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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

最高の友情とその崩壊を巡る物語。中盤まで、そんなことを考えながら読んでいた。その時、頭にあったのはレイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」だ。村上春樹はチャンドラーのファンだし、「長いお別れ」をはじめとしたチャンドラー作品を翻訳し直してもいる。これは「長いお別れ」の変奏曲なのだろう。

しかし、終盤に至ってそれを撤回せざるを得なくなった。この作品の終盤はとても力強い。人を勇気づけるような言葉があふれている。「記憶は隠すことができても、歴史を消すことはできない」。何度か繰り返されるこの言葉通りに、主人公の多崎つくるは死ぬことさえ考えた過去の大きな出来事と向き合い、それを乗り越えようとする。これはかけがえのないものを喪失した男が再生への道をたどり始める物語だ。

BGMはフランツ・リストの「ル・マル・デュ・ペイ」(「巡礼の年」第1年:スイスの第8曲)。多崎つくるには名古屋市の公立高校時代、4人の親密な友人がいた。男2人、女2人で、男は赤松と青海、女は白根と黒埜。つくる以外はみんな名字に色が入っている。つくるだけが「色彩を持たない」というわけだ。5人はお互いに恋愛感情を持ち込まず、親密な共同体として機能していたが、つくるだけが東京の大学に行く。大学2年の夏休み、名古屋に帰ったつくるは突然、4人から拒絶された。理由は分からない。アオ(青海)からの「悪いけど、もうこれ以上誰のところにも電話をかけてもらいたくないんだ」と告げる電話が最後だった。翌年1月まで、つくるはほとんど毎日死ぬことだけを考えて過ごすことになる。

16年後、つくるは付き合い始めたばかりの恋人沙羅から「あなたは何かしらの問題を心に抱えている」と指摘される。「あなたはナイーブな傷つきやすい少年としてではなく、一人の自立したプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない。自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ。そうしないとあなたはその重い荷物を抱えたまま、これから先の人生を送ることになる」。

過去の出来事の真相を探るために関係者を訪ね歩くという構成は私立探偵小説の形式を踏まえたものだ。「長いお別れ」を連想したのは友情の崩壊という題材とともにこの形式があったからにほかならない。以下の2つの場面もフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの関係を彷彿させる。訪ねてきたつくるに対して、アカ(赤松)はこう言う。

「そんなに表現に気を遣ってくれなくてもいい。好きになろうと努力する必要もない。おれに好意を抱いてくれる人間なんて、今ではどこにもいない。当然のことだ。おれ自身だって、自分のことをたいして好きになれないものな。でも昔はおれにも、何人かの素晴らしい友だちがいた。おまえもその一人だった。しかし人生のどこかの段階で、そういうものをおれは失ってしまった。シロがある時点で生命の輝きを失ってしまったのと同じように……」。

今はフィンランドに住むクロ(黒埜)のサマーハウスでの会話。つくるは事前に連絡せず、クロを訪ねる。

「先に連絡したら、会ってくれないかもしれないと思ったんだ」
「まさか」とクロは驚いたように言った。「私たちは友だちじゃない」
「かつては友だちだった。でも、今のことはよくわからない」

友情の喪失のほかにもう一つ、この作品の大きなモチーフとしてあるのは輝きを失うということだ。つくるが抜けて数年後、シロと再会したアカはシロが輝きを失ったことに気づく。沙羅も高校時代に「なにをやらせても人目を惹いた」友人が少しずつ色合いを薄くしていったという体験を話す。よくあることだが、若くて純粋で理想に燃えていた人間が俗物になっていくのを見るのは悲しいことだ。村上春樹はそうした悲しみもこの物語にしのばせている。

喪失と再生の物語。現時点でこれは東日本大震災後に書かねばならなかった物語であり、村上春樹流の「がんばろう!日本」と受け取ってもそれほど間違ってはいないだろう。ただ、この作品はもっと普遍性を備えている。20年後、30年後でも十分に通用する物語。「長いお別れ」がそうであるように、優れた小説は何年たっても輝きを失わず、朽ち果てないものだ。

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
リスト:《巡礼の年》全曲

「コミュニティ」

「コミュニティ」

「コミュニティ」

先日、amazonから「篠田節子の『コミュニティ』お求めいただけます」とのメールが来たのを覚えていたので、書店で見かけた際に買った。2006年に出た「夜のジンファンデル」を改題した短編集。91年から02年にかけて発表された6編が収録されており、「夜のジンファンデル」以外はホラーの要素が強い。考えてみると、篠田節子の短編集を読むのは初めてだが、どれも面白かった。

「大人の恋愛小説の金字塔」と解説で絶賛されている「夜のジンファンデル」は結婚している男女の秘めた恋心を描き、切なさと官能性を併せ持つ。特に女性に受けが良いのだろうなと思う。古い団地の異常な連帯が明らかになる表題作の「コミュニティ」とブラックな味わいを持つ「永久保存」には超常現象は出てこない。残りの3編「ポケットの中の晩餐」「絆」「恨み祓い師」がホラーらしいホラーということになる。

「ポケットの中の晩餐」は読んでいて筒井康隆の「鍵」(「バブリング創世記」に収録)を思い出した。「鍵」は鍵を巡って過去をたどりながら、数々の出来事を思い出していく話で、男にとってはラストの場面が悪夢のように怖い。解説で井上ひさしが絶賛していた。「ポケットの中の晩餐」はアニメーションのメカニックデザイナーとして成功した男が故郷に帰ってくる話。故郷といっても電車で40分だが、男は13年間帰っていなかった。男は中学時代、やや知的障害がある深雪という少女と交流があった。家のパン屋を手伝っていた深雪のポケットには驚くほど大量の食べ物が詰め込まれていた。高校を中退して東京に行った男は父親の事業の失敗で故郷に帰り、出会った深雪を抱く。その後、深雪は子宮外妊娠で死んでいたことが分かる。そして、今回の帰郷で男は深雪と再び出会うのだ。

「絆」は不倫の恋を続けていた女が手切れ金代わりにリゾートマンションを贈られる話。そのマンションには大きな冷蔵庫があった。ある夜、女は冷蔵庫の中から扉を叩くような音を聞き、冷蔵庫から男の子が出てくるのを見る。やがてこのマンションでは有名女優の娘が死んでいたことが分かる。娘ではなく、息子ではなかったのか。気味の悪くなった女は冷蔵庫を捨てるが、それが新たな悲劇をもたらすことになる。

「恨み祓い師」は古い貸家に住む年老いた母娘にまつわる話。シリーズ化しても面白そうな題材だった。篠田節子がどれぐらいの短編を書いているのか知らないが、この作品集、当たり外れがない。新作の長編「薄暮」も読んでみたくなった。

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「1Q84」

「1Q84」

「1Q84」

物語の発端は200ページを越えたあたりにある。10歳だった天吾がほかに誰もいない教室で同級生の少女・青豆に手を握られるシーン。青豆の両親は「証人会」という宗教団体にいて、青豆もそこの集団生活で育てられた。給食の時にもお祈りをしなくてはならず、クラスの中で浮いた存在。というよりも存在自体を無視されていた。ある時、天吾はクラスメートにからかわれた青豆を助ける。父親がNHKの集金人で日曜日にはいつも父親に連れられて集金に回っていた天吾には青豆の境遇がよく分かったのだ。青豆が手を握ったのは二人がともに不幸な境遇にあったことに理由があったのかもしれない。

彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣りに立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた(天吾の方が十センチばかり身長が高かった)。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。

20年後、天吾は予備校の講師をしながら作家を目指している。青豆はスポーツインストラクターをしながら、殺し屋になっている。天吾はふかえり(深田絵里子)という17歳の美少女の小説「空気さなぎ」をリライトすることになり、青豆は10代の少女に性行為を繰り返しているある宗教団体の教祖の殺害を依頼される。この2人の物語が1984年とは少し異なる世界、月が2つある1Q84年の世界で交互に語られる。それがいずれ交差していくのは目に見えており、これを天吾と青豆のラブストーリーとして読んでも少しも間違いではないだろう。

2人はまともに言葉を交わすこともなく別れたが、それ以来、青豆にとって天吾は唯一の愛する人となった。そして物語の終盤で、ある人物から天吾もまた青豆を求めていることを知らされる。

「そんなことは信じられません。彼が私のことなんか覚えているはずがない」
「いや、天吾くんは君がこの世界に存在することをちゃんと覚えているし、君を求めてもいる。そして、今に至るまで君以外の女性を愛したことは一度もない」
青豆はしばらく言葉を失っていた。そのあいだ激しい落雷は、短い間隔を置いて続いていた。

賛否両論ある小説で、物語が何も解決しないまま終わるのは不満ではあるし、パラレルワールドSFだったら、枝葉末節を省けば、1冊で終わる話ではないかとも思うのだけれど、それよりも読書する楽しみに満ちた小説だと思う。細部のエピソードや描写を読んでいて全然退屈しない。これが優れた小説の一番の美点なのではないかと僕は思う。純文学作家の作品としてはマイケル・シェイボン「ユダヤ警官同盟」などよりは、はるかに面白く読めた。その前にこれが純文学かと思う。エンタテインメント小説と言っても何らおかしくはない。

「説明されなければ分からないことは、説明されても分からない」という言葉が小説の中で何度か繰り返される。これ、物語の詳細を説明するのを省くためではないかという思いもちらりと頭をかすめるが、確かに小説や映画の面白さは説明されて分かるものではない。常々考えていることなので、なるほどなと思った。

村上春樹の小説はこれまで1冊も読んだことがなかった。僕の趣味とも興味とも関係ない作家という感じを持っていた。この小説も書店の店頭で1冊だけ残っていた上巻を見なかったら、買うことはなかっただろう。買って正解だった。村上春樹の他の本も読みたくなった。

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「クローズド・ノート」

「クローズド・ノート」

「クローズド・ノート」

昨日半分ぐらいまで読んだ雫井脩介「クローズド・ノート」の続きを読む。映画の予告編は何か深刻な感じだが、原作は少女漫画のような感じ。主人公のキャラクターが少し抜けててかわいいのである。雫井脩介だけれどもミステリではなく、恋愛小説。タッチが軽いのは携帯向けサイトの文庫読み放題に連載されたものだからか。

主人公の香恵は教育大学の学生で文具店でアルバイトをしている。引っ越したアパートに前の住人のノートが残されていた。ノートの持ち主は真野伊吹。小学校の先生で、ノートには生徒との交流が生き生きと綴られていた。香恵は万年筆売り場の担当になるが、そこに無精ひげを生やした男が来る。試し書きに猫の絵を描いた男、石飛隆作に徐々に香恵は引かれていく。

Web本の雑誌の評価を見ると、酷評している人もいる。僕はそこまでとは思わないが、これはもう少し書き込むべき話のように思う。できれば、主人公の恋愛感情は背景にして真野伊吹先生の人となりをもっと詳しく読みたかったところだ。不登校の児童との交流が描かれる前半に比べて、後半、隆との恋愛がメインになってくると、前半の魅力が薄くなっているように思う。香恵を語り手にした隆と伊吹の恋愛小説にすれば良かったのだ。

映画の方もあまり評判はよろしくないようだ。以下はYUIが歌う映画の主題歌のPV(予告編は公式サイトにもあるが、このサイト重すぎて話にならない。なんで、こんなに重いのか)。

あとがきにはこの小説の成り立ちが書かれていて、そこだけしんみりさせる。真野伊吹のモデルは、学校の先生で事故死した雫井脩介の姉とのこと。だから小説の中に姉が残した実際の手記の一部が引用されている。

映画への期待は、主役ではないけれども、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で好演した永作博美が出ていることか。

「きみに読む物語」

映画を見たとき、原作は薄っぺらな話ではないのかと思ったが、予想は当たった。帯にあるのは「全米450万部 奇跡の恋愛小説」という言葉。ほんとにこんな簡単な小説が450万部も売れるとは奇跡以外のなにものでもない。250ページほどの短い小説で、最初の40ぺージ余りがノアとアリーの若いころの話、続いて再会した2日間が130ページほど、最後の年老いてからの話が70ページ余りである。これを読むと、映画の脚本はかなりうまく脚色しているなと思う。小説よりも映画の方が優れている数少ない例と言える。

若い頃の話などは、小説ではほとんどプロットそのままと言ってもいいぐらいの描写だが、映画はここに重点をおいてじっくり描いていた。原作にないエピソードも入れており、描写が細かい。そうしないと、再会後の2人の気持ちの高まりに説得力がないのである。原作にはアリーの母親が若い頃の恋を話すエピソードもない。

アメリカのベストセラーは分厚くて詳細な描写があるのが普通だが、この小説、描写に関しては本当に薄いし、構成も簡単だ。ただ、よく分かったのはアリーがロンをどう思っているのかという部分。ロンはただの仕事人間であり、アリーとの出会いも映画とは異なる。原作ではこう書かれている。

あとでアリーは、ロンと最後に話をしたときのことを思い出そうとした。ロンはじっくり聴いてくれたが、言葉のやりとりはあまりなかった。彼は会話を楽しむタイプではなく、アリーの父のように、考えや感情を人とわかちあうのが苦手だった。彼にもっと近づきたいと説明しても、手ごたえのある返事はなかった。

こういう部分をもっと強調してくれれば、映画に対する印象も変わったと思う。原作者のニコラス・スパークスは「メッセージ・イン・ア・ボトル」の作家で、これがデビュー作とのこと。続編が出たそうだが、もう読むことはないだろう。