南沙織はフィリピン人の父親と日本人の母親とのハーフと言われていたが、本当の父親は日本人なのだそうだ。フィリピン人の父親が本当の父親ではないということは著書「二十歳ばなれ」(1976年)にも書いてあった。しかし、そこで僕らが思ったのは本当の父親は別のフィリピン人だろうということで、本当の父親が日本人であることを南沙織自身が明らかにしたのは2008年のことだという。
南沙織が歌手として活動したのは1971年からの7年半。山口百恵とほぼ同じぐらいの期間だ。山口百恵が「時代と寝た」と評されたのに対して、南沙織は普通の少女(ordinary girl)であることにこだわった。デビューから1年後の引退宣言騒ぎも、上智大学国際学部に進学したのも、学校に通う普通の少女でいたかったためだ。テレビで見る南沙織を僕は「少し不器用な人」と感じていた。芸能界をすいすい泳ぐ人ではない感じがテレビからもうかがえたのだ。引退がキャンディーズや山口百恵のように派手な幕引きではなかったことも南沙織らしい。
コンサートに行ったのは1回だけ。レコードはLPを2枚とシングル盤数枚しか買っていない。熱烈なファンとは言えないかもしれないが、テレビや本書にも出てくる雑誌「明星」や「平凡」で南沙織の動向は常にウォッチしていた。レコードの売り上げで小柳ルミ子に負けようが、人気で天地真理に負けようが、そんなことはかまわなかった。自分が好きなアイドルが一番である必要はない。
南沙織の言葉で印象深く覚えているのは母親から言われたという結婚相手に関する助言。「ハンサムな人はダメよ」と言われたそうなのだ。「ジャガイモみたいな人がいい」。引退後に篠山紀信と結婚した時に僕はなるほどと思った。
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