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「鴨川ホルモー」

極めて鈍感な主人公は楠木ふみがなぜ、京大青竜会を二分させるのに三好兄弟を説得したのか分からない。その前になぜ、楠木ふみが自分に賛同したのかが分からない。「ひょっとして、楠木も芦屋のことが好きだったりして?」。そう言った後に楠木ふみがみるみる泣きそうになってもまだ分からない。いや、むしろ誤解する。これは図星だったために泣きそうになったのだと。

「すまない……俺が無神経だった。このとおりだ。ごめん――」
「違う」
彼女は唇を噛みながら、激しく首を振った。

「鴨川ホルモー」

「鴨川ホルモー」

結局のところ、「鴨川ホルモー」という小説はこういう展開に尽きる。二浪して京大に入った主人公は勧誘されたサークルの京大青竜会のコンパで素晴らしい鼻を持つ早良京子に一目惚れする。鼻フェチなのである。紆余曲折があって、主人公は失恋し、ライバルの芦屋と一緒のサークルにいることが耐えられなくなり、青竜会を二分させることにするのだ。それになぜか、大木凡人に似た髪型で眼鏡の楠木ふみが賛同してくれる。

奇想天外な設定でくすくす笑える場面が多くても、この小説はこういう極めて普通の青春小説に着地する。SF的な展開が抑えられているので、SFファンとしては物足りないのだけれど、この展開も悪くない。コメディの装いではあっても、青春小説の本筋からは離れないのだ。だから、次のような一節も実にぴったり来る。オニ(式神)を操って戦う競技ホルモーの最強の相手、芦屋に対して仲間たちが少しもひるまない様子を見て、主人公はこう思う。

高村や三好兄弟や楠木ふみが、あれほど強い気持ちを持ってるのはなぜか?
それは――彼らは信じているからだ。彼らは自分の力を信じている。何よりも、彼らは仲間の力を信じている。芦屋より強いか弱いかなどという、つまらない比較はハナからそこに存在しない。

映画の「鴨川ホルモー」に欠けていたのはこういう部分だったように思う。この原作も映画同様に僕は絶賛はしないけれど、映画にはないエピソードもあり、楽しく読めた。主人公の名前が安倍晴明を思わせる安倍明であることの意味が映画では何ら説明されなかったが、小説では最後の方にちゃんと説明されていた。

「荒野へ」

「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作。これは映画よりも感動的なノンフィクションである。著者は登山家で文筆家のジョン・クラカワー。クラカワーはアウトドア雑誌にアラスカで餓死したクリス・マッカンドレスについて9000語の記事を書いた後、マッカンドレスと自分に共通点が多いことが気になり、さらに詳細にその足跡を調べ始める。マッカンドレスが交流した多くの人たちや死体の発見者にインタビューし、アラスカの現場まで出かける。そして「向こう見ずな愚か者」「変わり者」「傲慢と愚行によって命を落としたナルシスト」という非難を退けるマッカンドレスの真の姿を明らかにする。

この本が感動的なのはマッカンドレスの生き方が感動的だからではない。著者がマッカンドレスの生き方を理解し、共感し、なぜ若者が荒野を、冒険を目指すのかを自分の体験や多くの先例を出して説明しているからだ。何よりも著者がマッカンドレスに深く寄り添っているからだ。ショーン・ペンがこの原作に感動し、映画化しようと思ったのもそこがあるからだろう。しかし、映画にはクラカワーの視点を取り入れようがなかった。いや少しは入っているだろうが、十分ではなかった。マッカンドレスの生き方とさまざな人たちとの交流は分かるけれども、荒野を目指す若者に対して、観客に共感を十分持たせるには至っていない。

原作の前半で最も感動的なのは映画でハル・ホルブルックが演じた老人との交流の場面(第6章)だ。老人は雑誌の記事のことを知り、雑誌を1冊譲ってくれと雑誌社に手紙を出してくる。その手紙を読んだ著者は老人にインタビューに出かける。

マッカンドレスは放浪の旅の途中で多くの人々に忘れられない印象をあたえていた。その大半は、彼といっしょに過ごしたのがわずか数日、長くても一、二週間にすぎなかった。しかし、男性にせよ、女性にせよ、ロナルド・フランツほど深く心を動かされたものは、誰もいない。一九九二年一月にふたりの進んでいた道が交差したとき、彼は八十歳だった。

老人とマッカンドレスの数週間に及ぶ交流は映画に描かれた通りだ。若い頃、酔っぱらい運転の車にはねられて妻子を亡くした老人はその後さまざまな若者の援助をする。年を取ってそれを辞め、孤独な生活を送っていた頃にマッカンドレスと知り合い、再び父性が頭をもたげ、援助し、養子にならないかと誘う。マッカンドレスに影響を受けた老人はマッカンドレスと別れた後に助言に従って、キャンプを体験するようになる。そんな時、ヒッチハイクをしていた若者2人を車に乗せ、マッカンドレスの死を知らされる。

「アレックスがアラスカへ出発したときに」フランツはそのときのことをよく覚えていた。「私は祈ったんだ。アレックスの肩にかけた手を放さないでください、と神に願いごとをしたわけさ。あれは特別な若者だって神に言ったんだよ。だけど、神はアレックスを死なせてしまった。それで、なにが起こったか、私は12月26日に知り、神を捨てた。教会員であるのをやめ、無神論者になった。アレックスのような若者の身に恐ろしいことをもたらす神を信じないことに決めたんだ」

後半はマッカンドレス家の事情となぜマッカンドレスが荒野へ出かけたのか、どうやって死んだのかを詳細に描く。若者が荒野を目指す理由について、著者は自分が22歳のころに行った単独登山のことを2章にわたって書く。そして死因について、明らかにする。映画では食用の植物と毒のある植物を間違って食べたからと説明されたが、原作では違う。確かに最初の記事を書いた際、著者は毒のある植物を食べたためとしていたが、その後の調査で食用の植物にもサヤの部分に毒があることが分かる。サヤにはアルカイドが含まれていた。この毒が体に入ると、「身体は食べたものを役に立つエネルギーの熱源に変えることができなくなるのだ。スウェインソニンを大量に摂取すると、たとえどんなに食べ物を胃に入れても必ず餓死するのである」。

餓死の説明は同じであっても、映画はなぜこの部分を改変したのだろう。このサヤの部分の毒に関して書いた書物はマッカンドレスが死んだ当時にはなかった。映画ではマッカンドレスが植物図鑑を見て自分が間違った植物を食べてしまったと理解する場面があるけれども、あれではマッカンドレスはやっぱり愚かな青年になってしまうのではないか。原作が出たのは1996年。その後、やっぱり間違った植物を食べたという結論になったことも考えられるが、可能性は薄いように思う。映画の描き方として、主人公が知らない植物の実態について説明しようがなかったためではないかと思われる。

あと、なぜあのバスがアラスカの荒野にあったのか、農場主のウェインが逮捕されたのはなぜかなど、映画では分からない細かい部分もよく分かった。映画にあまり興味を持てなかった人もこの原作には共感できると思う。

最後になぜ、青年は荒野を目指すのか、その重要な部分を引用しておく。エヴェレット・ルースとは1930年代にマッカンドレスと同様に荒野を愛し、そこで生き、行方不明となった若者である。

大人の月並みな関心事しか頭にない私たちにとって、若さの情熱さと憧れにはげしく翻弄されたころのことを思い出すのがいかに困難かをはっきり示している。エヴェレット・ルースの父親が、二十歳の息子が荒れ地で姿を消した何年かあとで、感慨をこめて言ったように、「年配の者には、若い者の奔放な情熱は分からない。誰にもエヴェレットの気持ちはよく理解できないと思う」

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「チャイルド44」

最近、こんなに夢中になって読んだ本も珍しい。旧ソ連、スターリン政権下で起きる連続殺人を描いているが、本筋はサイコミステリではない。国家保安省(KGBの前身)のエリートだった主人公が卑劣な部下の罠にはめられ、地方の民警に飛ばされて殺人事件に遭遇するという設定の中で、主人公が人間性と妻の愛を取り戻す様子を描くのが本筋なのだ。優れたスパイ・冒険・スリラー小説に贈られるCWA(英国推理作家協会)スティール・ダガー賞を受賞していることから分かるように、これはほとんど冒険小説。再生していく主人公レオとその妻ライーサの毅然とした姿に強く心を揺さぶられる。

一度疑われたら終わりという監獄のような社会の怖さ。上巻のほとんどを費やして描かれるのはその社会の異常さだ。飢えた兄弟が猫を捕まえようとする出だしから引き込まれ、ページを繰る手が止まらない。上巻は100点満点。死と隣り合わせの中で事件を捜査するレオを描く下巻はミステリ部分がうまく進みすぎるきらいがあるが、それは処女作であるがゆえの瑕疵と言うべきか。「ウォッチメイカー」に感じた、人間が描かれていないという不満はここにはまったくない。

レオの年老いた両親は恵まれた暮らしをしていたが、レオの降格で狭くて汚い共同住宅に移され、重労働を課せられる。レオとライーサは密かに両親のもとを訪ね、その悲惨な境遇に涙する。「おれがもっといいところに住めるようにしなくちゃいけなかったのに」と言うレオに対して母親のアンナはこう答える。

「それはちがうわ、レオ。聞いてちょうだい。わたしたちがおまえを愛してるのはおまえがわたしたちにいろいろとしてくれるからだって、おまえはいつもそんなふうに思い込んでる。子供の頃でさえそうだった。それはちがうわ。おまえはもっと自分の人生に目を向けるべきよ。わたしたちはもう歳なんだから、どこに住もうと大したことじゃない。今だってわたしたちが生きていられるのは、おまえから何か知らせがないかって、それを待つことができたからよ。… (中略)レオ、おまえを心から愛してる。おまえはずっと母さんの誇りだった。おまえが仕えた政府がもっといい政府だったらよかったのに。そういうことよ」

登場人物の隅々にまで目を配った傑作。冒険小説と銘打ってはいないが、冒険小説ファンは読まなくてはいけない本だと思う。著者のトム・ロブ・スミスは1979年生まれ。既に次作「Secret Speech」が完成しており、来年出版される。楽しみに待ちたい。ちなみに本書はリドリー・スコット監督によって映画化が決まっているそうだ。こちらも楽しみ。

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「君のためなら千回でも」

「君のためなら千回でも」

「君のためなら千回でも」

同名映画の原作。2006年に出たカーレド・ホッセイニ「カイト・ランナー」を改題してハヤカワepi文庫から出ている。読み終わった印象としては上巻100点満点、下巻70点といったところ。下巻、タリバンが支配するアフガニスタンに入るくだりの展開が冒険小説的なのが惜しい。いや、冒険小説は好 きなのだが、文芸作品として読んでいたので、通俗小説のような展開に違和感があった。それに話のつじつまが合いすぎるのも難に思えてくる。エピソードに符合するエピソードが余計に感じるのである。これは処女小説であるがゆえの瑕疵と言うべきか。ただし、普遍性のある話である。罪と贖罪、父と息子、家族の物語。主人公を取り巻く人物たちが圧倒的に素晴らしく、胸を揺さぶる。

まだ平和だったころのアフガニスタン。主人公のアミールは裕福な家庭に生まれる。母親は出産時に死亡。父親のババは男気のある実業家で周囲の尊敬を集めている。アミールは父親と正反対の物静かな性格で、父親の愛を得ようとして得られない「エデンの東」のジェームズ・ディーンのような親子関係にある。アミールの家にはハザラ人で召使いのアリとその子どもハッサンが土の小屋で暮らしている。ババとアリは幼いころから一緒に育った。アリは3歳のころに小児麻痺にかかり右足が不自由だが、2人の結びつきは強い。ハッサンは口唇裂で、身持ちの悪かった母親はハッサンを生んだ後、家を出てしまう。母親がいない同じ境遇の下、アミールとハッサンもまたババとアリのような絆に結ばれている。しかし、アミールの心の中にはハッサンを見下した部分があった。

こうした設定の下、物語は「わたしが今のわたしになった」1975年12月の出来事を描く。臆病なアミールはある事件でハッサンを見捨てて逃げてしまう。しかもすべてを知られたと思ったアミールはハッサンにつらく当たり、決定的に卑劣なことをしてアリとハッサンを家から追い出す。ソ連のアフガニスタン侵攻でアメリカに渡ったアミールのもとへ、20数年後、ババの仕事上のパートナーでアミールのよき理解者だったラヒムから電話がかかってくる。「来るんだ。もう一度やり直す道がある」。ラヒムもまたすべてを知っていたのだ。そしてアミールは封じ込めていた過去と向き合うことになる。

原題の「The Kite Runner」(凧追い)は凧揚げ競争で糸の切れた凧を手に入れようと追いかける子供のこと。言うまでもなく凧追いが抜群にうまかったハッサンを指している。不幸な境遇にあるアリとハッサンのまっすぐに生きる姿、曲がったことが嫌いなババの描写が胸を打つ。それに比べれば、主人公のアミールは全然立派ではないのだが、一般的な人はこういう存在だろう。それでもアミールは命がけでアフガニスタンに帰り、過去の罪を清算するためにある任務を果たすことになる。

上巻のアミールは単なる語り手にすぎないが、後半は本当の主人公になるわけだ。本の帯にある「全世界を感動で包み込み800万人が涙に濡れた」という言葉に全面的に賛成はしないけれども、読んで損はない小説だと思う。全体の構成に難は感じるが、少なくとも、僕も涙に濡れた描写があったのは間違いない。

「夜の声」

「夜の声」

「夜の声」

ウィリアム・ホープ・ホジスンの短編集。創元推理文庫の初版は1985年で長らく絶版になっていたが、昨年9月に復刊された。「闇の声」のタイトルで知られる「マタンゴ」の基になった小説で、20ページの短編。

暗く星のない夜、北太平洋の海上でスクーナー(帆船の一種)にボートが近づいてくる。ボートに乗った男は離れた所から「灯を消してくれ」と言い、食べ物を要望する。姿を見せないまま食料を受け取った男は数時間後、再びスクーナーに近づき、暗闇の中で自分と一緒にいる女の話を語り始める。この男女が乗っていたアルバトロス号という船は嵐で浸水し、沈没しそうになる。他の乗組員はボートで脱出。取り残された2人はいかだを作って脱出し、4日後に霧に覆われたラグーンの中で無人の帆船を見つける。帆船の中はキノコで覆い尽くされていた。食料は少なく、やがて女はキノコを食べてしまう。

「マタンゴ」と違うのはキノコを食べる前から男女の体には小さなキノコが生え始めること。吉村達也の「マタンゴ 最後の逆襲」(まだ読み終えていない)は胞子が感染原因と説明しているが、この小説の設定がヒントになったのかもしれない。

「夜の声」を原案にして「マタンゴ」の脚本を書いたのは福島正実と星新一。あれだけの醜い人間ドラマを入れたのはえらいと思う。もっとも星新一は脚本の出来には不満があったようで、後年、エッセイで「あの結末はつじつまが合わない」と書いていた。

「夜の声」の巻末の解説は「マタンゴ」には触れていない。まあ、カルト映画ファン以外には通用しないから、仕方ないでしょうね。