ミステリー」カテゴリーアーカイブ

「葉桜の季節に君を想うということ」

「このミス」1位。ようやく読む。「陽気なギャングが地球を回す」とは違って、これは絶対に映画化できないタイプの作品。アイラ・レヴィンとか小泉喜美子を思い出す。と書くと、ミステリファンにはトリックの種類が分かってしまうが、終盤の驚天動地の真相でそれまで読んでいたものが別の様相を見せるというタイプの○○トリックを用いた作品だ。
もうすっかり騙された。こんなにきれいに騙されたのは何年ぶりだろう。そして感心した。本格ミステリの醍醐味がありますね。

「陽気なギャングが地球を回す」

昨年の「このミス」6位。伊坂幸太郎の小説は初めて読んだ。これ、映画になりそうな題材だな。ちょっと前なら監督には岡本喜八が適役と思うが、今なら誰だろう。「g@me.」の井坂聡あたりか。

それぞれに特技を持つ4人の男女が銀行強盗を企てる。うまく4000万円せしめたものの、逃走の途中、現金輸送車ジャックの犯人たちに車ごと奪われてしまう。4人は奪った犯人を追いつめようと画策するが…。というストーリーで、文章が軽快なためスラスラ読める。キャラクターの設定もうまい。品の良い笑いとひねったプロットで描くユーモア・ピカレスク(表紙に長編サスペンスとあるが、大きな誤り)。「このミス」3位の「重力ピエロ」も読みたくなった。

「バスク、真夏の死」

本棚に積ん読状態だったトレヴェニアンの旧作を読む。原題は「カーチャの夏」(The Summer of Katya)。前半はラブストーリーだが、後半はスリラーで、訳者後書きを引用すれば、「バスクという特異な地方色を濃厚に盛り込んだ恋愛小説仕立ての精神分析学的スリラー」ということになる。これを読むと、「ワイオミングの惨劇」の主人公の設定に納得できる。そうか、トレヴェニアンはこういう部分に元々興味があったのか。

第2次大戦前のフランス、バスク地方が舞台。村の診療所に勤める新米医師のジャン=マルク・モンジャンは大戦前の最後の夏、カーチャと名乗る美しい女性に出会う。双子の弟が事故で鎖骨を骨折したので、家まで治療に来てくれと頼まれるのだ。カーチャの家族は2.6キロ離れた山荘に住み、弟のポールと中世の研究に打ち込む父親のムッシュー・トレビルの3人で質素に暮らしていた。カーチャの美しさに惹かれたモンジャンは毎日、山荘に通うようになり、2人の愛は深まる。しかし、ポールは「姉を愛してはいけない。それを父親に知られてもいけない」と警告する。そしてなぜか一家は1週間後によそに引っ越すことになる。

クライマックス、狂騒的で郷愁を呼ぶバスク地方の祭りのシーンから一転してショッキングで悲劇的な真相が明らかになる。終盤の説明のシーンはちょっと長すぎるし、この趣向はいくつも前例がある。それでもこの小説が魅力的なのは地方色がふんだんに盛り込まれているためか。

トレヴェニアンの小説はこれまで「夢果つる街」しか読んでいなかった。「このミステリーがすごい!」1988年版の1位になった警察小説だが、僕にはあまり印象が強くなかった。これを機会に再読してみようかと思う。

「ワイオミングの惨劇」

覆面作家トレヴェニアンの「バスク、真夏の死」(1983年)以来の新作。アメリカでは1998年に出版されたそうだが、翻訳が遅かったのはそれなりの出来であるためか。確かに絶賛される小説ではないけれど、主人公や悪役の造型に独自のものがあって面白く読めた。

州に昇格したばかりのワイオミングのさびれた鉱山町“20マイル”が舞台(原題は「20マイルの事件」Incident at Twenty-Mile)。古い大きなショットガンを持った男マシューがこの鉱山町にふらりと現れる。どこか正体不明のところがあるマシューは住人からの雇われ仕事をする何でも屋として住み着く。そこへ刑務所を脱獄した凶悪な3人組が来る。3人組は町にある銃をすべて取り上げ、暴虐の限りを尽くすようになる。

トレヴェニアンはこの基本プロットに住民のキャラクターを描き込むことで、読み応えのある小説に仕上げた。主人公マシューは自分に危機が及ぶと、“もうひとつの場所”に逃げ込む。これは虐待を受けた子供が現実から逃避するために行うとよく説明されるもので、多重人格の原因にもなるものだ。このマシューと3人組のリーダーであるリーダーは過去の虐待という点で共通点を持つ。この2人が対決するクライマックスは意外にあっさり片が付き、その後に長いエピローグがある。

トレヴェニアンの狙いが邦題の“惨劇”にあるわけではないことは明らか。西部劇仕立てながら西部劇ではなく、ラース・フォン・トリアー「ドッグヴィル」に共通するものがある。巻末の解説にはトレヴェニアンのデビューから現在までが書いてあって詳しい。

「ハンニバル」

不要な部分がほとんどなく、その見事な描写にほれぼれするのが「ハンニバル」。ご存じトマス・ハリス「レッド・ドラゴン」「羊たちの沈黙」の続編。4月の発売直後に買ってほったらかしにしてあったのをようやく読んだ。「羊たちの沈黙」はアームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のような趣向を堪能させる猟奇ミステリだったが、今回はハンニバル・レクター博士を中心にした長編サスペンスの趣だ。何が凄いと言って、物語が一応終わった後に用意される第6部「長いスプーン」が凄すぎる。ここだけで「ハンニバル」はミステリ史に名をとどめるだろう。

なにしろ脳みそを食うんですぜ、脳みそを。いや脳みそを食うぐらいの話なら、以前にもあっただろう。トマス・ハリスが凄いのは生きた男の脳みそを食う(脳の活き作りですな)様子を一流シェフが料理するように非常に優雅に描いていることだ。陰惨ではなく、しかもリアル、というのが感心する。脳の前頭葉をスプーンで4切れすくい取られた男は突然、「ねえ、お星様の上でブランコに乗ろうよ」とビング・クロスビーのヒット曲を歌い出すのである。「突拍子もない大声でしゃべるのは、ロボトミー(前頭葉切断手術)を受けた人間の通癖である」という説明が笑わせる。

この場面に至るまでの物語ももちろん面白い。前作で逃亡後、フィレンツェで暮らすレクター博士と、博士に復讐を企む富豪、FBIでいわれない冷遇を受けているクラリス・スターリングを絡めた緊密な展開はページを繰る手が止まらないほど。レクター博士の過去にスポットを当てた部分も興味深い。博士の妹は幼い頃、脱走兵に食われてしまうのだ。これが人食いレクターのトラウマとなったのか、などと考えてしまう。しかし、かのスティーブン・キングがこれを激賞したのは脳みそを食う場面があったからに違いないと思う。それほどこのシーンは独自性に富んでいる。結末は好みが分かれるだろうが、トマス・ハリスの凄さを再認識させる1作であることは間違いない。

「ハンニバル」は既にリドリー・スコット監督、ジュリアン・ムーア、アンソニー・ホプキンス主演で映画の撮影が始まっている。このシーンを含むラストは変更されるらしい。まあ、そりゃそうでしょう。脳みそを食うシーンを映画で見せたら気持ち悪いだけだもの。技術的には十分描けると思うが、小説のような優雅さを兼ね備えることは映画では不可能だ。