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「ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言」

これは最近読んだ新書の中では最も面白かった。ネットは普及しすぎたために居酒屋でのおしゃべりレベルになった。ネットのヘビーユーザーはバカか暇人である、という論旨がはっきりしている。なぜブログは炎上するのか、そのあたりの要因もよく分かった。いじめが好きなバカか暇人が自分には関係ないどうでもいいことに揚げ足取って騒ぎ立てているのだ。

著者はネットにヘビーに書き込む人をこう推測している。

揚げ足取りが大好きで、怒りっぽく、自分と関係ないくせに妙に品行方正で、クレーマー気質、思考停止の脊髄反射ばかりで、異論を認めたがらない……と、さまざまな特徴があるが、決定的な特徴は「暇人である」ということだ。書き込み内容や時刻から類推するに、無職やニート、フリーター、学生、専業主婦が多いと推測できる。

「ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言」

「ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言」

実生活では人に注意することもないような人がネット上では鬼の首でも取ったかのように相手を徹底的に叩く。しかも本人はそれが正しいことだと思っている。第1章「ネットのヘビーユーザーはやっぱり暇人」で著者は倖田來未の羊水発言や沢尻エリカの「別に」発言などいくつもの例を取り上げ、その異常さを説明していく。

第2章「現場で学んだ『ネットユーザーとのつきあい方』」ではB級ネタしか流行らないネットの現状を、第3章「ネットで流行るのは結局『テレビネタ』」では依然として大きいテレビの影響力を解説している。ネットだけでブームになったものなど何もないという指摘はもっともで、ネットのブームをテレビが取り上げないと大衆には広まらないのである。ネットの影響力なんてそんなものでしかない。

実生活が充実している人は仕事が忙しくてネットに時間をかけている暇などない。一流の芸能人はブログなど書かないという指摘もなるほどと思った。書く必要もメリットもないからだ。著者は企業に対しても「ネットに期待しすぎるな」と書く。ネット上で流行るのはバカか暇人が好きなB級テイストのものだけなので、商品を押しつけるだけのサイトを作ってもダメなのだ。企業がネットで成功するためにはサイトをB級にする必要がある。

著者の中川淳一郎は博報堂、「テレビブロス」編集者を経て、現在はニュースサイトの編集者。コンサルティング業務やプランニング業務も行っているそうだ。

テレホーダイ時間にしかネットに長時間接続できず、昼間は電話代とプロバイダ料金を気にしながら接続していた時代は過去のもの。ネットは大衆化し、ヘビーユーザーは暇人が中心になった。そういう今のネットとのつきあい方がよく分かる本である。

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「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」

「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」

「テレビは見てはいけない 脱・奴隷の生き方」

「テレビは見てはいけない」というメインタイトルよりも「脱・奴隷の生き方」というサブタイトルの方がメインの内容である。編集協力・オフィス1975とあるので、これは著者自身が書いたものではなく、編集協力者が著者の考え方をまとめたものだろう。それでも面白いのだけれども、20代のころに読んでものの見方が変わった岸田秀の著作ほどインパクトがない要因ともなっている。著者の苫米地英人はオウム信者の脱洗脳にもかかわったことがあるそうで、その実用的な考え方を自身の手でまとめてほしいものだ。他の著作もあるので、読んでみようかと思う。

テレビを見てはいけない理由の一つは序文の中にプロダクト・プレイスメントという広告手法があるからという理由で説明されている。これは番組内でさりげなくスポンサーの商品を映し出し、視聴者に広告と気づかせずに商品の性能や特徴をアピールすること。このプロダクト・プレイスメントによって、欲しくもない商品を欲しいと思わされることになる。つまり洗脳されるわけだ。そうした状態を著者は奴隷と呼ぶ。そしてそういう洗脳はこの社会の至る所にある。

「偏差値が低い学校に行くのはカッコ悪い」「有名な会社に勤めてこそいい人生」などといったステレオタイプな価値観を子どもに植えつける親はたくさんいます。自分たちの価値観を強制して、子ども自身がもっている可能性の芽を摘んでしまっていることに気づかない大人たち。
そういう人たちを「ドリームキラー」と呼びます。文字どおり「夢を殺してしまう人」です。多くの人にとって、もっとも「ドリームキラー」となる確率が高いのは親です。

実はこの部分を呼んで、岸田秀を思い出したのだ。もう随分前に読んだ本なので、詳しく覚えてはいないが、人は3歳になるまでに親からねじを巻かれている。人の行動の規範はその時までに形成される、といった内容だった。思春期になって自立心が芽生え始めると、親から巻かれたねじとの間に齟齬が生じ、悩むことになる。マザコンやファザコンの人、親を尊敬しすぎている人は親から巻かれたねじが強力だったのかもしれない。

親だけでなく、その後も学校や会社や組織の中で価値観の強制はある。日本の社会では空気を読むことが必要とされ、読めない人はKYと言われる。これが女子高生あたりから出て来た造語であることを考えても、若い世代からこういう考え方にどっぷり浸っていることがよく分かる。著者は「『空気読め』は差別のシステム」と断言している。

ではどうすればいいのか。「want to」でやれ、「have to」で生きるな、というのがこの本の主張だ。画一的な価値観を捨て、自由に生きること。こうしなくてはいけないと決められたものに縛られるな。なかなかそれを実行するのは難しいのだが、難しいと思うこと自体が画一的な価値観に縛られているからなのかもしれない。

苫米地英人は脳機能学者、計算言語学者、認知心理学者、分析哲学者。上智大卒業後、三菱地所、イェール大大学院、徳島大助教授、ジャストシステム基礎研究所長などを経て、現在はドクター苫米地ワークス代表、コグニティブリサーチラボCEOなどの肩書きがある。帯の写真を見ると、ちょっと軽薄な感じも持ったが、書いてあることはまともだった。

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「黒澤明という時代」

「黒澤明という時代」

「黒澤明という時代」

黒澤明の映画をデビュー作の「姿三四郎」からリアルタイムで見てきた小林信彦がDVDで全作品を見直して書いた作品論・作家論。黒澤作品のどれを見るべきかがよく分かる本で、読んでいて僕は「野良犬」「酔いどれ天使」「わが青春に悔いなし」などを無性に再見したくなった。

20年ほど前にビデオで「天国と地獄」を見た時に「ごく控えめに見ても大傑作」と思った。完璧な映画の出来もさることながら、主人公の三船敏郎が演じる権藤という男のキャラクターにしびれたのだ。職人気質で頑固である半面、間違い誘拐の身代金を出すことを決意する権藤の在り方はほとんどハードボイルドだと思った。学生時代に名画座で「羅生門」を見た時、ラストの取って付けたようなヒューマニズムに違和感を覚えたが、「天国と地獄」ではヒューマニズムが作品と一体になっていた。ちょうどその頃、小林信彦はこの映画について「失敗作」と書いていたと記憶する。これはつまらないという意味ではなく、警察の描き方などを指した言葉だったと思う。この本の中には「文句なしに面白い『天国と地獄』」という第15章に触れてある。少し引用する。

そこでの熊井啓氏の発言は、その<問題>に関してである。仲代扮する戸倉警部が、このまま犯人をあげても刑期十五年で終ってしまうから、犯人を泳がせておいて、(共犯者二人殺しの)さらに動かぬ証拠をつかもう、と断言する件りだ。警部は犯人を極刑に持ってゆくつもりだが、犯人は計算外の動きをしてしまう。
(中略)
<何度見てもおもしろい。見るたびに新しい発見がある。>
と、ためらいなく日本人(芝山幹郎氏)が評価するのは、長い時を経てからであった。

小林信彦が高く評価する黒澤作品はこの「天国と地獄」まで。僕はこの後の「赤ひげ」にも感心したが、小林信彦は「完璧なテクニックだけの映画」としている。何か言ってやろう、何か見せてやろうというものがないからだ。

僕らの年代では封切り時に劇場で見ることができた黒澤作品は「デルス・ウザーラ」(1975年)以後だ。といっても「デルス・ウザーラ」は劇場では見なかったので、僕が実際に封切りで見ているのは「影武者」(1980年)以降の5作品にすぎない。その中で本当に感心したのは「乱」だけだった。映画は劇場で見なければいけない、というのは特にスケールの大きな黒澤作品の場合、あてはまることだが、同時に時代性というのは封切りで見ないと分からないためもある。作品的な評価だけでなく、封切り時の時代の空気を伝えるのがこの本の目的でもあっただろう。

黒澤作品のほとんどはテレビ放映時に録画したビデオを持っていたが、カビがはえたので全部捨ててしまった。DVDでそろえようかと思うが、これから買うならブルーレイの方が良いかもしれない。

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「ヒルクライマー」

「ヒルクライマー」

「ヒルクライマー」

疋田智の「週刊 自転車ツーキニスト」で紹介されていたので読む。「ダーティペア」や「クラッシャージョウ」のSF作家・高千穂遙の自転車小説。帯には「日本初の自転車山岳レース小説」とある。漫画では「シャカリキ!」という坂馬鹿(=坂登りに熱中する人)を描いた名作があるが、小説では確かに前例を知らない。

ヒルクライマーも自転車で坂を登る人を指す。山岳レースに打ち込む男女が登場し、白熱のレース場面を中心に男女の恋愛模様や家庭の問題を織り交ぜて描いている。自転車がもっともっと中心でも良かった。もっと長くても良かったと思う。自転車小説入門編として300ページ足らずの長さは適当かもしれないが、まだまだ読み足りない。続編はこの2倍ぐらいの長さを期待したい。

主人公の松尾礼二は19歳。マラソンで大学に入ったが、チームプレイの駅伝に出場するのが嫌で大学をやめる。死んだ親友からフランス製のロード自転車ルックを形見分けとして贈られたのがきっかけで自転車チームに所属。マラソン選手だったので体力に自信はあったが、最初の練習では女性にも負ける始末だった。ヒルクライムに魅せられ、奮起した礼二は猛練習に打ち込み、急速に力を付ける。

クライマックスは長野県小谷村の栂池高原で行われるヒルクライムレース。礼二は予選で、チームの先輩で45歳ながら実業団並みの力を持つ神音大作に必死についていく。そして残り5キロでロングスパートをかける。

礼二は大月、平沼、横溝に無視された。この若造は、すぐにつぶれる。もって、せいぜい一、二キロ。そこで失速し、集団に抜き返される。そのように判断された。
違うぞ。
心の中で、大作はつぶやいた。
あいつは、ものが違うぞ。

高千穂遙は50歳で自転車に熱中。高脂血症や高血圧が嘘のように治り、84キロの体重が60キロに、体脂肪率は24%から10%に落ちたという。僕はダイエットに打ち込んでいた昨年2月、「自転車で痩せた人」という高千穂遙の著書を読み、自転車を始めようと思った。この新書に関してはmixiに感想を書いていたので、このブログ内に移しておいた。

自転車はまだ買っていない。でも、そろそろ買う。絶対買う。

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「ユリ・ゲラーがやってきた 40年代の昭和」

「ユリ・ゲラーがやってきた 40年代の昭和」

「ユリ・ゲラーがやってきた 40年代の昭和」

昭和40年代をサブカルチャーから論じた本。取り上げているのは映画、歌、テレビ、犯罪と事件など。映画については首肯できない部分もあったが、著者の鴨下信一はTBSのディレクターとしてさまざまなドラマや番組を手がけてきただけにテレビと歌に関しては感心するところが多かった。

テレビについて、著者は「40年代のテレビは黄金期だった。その中でも黄金期だったのは、間違いなく[ホームドラマ]だ」と書き、ホームドラマの第一号を東芝日曜劇場で放送された「袋を渡せば」としている。これは石井ふく子と橋田壽賀子が「ささやかな家庭での出来事を描くと、そこで外の社会のあらゆること、政治も経済も、会社も学校も、世界の情勢も、すべてのことが分かる」との認識に立って製作したドラマなのだそうだ。テレビに関して、この本は詳しく、これだけで1冊にしても良かったのではないかと思う。

映画については本流をプログラムピクチャーだと指摘する。プログラムピクチャーは「映画館の上映スケジュールを埋めるために製作される低予算のB級映画」のことだが、著者はこれを「一つ映画が当たると、その手応えをバネに同じ路線でもう一本、もう一本と作っていく。観客もそれを歓迎する。面白いものは、また見たいのだ。映画会社の収支も安定するし、スターも産み出される」としている。これはそれこそ昭和40年代ぐらいまでは正しい認識だっただろうが、今となっては間違いと言って良い。プログラムピクチャーは映画会社の直営映画館が多かった時代にしか通用しないものだった。数多く製作されたプログラムピクチャーの中で今も評価されている作品がどれぐらいあるのか。恐らく1割もないだろう。システム的に壊れたものを懐かしがって、本流などと言っても始まらない。

小津安二郎などの家族の問題を扱った映画を見れば分かるように、かつては映画館がホームドラマの役割を果たしていた。その役割がテレビに移り、映画は芸術性やスペクタクル路線、大作路線を歩むようになった。当然のことながら、僕らがある映画の評価を「テレビドラマのレベル」と書くとき、それは低いレベルを想定している。もちろん、高いレベルのテレビドラマもあるが、多くの場合、映画館に行ってテレビと同じようなものを見せられたら腹が立つだけだ。

面白かったのは歌の章で、大学紛争当時、バリケードの中で学生たちは何を歌っていたかという部分。替え歌を歌っていたのだそうだ。紹介してある中で思わず笑った替え歌はこれ。

赤い旗ふってた 男の子
おまわりさんに つれられて
いっちゃった
(元歌は「赤い靴」)

これ、短いのがいい。あるいは、

ちょいと1回のつもりでデモリ
いつのまにやら活動家
気がつきゃ全学連の中央執行委員
これじゃ革命なんかできるわきゃないよ
わかっちゃいるけど やめられねえ
(元歌は「スーダラ節」)

連合赤軍もこういうユーモアのある歌を歌っていれば、総括のような悲劇は起きなかったのではないか。

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