「昭和二十年夏、僕は兵士だった」

「昭和二十年夏、僕は兵士だった」

「昭和二十年夏、僕は兵士だった」

戦場を経験した5人の兵士のインタビュー集。著者は「散るぞ悲しき」の梯久美子で、帯に「感涙の戦争ノンフィクション」とある。僕は感涙はしなかったが、心を揺さぶられる部分がいくつかあった。インタビューを受けた5人は詩人の金子兜太、考古学者の大塚初重、俳優の三國連太郎、漫画家の水木しげる、建築家の池田武邦である。九死に一生を得た水木しげるの戦争観と池田武邦の章も読ませるが、個人的に最も面白かったのは徴兵忌避をして逃亡した三國連太郎のインタビュー。「必ず生きて帰ってこい」と息子を送り出した父親に対する尊敬の念と愛情がにじみ出ているのである。

三國連太郎の父親は「世間から差別される職業」から逃れるためにシベリア出兵に従軍した。復員後、電気工事の職人となり、既に身重だった母親と結婚して三國が生まれる。三國に対しては厳しく、言うことをきかないと、すぐにゲンコツが飛んできた。旧制中学に進学したくないと言ったら、半狂乱のようになって怒り、ペンチで殴られた。父親は学歴がなかったために、自分より若い社員が出世していくのを見ており、息子にだけは学校を出て資格を身に付けて欲しかったのだ。母親はしばしば嘘を言って三國をかばったが、三國はそんな嘘がいやだった。父親は職場の若者が応召する時には決して見送りに行かず、万歳三唱も決してしなかった。自分の出自と戦場を経験したことで社会の理不尽さを知ったため、反骨精神を持った人だったのである。

三國の徴兵忌避のための逃亡もそんな父親の影響があったようだ。父親と三國は血がつながっていないが、それでも三國は母親より、父親の方が好きだった。

年齢を重ねるほどに、父の存在が大きくなっていくと三國氏は言う。父に学ぶものが大きい、と。
理不尽な境遇から脱出するために戦場に赴かなければならなかった父。戦争とは、国民を一律に「兵士」として扱うことで平等化するという機能を、たしかに持っている。生命を差し出す代償としてしか自由を得られなかった三國氏の父は、“お上”への疑問と嫌悪を戦場から持ち帰ったのではないだろうか。

建築家の池田武邦は軽巡洋艦「矢矧」の乗員としてマリアナ沖海戦、レイテ海戦、沖縄海上特攻を経験した。辛くも生き残り、戦後、高層ビルの建築家として成功を収める。池田は戦艦大和が撃沈された沖縄海上特攻の悲劇について「開戦に踏み切ったそのときに、運命づけられていた」と話す。

軍部が勝手に戦争を始めたという人たちがいます。戦争指導者たちがすべて悪いんだと。本当にそうでしょうか。戦前といえども、国民の支持がなければ戦争はできません。開戦前の雰囲気を、僕は憶えています。世を挙げて、戦争をやるべきだと盛り上がっていた。ごく普通の人たちが、アメリカをやっつけろと言っていたんです。

戦場を経験した人たちの言葉はどれも重みがある。しかし、インタビューを受けた5人は大正8年から15年生まれ。現在、80歳前後だ。こうしたインタビューはもう本当に後がない。

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「昭和二十年夏、僕は兵士だった」」への5件のフィードバック

  1. 45

    戦場を経験した人たちの言葉はどれも重みがある。しかし、インタビュー~、この2行ですよね、大切なのは。
    三國さんと池田さんの話のように、右・左、ひとところからではなく、それらのような話を実体験として聞かせてほしいなぁ・・・と思います。

  2. hiro 投稿作成者

    もはや、戦争を体験している日本人は80歳前後ですから、年々難しくなっていますね。戦場を体験した人はもっと少ないでしょう。

  3. 45

    それ、いまだになんだかんだと問題になるのに、致命的だなぁと思います。
    そういうのって他の国にもあるんですか?

  4. hiro 投稿作成者

    けっこうあるんじゃないですか?

    逆にずーっと戦争してるのはアメリカですよね。

  5. 45

    ビジネスにもなるし・・・
    でも、今はそっちもダメなんでしょうね(^^ゞ

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