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「兄 かぞくのくに」

映画「かぞくのくに」の基になったヤン・ヨンヒ監督のノンフィクション「兄 かぞくのくに」を読んだ。帰国事業で北朝鮮に行った3人に兄について書き、激しく胸を揺さぶられる。ほとんどの国民は信じていない幻想の上に成り立ち、人を幸せにしない北朝鮮への批判も強いが、それ以上にこれは家族の物語だ。

「この本の唯一の欠点は外で読めないこと。泣いてしまうから」とライブトークの中で映画のプロデューサーが言っている。ホントにその通り。思わず嗚咽を漏らしてしまう場面がたくさんある。しかし、その一方で家族の温かさとそこから生まれるユーモアがある。泣き笑いというと通俗的に聞こえるが、痛切な悲しみの合間に日常のほのかなユーモアがあるのだ。

映画が描いたのは3人の兄のうちの1人。この部分よりも二番目の兄コナの家族を描いた第2部がとても良かった。コナ兄は美人のMさんと結婚し、2人の子供をもうけるが、Mさんは出て行ってしまう。兄の息子である10歳のチソンが、電話をかけてきた母親に「幸せの邪魔をするな!」「二度と、お母さんと名乗るな!」と拒絶する場面には胸を打たれた。

ヤン・ヨンヒはライブトークを見ると、かなり饒舌な人だ。40分のライブトークのうち、30分以上は1人で話してる。たくましいオモニの血を受け継いでいるのだろう。「理想の国の象徴である平壌に障害者は住むことを許されない」という発言は驚きだ。障害を持つ人は地方に追いやられるのだそうだ。

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「ヒッチコックに進路を取れ」

「ヒッチコックに進路を取れ」

「ヒッチコックに進路を取れ」

和田誠と山田宏一がヒッチコックのアメリカ時代を中心に全作品について語った本。本書のあとがきによれば、同じく2人の対談を収めた「たかが映画じゃないか」が出たのは1978年。31年ぶりの対談集ということになる。「たかが映画じゃないか」と「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」、「お楽しみはこれからだ」は繰り返し繰り返し読んだ。僕がエモーションという言葉を映画の感想の中で使うのはこれらの本の影響にほかならない。この2人の名前を見て、しかもヒッチコックに関する本とあっては買わずにすませることは不可能だ。

元々はヒッチコックのアメリカ時代の作品30本がレーザーディスク化される際に収めた2人の対談が元になっている。だからこの部分は10数年前のものらしい。これに今回、イギリス時代のヒッチコック作品について対談を付け加えた。イギリス時代の作品は「バルカン超特急」「第3逃亡者」ぐらいしか見ていないのでつらいものはあるのだが、山田宏一がジョディ・フォスター主演の「フライトプラン」について「バルカン超特急」のリメイクと言っているのにはなるほどと思った。言われて見れば、その通りで「バルカン超特急」では老婦人が列車の中から消え、「フライトプラン」は娘が飛行機の中から消える。両者は窓ガラスに書いた文字が一瞬見えた後に消えるという点でも共通しており、単純な換骨奪胎だったのだなと初めて気づかされた。

ヒッチコックのフィルモグラフィーを見て前々から思っていたのは1958年の「めまい」から「北北西に進路を取れ」(1959年)、「サイコ」(1960年)、「鳥」(1963年)までの作品の充実ぶりの凄さ。この4作どれもこれも傑作ばかり。しかもタイプがすべて違うのが凄すぎる。「鳥」は70年代に数多く作られた動物・昆虫パニック作品のすべてを凌駕していたし、「サイコ」がその後のホラー映画に与えた影響は計り知れない。僕はこれ、小学生時代にNHKテレビで見て大きなショックを受けた。「めまい」は男にとっては切実すぎる映画であり、悲しい内容だけれども、大好きな映画だ。「北北西に進路を取れ」はその目まぐるしい展開とエヴァ・マリー・セイントの美しさにしびれた。見てもらえれば分かるように、本書の表紙は「北北西に進路を取れ」。ちなみに裏表紙は「めまい」である。

本書を読みながら、そういうヒッチコック作品のことをたくさん思い出す。もちろん、ヒッチコックの映画を見ていた方が楽しめるが、これから未見のヒッチコック作品を見た後に該当箇所の対談を読んでも楽しめるだろう。注釈が充実しているので、そういう映画ガイドブックのような使い方もできる本である。

ただし、と付け加えておくと、10代から20代にかけてわくわくしながら読んだ「お楽しみはこれからだ」や「映画術」に比べると、こちらの感性がすれっからしになったためか、大きく心を動かされた部分はあまりなかった。これらの本の一部が本書の中でリフレインされているためもあるかもしれない。

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「黒澤明という時代」

「黒澤明という時代」

「黒澤明という時代」

黒澤明の映画をデビュー作の「姿三四郎」からリアルタイムで見てきた小林信彦がDVDで全作品を見直して書いた作品論・作家論。黒澤作品のどれを見るべきかがよく分かる本で、読んでいて僕は「野良犬」「酔いどれ天使」「わが青春に悔いなし」などを無性に再見したくなった。

20年ほど前にビデオで「天国と地獄」を見た時に「ごく控えめに見ても大傑作」と思った。完璧な映画の出来もさることながら、主人公の三船敏郎が演じる権藤という男のキャラクターにしびれたのだ。職人気質で頑固である半面、間違い誘拐の身代金を出すことを決意する権藤の在り方はほとんどハードボイルドだと思った。学生時代に名画座で「羅生門」を見た時、ラストの取って付けたようなヒューマニズムに違和感を覚えたが、「天国と地獄」ではヒューマニズムが作品と一体になっていた。ちょうどその頃、小林信彦はこの映画について「失敗作」と書いていたと記憶する。これはつまらないという意味ではなく、警察の描き方などを指した言葉だったと思う。この本の中には「文句なしに面白い『天国と地獄』」という第15章に触れてある。少し引用する。

そこでの熊井啓氏の発言は、その<問題>に関してである。仲代扮する戸倉警部が、このまま犯人をあげても刑期十五年で終ってしまうから、犯人を泳がせておいて、(共犯者二人殺しの)さらに動かぬ証拠をつかもう、と断言する件りだ。警部は犯人を極刑に持ってゆくつもりだが、犯人は計算外の動きをしてしまう。
(中略)
<何度見てもおもしろい。見るたびに新しい発見がある。>
と、ためらいなく日本人(芝山幹郎氏)が評価するのは、長い時を経てからであった。

小林信彦が高く評価する黒澤作品はこの「天国と地獄」まで。僕はこの後の「赤ひげ」にも感心したが、小林信彦は「完璧なテクニックだけの映画」としている。何か言ってやろう、何か見せてやろうというものがないからだ。

僕らの年代では封切り時に劇場で見ることができた黒澤作品は「デルス・ウザーラ」(1975年)以後だ。といっても「デルス・ウザーラ」は劇場では見なかったので、僕が実際に封切りで見ているのは「影武者」(1980年)以降の5作品にすぎない。その中で本当に感心したのは「乱」だけだった。映画は劇場で見なければいけない、というのは特にスケールの大きな黒澤作品の場合、あてはまることだが、同時に時代性というのは封切りで見ないと分からないためもある。作品的な評価だけでなく、封切り時の時代の空気を伝えるのがこの本の目的でもあっただろう。

黒澤作品のほとんどはテレビ放映時に録画したビデオを持っていたが、カビがはえたので全部捨ててしまった。DVDでそろえようかと思うが、これから買うならブルーレイの方が良いかもしれない。

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「きのうの神さま」

「きのうの神さま」

「きのうの神さま」

映画監督西川美和の短編集で直木賞の候補になった。映画「ディア・ドクター」製作の過程で行った僻地医療に関する取材を元にした映画のアナザー・ストーリー。収録されているのは「1983年のホタル」「ありの行列」「ノミの愛情」「ディア・ドクター」「満月の代弁者」の5つ。どれも映画監督らしい小説だと思う。

もっとも完成度が高いのは「ディア・ドクター」で、これは映画の主人公の背景を描いた内容(だと思う。未見なので断言できない→見た。現在の状況になった背景と言って良いと思う)。脚本家や監督はキャラクターの造型の過程で映画には描かれない背景を設定することがある。それが映画に深みを与えたり、俳優が演技する際の参考になるからだ。西川美和はそれを小説にしたわけだ。あとがきによれば、映画のための取材費用を出してもらう代わりにそういう約束を編集者と交わしたそうだ。

小説「ディア・ドクター」は医師を父親に持つ兄弟の物語で、弟の視点で描かれる。父親を尊敬し、父親のような医師になりたいと思っている兄は父親に対して自分の本当の姿を見せることができない。本当の兄について弟はこう思っている。「兄は本来、決して大人からほめられるような子供ではないのだ。けた外れに活発で、馬鹿げたことが大好きで、はっちゃけていて、ぼくと二人、転がり回るようにしながら育った」。そんな兄が父親の前では緊張してしまう。父親は子供に医師になってほしいとは思っていない。人の死に対して鈍感になっている自分のようにはなってほしくないからだ。

「ぼくも、医者になろうかと思う」
すると、それを聞かされた父は、顔をかすかにゆがめ、うーん、と唸るような溜息とともにばつの悪そうな笑い方をした。そして長く黙した後、「世の中にはいろんな生き方があるからな。よく考えたほうがいい」と言葉を添えた。
その時の、深い穴のあいたような兄の表情を一生忘れないと母は言った。
兄の絶望の種はほんの些細なことである。身を焦がすほど憧れた父から、一度も「お前も医者になりなさい」と言われなかったということだ。ぼくの幸運が、兄には悲運だった。

分数計算以上の計算がダメで理系音痴の兄は密かに志望していた医学部の受験をやがてあきらめ、旅行代理店に就職。その後、医療機器メーカーに入り直すが、何度も仕事を変え、遠く離れた寒村の小さな診療所で事務の仕事をするようになる。

しかし、父親は医者にならなかった兄について語る時、「いつも遠いところに吹く、澄み切った風を望むような眼」をしていた。兄の生き方を認めているのだが、それは兄には伝わらない。兄の本当の思いも父親には伝わらない。父親を太陽のように思っている兄とその兄を心配する弟の細かい心情を鮮やかに描いて、これは素晴らしい短編だ。泣かせる話である。兄の現在がどういう状況にあるかは映画を見るべきなのだろう。これは映画を補完する物語なのだ。

「ありの行列」は小さな島で3日間だけ代理の医師を務める男の話。男は都会の病院に勤め、「オートメーション的な作業の連続」の医療業務に携わっている。島に着いたその夜、老婆に往診を頼まれる。別に悪いところもなさそうな老婆の世話をしているうちに、最初に医師を志したころの青臭い自分のことを思い出す。

流れに巻き込まれて一度青臭さを棄てた自分がいまさら青臭くなるはずはなく、今日のことも、自分にとっては今後繰り返されることのない非日常であるからこそだ。これは男にとっては仕事ではなく、お遊びである。しかし擦られるままにして、ここちよさそうなため息をついている森尾セイの素直な背中は久方ぶりの男の幼い、恥ずかしいような陶酔に目を瞑ってくれていた。

流れ作業のような都会の病院よりも僻地の診療所の方にこそ医者の本来の姿がある。西川美和はそんなことを大上段に振りかぶって言っているわけではないが、そういう視点が作品の根底にある。

収録作品に共通するのはどれも映画の1シーンのような短編であること。ヒッチコックは「人生の断面よりケーキの断面」と言ったけれども、西川美和は僻地医療にかかわる人々の人生の断面を見事に生き生きと描き出している。このシーンをつなげれば映画になるし、一つのシーンを描くために物語を設定しているように思える。ジェフリー・ディーヴァーの短編のように意外な結末を目指した小説とは作り方が根本的に違う。映画監督らしいと思ったのはシーンが中心になっている小説だからだ。

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「B型の品格 本音を申せば」

「B型の品格 本音を申せば」

「B型の品格 本音を申せば」

鹿児島のOさんと電話で話していて、「出ましたね」と教えられた。週刊文春の連載エッセイ「本音を申せば」をまとめた小林信彦のこの本をOさんも毎年楽しみにしているのである。昼休み時間に会社のそばの大きな書店で探した。エッセイコーナーにあるだろうと見当を付けていたが、なかなか見つからない。他のコーナーも探し、再びエッセイコーナーに戻ってようやく見つけた。平積みになっていても、本が多いとなかなか見つからないのだ。大きな書店は何の目的もなくふらりと入って、たくさん並んでいる中から本を選ぶ楽しみはあるが、目当ての本を探す時には時間がかかる。こういう時、amazonに頼もうかと思ってしまう。 書店には検索機械もあったが、触っても反応しなかった。僕の操作の仕方が悪かったのか。

僕にとって小林信彦のエッセイを読む楽しみは自分の映画の見方が大丈夫かどうかを確認することにある。リアルタイムで週刊誌の連載を読んでいれば、映画観賞ガイドとしての機能もあるのだろうが、1年分をまとめて読む場合は前年に公開された映画の見方の確認が主な役割となるのだ。

内田けんじの「アフタースクール」について小林信彦はこう書いている。

ラストで、パズルのピースがみごとにはまり、全体の図(ストーリー)が完成したとき、なるほど、こういう話だったのかと感心した。<頭を使った脚本>ではあるが、それだけではない、ほのぼのとした味がある。

自分がどんな感想を書いたか気になったので、Sorry, Wrong Access: 「アフタースクール」を読み直してみる(元はmixiに書いた日記をコピーしたもの)。

個人的には大技に比べて、終盤の展開はややドラマ的に弱く、少しバランスが取れていない感じを受けた。ドラマ的な弱さは構成と関係してくるので難しいのだが、ここをもっと強化すれば、映画は完璧になっただろう。ただし、内田けんじ監督の良さはこういう軽いほのぼの感にあるのだと思う。

まあ、「ほのぼの」が一致しているのでいいだろう。しかし、この本で取り上げられたこれ以外の映画はほとんど見ていない。「接吻」「相棒 劇場版」「ICHI」「その土曜日、7時58分」など。これはDVDを借りてみようと思う。特に「接吻」が見たい(これと「その土曜日、7時58分」は宮崎映画祭で上映するけど)。ニコール・キッドマン主演で劇場公開はされなかった「マーゴット・ウェディング」も見たいと思った。

タイトルのB型に品格に関しては5回に分けて書いてある。僕は血液型による人の分類は占い程度のものと考えている。血液型の本に書いてあることが当たってるように思えるのは大まかに当てはまることしか書いてないから。アメリカなら人種や民族で分けるところを、日本はほぼ単一民族だから、こういうもので分類しないと分けようがないのだろう。もし血液型で人のタイプが分類できるというなら、環境が異なるA型のエスキモーとA型のアボリジニが同じタイプだったというような統計的データを示してほしいものだ。小林信彦自身、「この連載のために、いま出ている血液型人間学の本をパラパラ見たが、こりゃダメだと思った。A型男性はこう、A型女性はこう、という風に決めつけているからだ」と書いている。まあ、それでもここで小林信彦が書いている自分の周囲や芸人の血液型に関するエピソードは読み物として面白い。

週刊文春の連載は映画のほかに政治、世相、東京のことなどを取り上げることが多く、本書のオビに書いてあるように「クロニクル(年代的)時評」の様相が濃かった。これまでに10冊出ている本もそうだったが、今回は映画に関する文章が多い。あとがきによれば、これは「某新聞に連載していた映画のコラムをやめて、新旧の映画のことが気をつかわずに書けるようになった」ためだそうだ。

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