「聖の青春」

初めて買った「将棋世界」に村山聖の写真が掲載されていた。頬がふっくらした童顔で恐らくこれは小学生か中学生で速く昇級したから掲載されたのだろうと思った。しかし、村山は当時23歳だった。「聖の青春」(講談社、単行本)の135ページにも掲載されているこの写真は、師匠の森信雄がB級2組への昇級祝いに撮影したものだった。村山聖はその後、A級にまで昇級し、「名人になりたい」との志半ばで平成10年8月8日に亡くなる。29歳。幼いころから難病の腎ネフローゼと闘い、最後は膀胱ガンで倒れた。本書は「将棋世界」編集長の大崎善生が綴った村山の鮮烈な“魂の軌跡”である。将棋一筋の村山の生き方、周囲の人々(特に森信雄)の温かい支援に胸を熱くせずにはいられない。将棋に興味のない人にも必読の1冊と思う。

村山の将棋界へのデビューは順調なものではなかった。実力は十分あったが、将棋界の古いしきたりが阻んだ。故郷広島の将棋教室を通じて奨励会への入会を図るが、「まだ早い。もう少し実力を付けてから」と言われ、別のルートで奨励会試験を受ける。その時の師匠が4段になったばかりの森信雄。森は一目会った途端、村山を弟子にしようと決意する。試験は優秀な成績だったが、思わぬ事態が起こる。関西では当時一流の棋士がクレームを付けてきたのだ。村山の父親が最初に相談を持ちかけた将棋教室の主宰者がこの一流棋士に弟子入りを頼み、既に許可されていたというのだ。自分の弟子にしたはずの子どもが他の門下から試験を受けた。これは承伏しかねる、とこの棋士は怒り、奨励会入会に待ったをかけた。森はこの棋士に電話で掛け合うが、こう脅される。

「あきらめろ。これ以上このことで俺に何か言ったら、お前を斬るぞ」
このひとことで森の腹は決まった。大人たちの理屈を一方的に押しつけ、子どもの未来を次にする、その論理が許せなかった。斬るならば、勝手に斬れと思った。
斬られようが、将棋界を追放されようが自分はどうなったっていい。もし、村山君が将棋界に入れないようなことになれば、そのときは自分も将棋をやめよう、そう決心したのだ。
…(中略)…
村山君はわしの弟子や。はじめてのわしの弟子や。守ってやらな…。

村山はこのことで奨励会入会を1年待たされる。その間、森のもとに住み込み、修業をすることになる。2人とも風呂嫌いで顔も洗わなければ歯も磨かない共通点があった。これに関して作者が真冬の公園で見た2人のエピソードが泣かせる。

森が飛ぶように、青年に近づいていった。
「飯、ちゃんと食うとるか? 風呂入らなあかんで。爪と髪切りや、歯も時々磨き」
機関銃のような師匠の命令が次々と飛んだ。
髪も髭も伸び放題、風呂は入らん、歯もめったに磨かない師匠は「手出し」と次の命令を下す。青年はおずおずと森に向けて手を差し伸べた。その手を森はやさしくさすりはじめた。そして「まあまあやなあ」と言った。すると、青年は何も言わずにもう一方の手を差し出すのだった。
大阪の凍りつくような、真冬の公園で私は息をのむような気持ちでその光景を見ていた。それは人間のというよりもむしろ犬の親子のような愛情の交換だった。理屈も教養も、無駄なものは何もない、純粋で無垢な愛情そのものの姿を見ているようだった。
…(中略)…
空には降り注ぐような満天の星が輝いていた。つきさすような冷え切った空気が、星を磨いているようだった。それを眺めるふりをしながら、私は涙をこらえていた。なぜだろう、そんな気持ちになったのは生まれてはじめてのことだった。

この光景が作者にこの本を書かせる原動力の一つになったと思われる。村山と森の交流の深さ、その一つ一つのエピソードは胸を打つ。村山はいい師匠に恵まれたなと思う。

むろん、本書の主題は村山の凄まじい生き方そのものにある。腎ネフローゼは一度高熱を発すると、身動き一つできない事態に陥る。4畳半のアパートで村山は1週間動けないこともあった。入退院を繰り返し、順位戦を不戦敗せざるを得ないこともあった。それでも健康な他の棋士に負けず、昇級していく。終盤に強く、“終盤は村山に聞け”とまで言われるようになる。病気がネフローゼだけであったら、村山は悲願の名人位を手に入れていたかもしれない。しかし、ガンにかかってしまう。意識朦朧とした村山が最後に口にした言葉は「2七銀」だったという。最近、これほど熱い感動を与える書物を僕はほかに知らない。「新潮学芸賞受賞」とオビにあるが、そんなものがなくとも手に取るべき1冊。繰り返すが、絶対の必読。

【amazon】聖の青春 (講談社文庫)