったが、事件の詳細を記録した大変貴重な読み物であることは間違いない。Wikipediaのこの事件の項目はほとんどこの本からの引用で書かれているほどだ。7人が犠牲になったという世界でもまれな動物襲撃事件であり、ヒグマの恐ろしさを強烈に実感させられる。

襲ってきたヒグマは体長2.7メートル、体重340キロ、推定7、8歳の雄だった。まず家の中にいた2人の男女が殺される。家といっても開拓民の掘っ立て小屋のようなものだから、侵入はたやすい。このうち1人は殺された後、咥えて連れ去られ、完膚なきまでに喰い尽くされ、埋められているのを発見された。さらにその2人の通夜の席をヒグマが襲い、4人が犠牲になる。襲われた時に臨月だった妊婦の胎児(クマに腹を割かれ、掻き出された)を含めて犠牲者は7人、さらにこの時負った大けがのために2年8カ月後に死んだ1人を含めると8人となる。

執拗な熊はタケを見つけ、爪をかけて居間のなかほどに引きずり出した。タケは明日にも生まれそうな臨月の身であった。
「腹破らんでくれ! 腹破らんでくれ!」
「喉食って殺して! 喉食って殺して!」
タケは力の限り叫び続けたが、やがて蚊の鳴くようなうなり声になって意識を失った。
熊はタケの腹を引き裂き、うごめく胎児を土間に掻きだして、やにわに彼女を上半身から食いだした。

第二部「ヒグマとの遭遇」は著者の別の本「ヒグマ そこが知りたい」から8章と9章を収録してある。この中で著者が指摘しているのはヒグマがとても執着心の強い動物であること。1970年の「福岡大ワンゲル部員日高山系遭難事件」は7回にわたってヒグマが部員たちを襲い、3人が犠牲になった(このうちの1人は興梠という姓だったので調べたら高千穂町出身の人だった)。3回も同じ家が襲撃された苫前村の事件と同じく、いったん狙われ、自分の所有物という認識を持たれたら、早々にその場を立ち去るしか助かる道はないのだ。音を立てて騒いでもダメ、火をたいてもダメ、熊よけスプレーもそんなに効果はない。おまけに背中を見せて逃げると、追いかけられることになるという。そろそろと後ずさりして逃げた方がいいそうだ。

苫前村の事件では馬小屋に馬もいたのに襲っていない。体長2メートルを超すヒグマにとって、馬よりも小さな人間の方がよほど与しやすい相手なのではないか。

本書は1965年に出版され、吉村昭の「羆嵐」など多くの作品に影響を与えた。文庫版は今年4月に出版された。著者の木村盛武氏は1920年生まれだから今年95歳。元営林署職員で現在は野生動物研究家の肩書きだ。まだまだお元気なようで今年2月現在でのあとがきを書いている。

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「映画にまつわるXについて」

映画監督・西川美和のエッセイ集。特に前半の「X=お仕事探訪」、「X=アプローチ」、「X=免許」が面白い。短編小説のようなストーリーに沿って書かれており、読んでいて向田邦子のエッセイを思い出した。

「X=免許」は映画「夢売るふたり」の撮影のために松たか子とともにフォークリフトの免許を取りに行く話。あの映画のラストには松たか子がフォークリフトを運転する場面があったが、わざわざ免許を取ったとは知らなかった。松たか子は素性を隠して教習所に通う。誰にも気づかれなかったのはまさか女優がフォークリフトの免許を取るとは思えないからだろう。

「X=アプローチ」は同じく「夢売るふたり」でウエートリフティングの選手を演じた女優の江原由夏が映画のためにウエートリフティングの練習をし、コーチに才能を認められる話。「ロンドン五輪は無理でもリオ五輪を目指せる」ぐらいに才能があったというのだから、人生、何が起きるか分からないのだ。その後の経過を調べてみると、江原由夏、全国大会で8位には入賞したが、オリンピックは目指さなかったらしい。

このほか、映画「ゆれる」の撮影で香川照之が脚本に異議をとなえ、「第五稿に戻してください」と直言する話も読ませる。香川照之は続けてこう言う。

「役者がこんなことを言うのはおかしい。俺だっていつもなら脚本に、監督の演出にすべて従うことにしている。けれど、もしも一生の内、役者が脚本に対して意見することが許されるカードが、仮に三枚だけ与えられているものだとしたら、俺は迷わずその一枚を今ここで使うよ。書き直されて、明らかに流れが断ち切られて行っている。明らかに色んな意見に揺さぶられて分断されて行ってるのが分かる。初めて読んだ時、俺は兄弟の直接対決のシーンの長い会話を、この人は二秒で書いたんではないか、と思った。それくらい強烈な勢いがあったのに。何ですか、この新しい台詞は! 繋がってない! こんなのニシカワミワの台詞じゃない! 監督、お願い。一度考え直してみて」

向田邦子を思い出したと書いたが、「足りない女」は向田邦子に関する考察だ。「女に生まれた者として、『向田邦子』はあまりに出来すぎていて、具合が良すぎて、まぶしすぎて、がっくり来るのである」と西川美和は書いている。いやいや、かなり近いところまで行っていると僕は思う。

西川美和の小説の才能は映画「ディア・ドクター」の登場人物のエピソードを描いた「きのうの神さま」で認識したのだが、エッセイもうまい。基本的に文章がうまい人だが、それだけでなく、物事に対する考察が深い。

新作の「永い言い訳」を読むかどうかずっと迷っていたのだけれど、このエッセイを読んで「すぐに読まねば」という気になった。

【amazon】映画にまつわるXについて (実業之日本社文庫)