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「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた最強の柔道家木村政彦とプロレスラー力道山の世紀の一戦は今もYouTubeで見ることができる。力道山側によって意図的に編集されたこの動画だけを見ると、「力道山の空手チョップの威力はなんて凄かったんだろう。力道山の圧勝だ」と思ってしまう。試合が行われた昭和29年当時の人々もみんなそう思った。木村政彦の本当の強さを知る一部の人々を除いて。

著者の増田俊也は世間に定着したこの誤解を正すため、ゆがめられた歴史を修正するために二段組700ページを費やして“事件”の真相を明らかにしていく。著者は1993年の木村政彦の死後、現在まで「十年以上かけて人に会い、数百冊の書籍、数千冊の雑誌、数万日分の新聞」を手繰ってきたという。木村政彦がいかに強かったか、だけではなく、その人となりを浮き彫りにし、戦前から戦後そして現在までの柔道の歩みと変遷、多数の格闘技家の姿を活写する。木村の生き方をさまざまな関係者の声で綴った最終章は、悲憤の涙なくしては読み進められない。何よりも本書には著者の対象への愛と熱気がこもっている。読み始めたら夢中になって読んでしまう第一級の読み物であり、重量級の傑作。格闘技ファンもそうでない人も、本好きなら何を置いても読むべき本である。

著者はプロローグにこう書く。

力道山関係の本は掃いて捨てるほどあるが、木村政彦の本は技術書を除けばゴーストライターに任せた『鬼の柔道』と『わが柔道』という二冊の自伝しかない。
 本書では、捏造されて定着してしまった“あの試合”の真相究明を軸に、力道山への怒りと、さらにそれ以上の哀しみを抱えながら後半生を生き抜いた、サムライ木村の生涯を辿りたい。

木村政彦は1917年、熊本の赤貧の家に生まれた。父親の仕事は川の砂利取り。小学生の頃から、父親の仕事を手伝った木村はそれによって強い足腰と腕力の基礎を作った。小学4年生のころ、柔術の町道場に通い始める。めきめきと力を付けた木村は鎮西中学時代に拓殖大柔道部師範の牛島辰熊からスカウトされる。この“鬼の牛島”との出会いが木村の人生を決定づけた。牛島は自分に果たせなかった天覧試合での優勝を目指して木村を鍛え上げる。木村もそれにこたえ、人の3倍の1日10時間の練習に打ち込む。この厳しい師弟関係を描く前半と力道山戦後に落魄した木村がコーチとして拓殖大柔道部に迎えられてからの物語が個人的には最も心に残った。復帰した木村は後の全日本選手権チャンピオン岩釣兼生と出会い、今度は指導者として日本一を目指すのだ。

グレイシー一族最強と言われるヒクソン・グレイシーは力道山戦のビデオを見せられて著者に言う。「木村は魂を売ってしまったといってもいい。これだけの実績のある武道家がフェイク(八百長)の舞台に上がること自体が間違っている」。木村がプロレスラーに転向したのは戦後の柔道を取り巻く外的要因と木村自身の経済的要因がある。台本(ブック)があり、真剣勝負とは相容れないプロレスの世界に身を置いたことが間違いの始まりではあっただろう。三倍努力のトレーニングによって怪物のような筋肉を身にまとい、一時期、世界最強の座にいた木村はシャープ兄弟との14連戦で力道山に常に負け役を強いられる。それに怒っての力道山戦だったはずだが、力道山が示した引き分けの台本を信じたために、取り返しのつかない事態を招いてしまうのだ。

「私はあえて断言する。あのとき、もし木村政彦がはじめから真剣勝負のつもりでリングに上がっていれば、間違いなく力道山に勝っていたと」とプロローグに書いた著者は長く詳細な検証の末、第28章で「木村政彦は、あの日、負けたのだ」と書くに至る。負けを認めることは著者にとって苦渋の思いだろう。それは読者にとっても同じことだ。しかし、綿密な取材で木村政彦の全体像と時代背景を描くことで、本書からは偉大さと同時に弱さを併せ持った木村政彦という人間の悲劇に対して強い共感の思いがわき上がってくる。著者はこの試合を木村と牛島にとっての“魔の刻”と表現する。個人の力ではどうにもならない運命の時。この本は木村の負けを認めることでより一層深みを増し、輝きを増している。

木村の死の7カ月後に行われた第1回UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)で優勝したホイス・グレイシーは「マサヒコ・キムラは我々にとって特別な存在です」と語ったという。力道山戦の3年前、木村はグレイシー柔術の創始者であるエリオ・グレイシーとの凄絶な死闘を制し、その名をブラジルの地に深く刻んだからだ。日本では既に表舞台から消え、忘れ去られていたが、木村の名前は南米ブラジルのグレイシー柔術関係者の間で脈々と生き続けていた。著者はこのことによって、グレイシー一族が木村の名誉を回復した、と書いているけれども、木村政彦の名誉を本当に回復したのはこの本にほかならない。木村政彦はこの本によって救われたのだ。木村政彦はこの本によって復権を果たすことができた。

重厚長大かつ分厚く熱い感動を呼ぶ希有なノンフィクションだと思う。

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「おかしな男 渥美清」

「男はつらいよ」シリーズを僕はほとんど見ていない。特に理由はなく、消極的に見逃し続けただけだ。それでも渥美清に関心がないわけではなく、著者 が小林信彦ということもあって「おかしな男 渥美清」(新潮社)を読んだ。小林信彦の喜劇人伝は「日本の喜劇人」「世界の喜劇人」「喜劇人に花束を」「植 木等と藤山寛美」「天才伝説 横山やすし」と読んできたが、これは大変な労作「日本の喜劇人」に迫る傑作と思う。データや人の証言を並べただけの伝記とは 異なり、著者が実際に交流を深めた渥美清の複雑な人柄が重層的に浮かび上がる。批評・分析の目が鋭いのである。映画ファン、寅さんファンという枠を超え て、広く読んでほしい好著だ。

著者はあとがきにこう書いている。

彼は複雑な人物で、さまざまな矛盾を抱え込んでいた。無邪気さと計算高さ。強烈な上昇志向と自信。人間に対して幻想を持たない諦めと、にもかかわらず、 人生にある種の夢を持つこと。肉体への暗い不安と猜疑心。非情なまでの現実主義。極端な秘密主義と、誰かに本音を熱く語りたい気持。ストイシズム、独特の 繊細さ、神経質さも含めて、この本の中には、僕が記憶する彼のほぼすべてを書いたつもりだ。

特に終盤(28章以降)の肝臓ガンにかかった渥美清がそれでも寅さんを演じ続ける部分は壮絶である。この期間、著者は実際に渥美清に会っているわけ ではなく、付き人の著作からの引用や新聞・テレビ番組の内容から組み立てているのだが、批評・分析が的確で間然とするところがない。前半部分の密度の濃い 交流とその分析が背景にあるため説得力があるのだ。寅さん=渥美清という皮相的な捉え方とは無縁の、人物の本質を深く突き詰める著者の姿勢は終始一貫揺る がない。

さらに深みを与えるのが「日本の喜劇人」を書いた著者ならではの渥美清の喜劇人としての位置づけだ。森繁久弥、伴淳三郎、ハナ肇、フランキー堺、藤 山寛美に対する評価、特に渥美清と比較した上での評価がとても分かり易い。そういう意味でこれは「日本の喜劇人」と併せて読むと、さらに興味が増す本であ る。日本の喜劇人とは何か、何を目指しているのか、これほど良く分かる著書はない。つまり、この本は渥美清の本当の人柄+喜劇人としての位置づけが一体に なった構成であり、小林信彦でなければ、書けなかった本と言えるだろう。

アチャラカから名優への道を歩んだ森繁久弥の姿は多くの日本の喜劇人が理想とするところである。その森繁久弥が渥美清に贈った次のような言葉は感動的だ(一部を引用。興味がある人は原典に当たって欲しい。134ページから135ページにかけて書いてある)。

それにしても清よ!  俺がここまで来て思うことは、なんと人生は短いものだ――と言うことだ。
一切くだらぬ骨折り損はよせ。ウエンな道には自由がない。良い声も悪い声も共に聞くな。己れを大事にして、アッと言う間に過ぎる、お前さんの“時”を充分に満喫してくれ。
その暁には、何の後悔もないからだ。例え敗惨の姿と世間が笑おうが。
俺たちは芸商の奴隷ではないからだ。分かっているな。
清よ、頑張れ。

森繁久弥は渥美清の素質を高く評価し、孤高の姿勢を理解していたのだろう。小林信彦も書いているが、いつかは自分を追い抜くかもしれない後輩に対してこういう言葉をかけられる人はあまりいない。

以下は蛇足である。
渥美清のガンは若い頃の片肺切除手術の際の輸血が原因という。それが肝硬変、肝臓ガンに進行したとのことで、典型的なC型肝炎である。発病は1982年 というから、かなり長い間、肝炎の症状にも苦しんだと思われる。C型肝炎ウイルス(HCV)が発見されたのは1988年。インターフェロンである程度治療 できるようになったのは、ここ数年のことなのである。

宮崎ロケをした「男はつらいよ 寅次郎の青春」(92年)はシリーズ中では比較的上位に入る良い成績を残したので、松竹九州支社に取材して記事を書 いたことがある。当時のキネマ旬報には「併映の『釣りバカ日誌』シリーズの人気が高まってきたから」との分析があったが、九州支社の答えもその通りだっ た。きっと担当者もキネ旬を読んでいたのだろう。しかし、「男はつらいよ」が終了して単独公開となった「釣りバカ日誌」にいかに力がないかはご存じの通り である。あれは寅さんの併映としてのみの力だったことが良く分かる。あるいは最初は釣りバカにも力があったが、長続きはしなかった、ということか。48作 に及び、ギネスブックにも収録された「男はつらいよ」のようなシリーズはもう日本映画からは出ないだろうと思う。