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「容疑者Xの献身」

「こ のミス」と週刊文春で1位になった東野圭吾のミステリ。僕はこの小説を読んで、まずトリックが先にあって、それに沿った容疑者を設定したのだろうと思った。このトリックを成立させるためには容疑者のキャラクターが、トリックを行うのに不自然に思わせないものであることが必要だからだ。ここまでやるキャラクターに説得力を持たせることが要求されるのだ。しかし、東野圭吾は「このミス」のインタビューで、「少なくともトリックが先ということは絶対にありません」と語っている。「最初に作るのはキャラクターや世界観ですね。今回で言えば、まず湯川を長編で使うという前提と、さらにその強敵を設定する、ということが大きかったですね」

容疑者側が天才なら探偵側も天才。本格ミステリにぴったりの構図である。こうした設定の下、東野圭吾は容疑者、というか事件の隠蔽に尽力する高校教師に筆を割く。思いを寄せる女が発作的に犯した殺人を隠蔽するために天才的な高校の数学教師・石神が協力する。事件を捜査する刑事・草薙の友人で天才的な物理学者の湯川学はその石神と大学時代に親しかった。石神が怪しいとにらんだ湯川は推理を働かせる。

よくできた本格ミステリで1位にも異論はないが、ぜいたくを言えば、もっと石神のキャラクターを掘り下げた方が良かったと思う。キャラクターよりもまだトリックの方が浮いて見えるのだ。社会に認められなかった天才数学者の悲哀をもっと掘り下げれば、小説としての完成度をさらに高めることができたのではないかと思う。これの倍ぐらいの長さになってもかまわないから、そうした部分を詳細に描いた方が良かった。一気に読まされてある程度満足したにもかかわらず、そんな思いが残った。

「秘密」

「秘密」は「本の雑誌」で1位、週刊文春で3位、「このミステリーがすごい!」で9位にランクされ、日本推理作家協会賞も受賞した。どうだ、まいったかという高い評価である。秀作の多い東野作品の中でもベストの作品だろう。交通事故で重傷を負った妻と小学生の娘の意識が、妻が死ぬ直前に入れ替わる。夫は、娘の体で生きる妻と暮らすことになる。成長するに従って、2度目の思春期を謳歌する妻に対して夫は年を取るばかり。他の男の影がちらつくようになった妻に、夫は激しい嫉妬を抱く。しかし、ある事件を境に死んだと思っていた娘の意識がよみがえるようになる。そして妻である時間は日を追って少なくなり、娘の時間が多くなっていくのだ。

タイトルの「秘密」はもちろん、娘の体の中に妻がいるという秘密なのだが、もうひとつ切ない仕掛けがある。それが分かるラストはたまらない。北村薫「スキップ」と比較した書評をよく見かけたけれど、僕はラストの喪失感から井上夢人「ダレカガナカニイル…」を思い出した。

「秘密」はもともと笑いの小説として書かれたという。「毒笑小説」(集英社文庫)の京極夏彦との対談で、東野圭吾は、こう語っている。

東野 あれは、「怪笑」とか「毒笑」を書いている時期に、原型になった短編があるんです。娘に死んだ奥さんの魂が宿って、おやじの慌てぶりのドタバタが面白いだろうと「笑い」で書いたんです。ところが、そのとき何かあまり面白くなくて、こんなはずじゃないゾ、もっとこれは面白くなるはずだ、短編だからよくなかったんだとか思って……。
京極 それで「秘密」を書いたら―。
東野 よりいっそう笑えなくなってしまったという(笑い)。それでもちょっと勉強したことなんですけど、笑うスイッチと泣くスイッチは―。
京極 近所にある。

なるほど。「秘密」には確かにスラップスティック風の笑える部分が残っている。しかし、この小説が優れているのは、夫の心情を丁寧に描いてあることだ。夫は妻に男の影がちらつくから嫉妬しているのではない。自分だけ若返った妻に対しても嫉妬しているのだと思う。男性と女性とで、この小説の読後感はかなり違うのではないか。映画がそうした微妙な部分を描けるかどうか、ちょっと心配でもある。