しかし、終盤に至ってそれを撤回せざるを得なくなった。この作品の終盤はとても力強い。人を勇気づけるような言葉があふれている。「記憶は隠すことができても、歴史を消すことはできない」。何度か繰り返されるこの言葉通りに、主人公の多崎つくるは死ぬことさえ考えた過去の大きな出来事と向き合い、それを乗り越えようとする。これはかけがえのないものを喪失した男が再生への道をたどり始める物語だ。
BGMはフランツ・リストの「ル・マル・デュ・ペイ」(「巡礼の年」第1年:スイスの第8曲)。多崎つくるには名古屋市の公立高校時代、4人の親密な友人がいた。男2人、女2人で、男は赤松と青海、女は白根と黒埜。つくる以外はみんな名字に色が入っている。つくるだけが「色彩を持たない」というわけだ。5人はお互いに恋愛感情を持ち込まず、親密な共同体として機能していたが、つくるだけが東京の大学に行く。大学2年の夏休み、名古屋に帰ったつくるは突然、4人から拒絶された。理由は分からない。アオ(青海)からの「悪いけど、もうこれ以上誰のところにも電話をかけてもらいたくないんだ」と告げる電話が最後だった。翌年1月まで、つくるはほとんど毎日死ぬことだけを考えて過ごすことになる。
16年後、つくるは付き合い始めたばかりの恋人沙羅から「あなたは何かしらの問題を心に抱えている」と指摘される。「あなたはナイーブな傷つきやすい少年としてではなく、一人の自立したプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない。自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ。そうしないとあなたはその重い荷物を抱えたまま、これから先の人生を送ることになる」。
過去の出来事の真相を探るために関係者を訪ね歩くという構成は私立探偵小説の形式を踏まえたものだ。「長いお別れ」を連想したのは友情の崩壊という題材とともにこの形式があったからにほかならない。以下の2つの場面もフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの関係を彷彿させる。訪ねてきたつくるに対して、アカ(赤松)はこう言う。
「そんなに表現に気を遣ってくれなくてもいい。好きになろうと努力する必要もない。おれに好意を抱いてくれる人間なんて、今ではどこにもいない。当然のことだ。おれ自身だって、自分のことをたいして好きになれないものな。でも昔はおれにも、何人かの素晴らしい友だちがいた。おまえもその一人だった。しかし人生のどこかの段階で、そういうものをおれは失ってしまった。シロがある時点で生命の輝きを失ってしまったのと同じように……」。
今はフィンランドに住むクロ(黒埜)のサマーハウスでの会話。つくるは事前に連絡せず、クロを訪ねる。
「先に連絡したら、会ってくれないかもしれないと思ったんだ」
「まさか」とクロは驚いたように言った。「私たちは友だちじゃない」
「かつては友だちだった。でも、今のことはよくわからない」
友情の喪失のほかにもう一つ、この作品の大きなモチーフとしてあるのは輝きを失うということだ。つくるが抜けて数年後、シロと再会したアカはシロが輝きを失ったことに気づく。沙羅も高校時代に「なにをやらせても人目を惹いた」友人が少しずつ色合いを薄くしていったという体験を話す。よくあることだが、若くて純粋で理想に燃えていた人間が俗物になっていくのを見るのは悲しいことだ。村上春樹はそうした悲しみもこの物語にしのばせている。
喪失と再生の物語。現時点でこれは東日本大震災後に書かねばならなかった物語であり、村上春樹流の「がんばろう!日本」と受け取ってもそれほど間違ってはいないだろう。ただ、この作品はもっと普遍性を備えている。20年後、30年後でも十分に通用する物語。「長いお別れ」がそうであるように、優れた小説は何年たっても輝きを失わず、朽ち果てないものだ。
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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