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「64(ロクヨン)」


 「クライマーズ・ハイ」を超えられるはずはないと思っていた。横山秀夫の体験を基にし、一番詳しい元の職場を舞台にした作品なのだから、それを超える小説ができるはずがない。だから本棚に3年以上も放置してあった。映画が公開される直前に読み始めた。先に映画を見てストーリーを知ってしまったら、恐らく一生読まないことになる。読んでみて、浅はかな考えだったと痛感した。これは「クライマーズ・ハイ」を超えている。テーマ的に「クライマーズ・ハイ」を継承し、深化させ、圧倒的な筆致で描いた重量級の傑作だ。

「クライマーズ・ハイ」で気になったのはラスト、地方の支局に飛ばされた主人公のその後だった。エピローグで少し描かれてはいるが、主人公が今の境遇をどう考えているのか、詳細には語られなかった。「64」は自分が望まない職場に配置された主人公がさまざまな人間関係の軋轢や次々に起きる問題に立ち向かう姿を描いている。

昭和64年1月5日に起きた誘拐殺人事件、刑事たちから「ロクヨン」と呼ばれる未解決事件が物語の中心軸にあるが、何よりもこれは組織と人間を描いた小説だ。分厚い感動を生むために横山秀夫は微に入り細にわたったエピソードと描写を費やしている。絶対に細部をおろそかにしないという著者の強い意志が感じられ、647ページの分量に無駄な部分は一切ない。

58万世帯、人口182万人のD県。県警の刑事として20年間勤めた主人公・三上は広報官に異動させられた。広報勤務は20年前に1年間だけ経験していた。刑事部と警務部には対立感情があり、刑事部は警務部の人間を信用していない。刑事が本職と考えている三上は当初は広報室改革に乗り出すが、非協力的な刑事部と記者たちとの関係などさまざまな壁に限界を感じて普通の広報官、警務の人間になりつつあった。そんな時、警察庁長官の視察が決まる。長官は14年前に起きた誘拐殺人事件の被害者宅を訪ねる計画。そこで記者からぶら下がり取材を受けることで、事件の新たな情報提供に結びつけたいという警察の思惑があった。

ロクヨンは7歳の少女が誘拐され、身代金2000万円を奪われた上、少女が死体で見つかるという最悪の結末を迎えた事件。三上は被害者の父親・雨宮に長官訪問の了解を取りに行くが、断られてしまう。一人娘を殺され、妻も病気で亡くして一人暮らしの雨宮には事件を解決できない警察への不信感があるようだった。三上も当時の捜査に加わっていた。ここからロクヨンの捜査にかかわった刑事と関係者の当時と今の姿が語られていく。

三上の一人娘で高校生のあゆみは家出して行方が分からない。元婦人警官の妻・美那子はそれ以来、家から出なくなった。鬼瓦のような顔をした三上と美人の美那子の結婚は「県警の七不思議」と言われた。この家族のサイドストーリーもいい。2人は娘についてこう話す。

「ウチに生まれたのが間違いだって言いたいのか」
「そんなこと言ってない。あゆみにとって本当に必要なのは、私たちじゃない誰かかもしれないって思うの」
「誰かって誰だ」
「きっとどこかにいるんだと思う。ああなってほしいとかこうなってもらいたいとか望まずに、ありのままのあゆみを受け入れてくれる人が。そのままでいいのよ、って黙って見守ってくれる人が。そこがあゆみの居場所なの。そこならあゆみはのびのび生きていける。ここじゃなかったの。私たちじゃなかったの。だからあゆみは出て行ったの」

匿名発表を巡る記者クラブとの対立や同期の二渡(ふたわたり)の不審な行動、ロクヨンに関わり、引きこもりになった元警察官などさまざまなエピソードが3分の2にわたって描かれた後、ロクヨンの模倣事件が発生するクライマックスに突入する。その過程で主人公の考えの変化も描かれていく。警察小説というと、複数の事件が同時並行して描かれるモジュラー型の小説をイメージするのだけれど、これも立派な警察小説だ。連載を途中で打ち切り、出版寸前まで行った作品も反故にしてほとんどをあらたに書き下ろしたという作者の執念が結実した傑作だと思う。

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「ノックス・マシン」


 「このミス」2014年版の国内編1位。表題作のほか、「引き立て役倶楽部の陰謀」「バベルの牢獄」「論理蒸発 ノックス・マシン2」の計4編を収録している。

Kindle版には「バベルの陰謀」が含まれていない。これは活字でなければできない作りだからだ。具体的には裏返し(鏡像)の文字があるのだ。こういう文字は電子書籍では画像にするしかないが、拡大縮小ができないので収録は難しい。アルフレッド・ベスター「虎よ!虎よ!」など作品中に文字以外のものが混ざっている作品も同じだろう。電子書籍、万能ではない。

この作品集、端的に言うと、SFファンにとってはSF度が物足りなく感じ、本格ミステリの名作に詳しくない人は面白さが分からないだろう。SFの知識があまりなく、本格ミステリを古い作品から読み込んでいるファンは喜ぶという作品だ。

表題作はイギリスの作家ロナルド・ノックスが1929年に発表した探偵小説のルール集「ノックスの十戒」をめぐる話。設定と経緯が長々と説明されて、いきなりエピローグになるという話である。一言で言うと、バランスが悪い。アイデア自体はバカSFに近い。2058年が舞台。コンピュータが文学を創造するようになり、質的にも人間を超えた時代、主人公の大学生ユアン・チンルウは20世紀初頭のパズラーを愛し、ノックスの十戒を研究テーマに選んだ。その第5項には政治的に正しくない記述がある。「探偵小説には、中国人を登場させてはならない」。なぜノックスはこの項目を入れたのか。チンルウはこれを深く研究し、論文を書く。ある日、国家科学技術局に呼び出しを受ける。

タイムトラベルを絡めた展開だが、設定はSFでもSF的には発展していかない。短編で書くには短く、長編を支えられるアイデアでもないという難しいところにある。「論理蒸発 ノックス・マシン2」はこれの続編で2073年が舞台となる。

作者はあとがきでこう書いている。

荒唐無稽なSFといっても、「どこまで風呂敷を広げられるか」よりも、「広げた風呂敷をどうやって畳むか」の方に思考が向かいがちなのは、ミステリ作家の性でしょう。

そう、ミステリは必ず謎が論理的に解決される閉じた物語であり、SFは開放した物語だ。例えば、アイザック・アシモフが書いたSFミステリはミステリとして完結しても結末には広がりが感じられた。ミステリ作家がSFにアプローチした場合とSF作家がミステリ寄りの作品を書いた場合、はっきりと違いが出てくる。だから、この作品にSFの面白さを期待するのは見当違いというものなのだろう。

それでも4編とも好感が持てるのはパスティーシュのようなユーモアが根底にあるからだ。ワトソンやヘイスティングス大佐が、引き立て役(名探偵の相棒)の出てこないクリスティーの「アクロイド殺し」と「そして誰もいなくなった」をめぐって議論する「引き立て役倶楽部の陰謀」にはニヤリとさせられる。電子書籍よりも活字の本を愛する作者の思いが前面に出ているのも好感の要因になっている。本当の本好きは電子書籍では満足しないものなのだ。

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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

最高の友情とその崩壊を巡る物語。中盤まで、そんなことを考えながら読んでいた。その時、頭にあったのはレイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」だ。村上春樹はチャンドラーのファンだし、「長いお別れ」をはじめとしたチャンドラー作品を翻訳し直してもいる。これは「長いお別れ」の変奏曲なのだろう。

しかし、終盤に至ってそれを撤回せざるを得なくなった。この作品の終盤はとても力強い。人を勇気づけるような言葉があふれている。「記憶は隠すことができても、歴史を消すことはできない」。何度か繰り返されるこの言葉通りに、主人公の多崎つくるは死ぬことさえ考えた過去の大きな出来事と向き合い、それを乗り越えようとする。これはかけがえのないものを喪失した男が再生への道をたどり始める物語だ。

BGMはフランツ・リストの「ル・マル・デュ・ペイ」(「巡礼の年」第1年:スイスの第8曲)。多崎つくるには名古屋市の公立高校時代、4人の親密な友人がいた。男2人、女2人で、男は赤松と青海、女は白根と黒埜。つくる以外はみんな名字に色が入っている。つくるだけが「色彩を持たない」というわけだ。5人はお互いに恋愛感情を持ち込まず、親密な共同体として機能していたが、つくるだけが東京の大学に行く。大学2年の夏休み、名古屋に帰ったつくるは突然、4人から拒絶された。理由は分からない。アオ(青海)からの「悪いけど、もうこれ以上誰のところにも電話をかけてもらいたくないんだ」と告げる電話が最後だった。翌年1月まで、つくるはほとんど毎日死ぬことだけを考えて過ごすことになる。

16年後、つくるは付き合い始めたばかりの恋人沙羅から「あなたは何かしらの問題を心に抱えている」と指摘される。「あなたはナイーブな傷つきやすい少年としてではなく、一人の自立したプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない。自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ。そうしないとあなたはその重い荷物を抱えたまま、これから先の人生を送ることになる」。

過去の出来事の真相を探るために関係者を訪ね歩くという構成は私立探偵小説の形式を踏まえたものだ。「長いお別れ」を連想したのは友情の崩壊という題材とともにこの形式があったからにほかならない。以下の2つの場面もフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの関係を彷彿させる。訪ねてきたつくるに対して、アカ(赤松)はこう言う。

「そんなに表現に気を遣ってくれなくてもいい。好きになろうと努力する必要もない。おれに好意を抱いてくれる人間なんて、今ではどこにもいない。当然のことだ。おれ自身だって、自分のことをたいして好きになれないものな。でも昔はおれにも、何人かの素晴らしい友だちがいた。おまえもその一人だった。しかし人生のどこかの段階で、そういうものをおれは失ってしまった。シロがある時点で生命の輝きを失ってしまったのと同じように……」。

今はフィンランドに住むクロ(黒埜)のサマーハウスでの会話。つくるは事前に連絡せず、クロを訪ねる。

「先に連絡したら、会ってくれないかもしれないと思ったんだ」
「まさか」とクロは驚いたように言った。「私たちは友だちじゃない」
「かつては友だちだった。でも、今のことはよくわからない」

友情の喪失のほかにもう一つ、この作品の大きなモチーフとしてあるのは輝きを失うということだ。つくるが抜けて数年後、シロと再会したアカはシロが輝きを失ったことに気づく。沙羅も高校時代に「なにをやらせても人目を惹いた」友人が少しずつ色合いを薄くしていったという体験を話す。よくあることだが、若くて純粋で理想に燃えていた人間が俗物になっていくのを見るのは悲しいことだ。村上春樹はそうした悲しみもこの物語にしのばせている。

喪失と再生の物語。現時点でこれは東日本大震災後に書かねばならなかった物語であり、村上春樹流の「がんばろう!日本」と受け取ってもそれほど間違ってはいないだろう。ただ、この作品はもっと普遍性を備えている。20年後、30年後でも十分に通用する物語。「長いお別れ」がそうであるように、優れた小説は何年たっても輝きを失わず、朽ち果てないものだ。

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リスト:《巡礼の年》全曲

「機龍警察 自爆条項」

1作目はパトレイバーの設定を借りた警察小説という趣だったが、今回は冒険小説のテイストを取り入れている。それもそのはず、作者の月村了衛はジャック・ヒギンズやアリステア・マクリーンの小説が好きなのだという。今回メインとなるのはライザ・ラードナー。元IRFのテロリストで現在は警視庁特捜部に雇われた突入班の傭兵。機龍兵(ドラグーン)のパイロットで警部の肩書きを持っている。現在の事件と併せてそのライザの過去が描かれる。これがもうジャック・ヒギンズの世界だ。

軽いジャブのような1作目から作者は大きく進化している。このタイトル、設定だと、ミステリファンは手に取りにくいが、少なくとも冒険小説ファンなら満足するだろう。虚無的なライザの魅力が光る。「このミス」9位で、「SFが読みたい」では11位。これはSFではないから仕方がない。作者の本領は冒険小説にある。

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「粘膜蜥蜴」

遅ればせながら、飴村行の粘膜シリーズにはまった。4作すべて読んだが、ベストはこれ。第弐章「蜥蜴地獄」の秘境冒険SFの部分がたまらない。ページをめくる手が止まらない面白さだ。肉食ミミズだの、巨大なゴキブリだのが攻撃してくる東南アジア・ナムールのジャングルの描写は貴志祐介「新世界より」の奇怪な生物たちがかわいく見えてくるほど。

日本推理作家協会賞受賞作なので、ミステリの部分も申し分ない。グチャグチャグッチョンの描写があるのに、ラストには切なさが横溢しており、この小説の余韻を深いものにしている。傑作としか言いようがない。

粘膜シリーズには河童や爬虫人ヘルビノなどが登場してくる。だから粘膜なのかと思ったが、作者インタビュー(http://bookjapan.jp/interview/090114/note090114.html)によれば、「粘膜というと卑猥なイメージがあるでしょう。グロテスクで、さらに卑猥というイメージ。河童が代表例なんですけど、この小説の登場人物はみんなそういう、グロテスクでどこか卑猥という印象があると思います。だから、登場人物をすべて象徴する言葉として粘膜を当ててみたわけなんです」ということなのだそうだ。

これ、映画化かアニメ化ができないものかと思う。そのまま映像化すると、R-18は避けられないだろうが、監督は三池崇史が適任なのではないかと思う。

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