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「チャイルド44」

最近、こんなに夢中になって読んだ本も珍しい。旧ソ連、スターリン政権下で起きる連続殺人を描いているが、本筋はサイコミステリではない。国家保安省(KGBの前身)のエリートだった主人公が卑劣な部下の罠にはめられ、地方の民警に飛ばされて殺人事件に遭遇するという設定の中で、主人公が人間性と妻の愛を取り戻す様子を描くのが本筋なのだ。優れたスパイ・冒険・スリラー小説に贈られるCWA(英国推理作家協会)スティール・ダガー賞を受賞していることから分かるように、これはほとんど冒険小説。再生していく主人公レオとその妻ライーサの毅然とした姿に強く心を揺さぶられる。

一度疑われたら終わりという監獄のような社会の怖さ。上巻のほとんどを費やして描かれるのはその社会の異常さだ。飢えた兄弟が猫を捕まえようとする出だしから引き込まれ、ページを繰る手が止まらない。上巻は100点満点。死と隣り合わせの中で事件を捜査するレオを描く下巻はミステリ部分がうまく進みすぎるきらいがあるが、それは処女作であるがゆえの瑕疵と言うべきか。「ウォッチメイカー」に感じた、人間が描かれていないという不満はここにはまったくない。

レオの年老いた両親は恵まれた暮らしをしていたが、レオの降格で狭くて汚い共同住宅に移され、重労働を課せられる。レオとライーサは密かに両親のもとを訪ね、その悲惨な境遇に涙する。「おれがもっといいところに住めるようにしなくちゃいけなかったのに」と言うレオに対して母親のアンナはこう答える。

「それはちがうわ、レオ。聞いてちょうだい。わたしたちがおまえを愛してるのはおまえがわたしたちにいろいろとしてくれるからだって、おまえはいつもそんなふうに思い込んでる。子供の頃でさえそうだった。それはちがうわ。おまえはもっと自分の人生に目を向けるべきよ。わたしたちはもう歳なんだから、どこに住もうと大したことじゃない。今だってわたしたちが生きていられるのは、おまえから何か知らせがないかって、それを待つことができたからよ。… (中略)レオ、おまえを心から愛してる。おまえはずっと母さんの誇りだった。おまえが仕えた政府がもっといい政府だったらよかったのに。そういうことよ」

登場人物の隅々にまで目を配った傑作。冒険小説と銘打ってはいないが、冒険小説ファンは読まなくてはいけない本だと思う。著者のトム・ロブ・スミスは1979年生まれ。既に次作「Secret Speech」が完成しており、来年出版される。楽しみに待ちたい。ちなみに本書はリドリー・スコット監督によって映画化が決まっているそうだ。こちらも楽しみ。

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「ウォッチメイカー」

「ウォッチメイカー」

「ウォッチメイカー」

ディーヴァーの小説は「ボーン・コレクター」は持っているが、読んでいない(デンゼル・ワシントン、アンジェリーナ・ジョリー主演で映画化されたが、これまたテレビでちらりと見ただけ)。2005年に出た短編集「クリスマス・ストーリー」は途中まで読んだ。短編で感じたのはそのどんでん返しの鮮やかさ。ナイフの切れ味のような鮮やかさだなと思った。といっても、これも11編読んで中断している。あと5編残っているので、これから読もう。

で、「ウォッチメイカー」。もうこれは終盤の展開に唖然とする。どんでん返しは1回だけだからどんでん返しなのだが、ストーリーがこれほど3回も4回もひっくり返る話も珍しい。ディーヴァーは「これぐらいツイストしなきゃミステリじゃない」と思っているのだろう。

時計に執着を持つウォッチメイカーと名乗る殺人鬼を四肢麻痺のリンカーン・ライムが追い詰める。という風に序盤は始まる。サイコな話かと思ってしまうが、そんな単純な話ではない。ライムの相棒であるアメリア・サックスは単独でニューヨーク市警の腐敗を捜査する。別々の事件に見えて、これが絡んでくるのは想像つくのだが、そこから先は感心するほかない。サービス精神の旺盛な作家なのだ。ここまでひねるのは。

だが、読み終えて何が残るかというと、ああ面白かったという感想しか残らない。エンタテインメントはそれで良いのだが、なんというか、野暮を承知で言えば、人間のドラマをもう少し描いてほしいと思えてくるのだ。キャラクターが立っているというのとは別に人間のドラマの深みが欲しくなる。そういうのは別の小説を読めば済むことなんだけど。ミステリの中にもそういう小説はある。

といっても十分面白かったので、家にある「ボーン・コレクター」も読んでみようと思う。