投稿者「hiro」のアーカイブ

「ゼロの焦点」

「ゼロの焦点」

「ゼロの焦点」

以前、知り合いと話していて、ミステリが好きということが分かった。何を読んでいるのか聞いたら、「松本清張はほとんど読んでます」と言う。僕は松本清張の小説を読んだことがなかった。「砂の器」を少しかじっただけ。この本を手に取ったのは犬童一心監督の映画が11月に公開されるのに合わせて、松本清張を少し読んでみようかという気分になったからだ。というか出張の際に書店に寄ったら、買いたい本もほかに見つからなかった。

印象としてはまるでテレビの2時間ドラマ。なにしろ50年前の作品なので、今のミステリの水準に比べると、手法を著しく古く感じる。特に最終章で主人公の推理が延々と説明される部分は興ざめで、これはプロットであって小説ではないと思う。犯人が殺人を犯さざるを得なかった経緯を小説にするのが本当ではないか。

困ったことに、夫の失踪の謎を追う主人公が事件の捜査を続ける理由も説得力を欠く。夫の行方は分かったのだから、その先はあなたにとっては不要なんじゃない、と思えてくる。探偵役の動機が弱いのだ。関係者が次々に殺されていくので、犯人の目星も早い段階でついてくる。これを名作というのは少し違うのではないか。最近のミステリを読み慣れている人なら、そう思うはずだ。

では全然つまらなかったかというと、そんなことはなく、そういう古い推理小説として時代色を楽しんだ。終戦から13年の昭和33年、まだ戦後が色濃く残っている時代。「もはや戦後ではない」と経済白書が記したのは昭和31年だけれど、人々はまだ戦後を引きずっている。そういう部分が面白かった。

主人公の板根禎子は見合いで、広告会社の金沢出張所に勤める鵜原憲一と結婚する。夫は結婚を契機に、東京に異動の予定だった。結婚して10日後、仕事の引き継ぎで金沢に行った夫は帰る予定の日を過ぎても帰らなかった。禎子は金沢に行き、夫の足取りを追い始める。そして夫には隠された生活があったことが分かってくる。同時に夫の兄や出張所の社員など夫の失踪を調べ始めた周辺の人間が次々に殺される。

「君は若い身体をしているんだね」と夫に言われ、禎子は誰と比較しているんだろうと思う。

禎子は顔をおおいながら、夫は自分の身体と比較しているのであろうかと思った。三十六歳と二十六歳の十歳の開きが気になるのか。が、夫の目にも口調にも、その羨望らしいものは少しもなかった。禎子は、それで初めて気がついた。夫は過去の女の誰かと比較しているのではないか。たしかにそんな言い方であった。夫のそういう過去については、禎子には未知であった。これから夫について未開のことがしだいに溶解してくるに違いないが、その部分だけが一番最後になるのではないかと思った。

相手のことをよく知らずに結婚することは現代ではほとんどないだろうが、この時代にはあったのだ。予告編を見ると、映画はそうした時代を舞台にしているようだ。そうでなくてはこの話は成立しない。あらすじを読むと、いろいろと変更点もある。犬童一心監督がどう映画化しているのか気になる。

ただし、映画の予告編で「アカデミー賞に輝く3女優が共演」というのはどうかと思う。広末涼子は「おくりびと」でアカデミー外国語映画賞を受賞、中谷美紀と木村多江は日本アカデミー賞で主演女優賞を受賞しているからだが、日本とアメリカのアカデミー賞を同じ名前だからと言って同列に扱うのはなんだこれ、と思ってしまう。

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「グラーグ57」

「グラーグ57」

「グラーグ57」

トム・ロブ・スミス「チャイルド44」の続編。グラーグ57とはシベリアのコルイマ地区にある過酷な第57強制労働収容所を指す。主人公のレオ・デミドフは国家保安省の捜査官時代に自分が逮捕した司祭を脱出させるために囚人としてこの収容所に潜り込むことになる。だが、潜入して早々にレオの正体はばれ、囚人たちから凄絶な拷問を受ける。一緒に潜入するはずだった捜査官は死に、助けは来ない。前作以上に絶体絶命の危機がレオを待ち受けている。

今回もページを繰る手が止まらない面白さ。ただし、完成度においては「チャイルド44」の域には達していない。あんな大傑作を立て続けに書けるわけはないので、これは仕方がないだろう。

「チャイルド44」は国家の命令通りに動いていたレオが国家の在り方に疑問を感じ、人間性を取り戻し、妻ライーサの愛を勝ち得ていく話だった。今回はかつて自分が起こした事件の被害者から復讐される話なので、前向きな気分にはならないのだ。どんなにレオがひどい目に遭おうと、どんなにかつての自分とは違うことを訴えようと、復讐者の恨みには一理も二理もあって、理解できる。それはもちろん、トム・ロブ・スミスも分かっていて、後半、ハンガリーの動乱に舞台を移してから物語は別の様相を現してくる。今回もまた、真の敵は別の所にいる。

原題は「Secret Speech」。フルシチョフがスターリン時代を批判した秘密の演説を指している。復讐者はこれを利用してかつての国家の手先たちを告発していく。レオが収容所に潜り込むのは復讐者から養女のゾーラを誘拐されたためだ。今回、レオは家族を守るために行動を起こすが、物語の中盤で自分が設立した警察の殺人課もライーサの愛も失ってしまう。すべてを失ったレオはどうするのか。

北上次郎の解説によれば、レオ・デミドフのシリーズには第3部が予定されており、それで完結するとのこと。この第2部は物語の真ん中に当たるための弱さが出たのかもしれない。いずれにしてもトム・ロブ・スミスの筆力の快調さは今回も確認できたので、第3部でどんな決着を用意しているか楽しみにしたい。

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「大人の時間はなぜ短いのか」

「大人の時間はなぜ短いのか」

「大人の時間はなぜ短いのか」

最初の方に錯視・錯覚の説明が出てくるので、大人が時間を短く感じるのは錯覚のためという当たり前の結論の本かと思えるが、本書の主眼はその錯覚のメカニズムを説明し、時間の有効な活用法を提示することにある。

読んでいておっと思ったのは年を取るにつれて時間の進みが速く感じられる要因の一つが身体的代謝の低下であるという指摘。人間の心的時計(内的時計)はさまざまな要因によって進み方を変えるそうで、その一つが代謝機能の活性度なのだという。代謝の活発な子供は心的時計の進行速度が速く、時間を長く感じるが、代謝の衰えた大人は物理的時計の進行速度よりも心的時計の進行が遅くなっている。だから相対的に1日、1週間、1年がすぎるのが速いと感じるわけだ。アリの時間とゾウの時間は違うというよく言われることが、本書の中でも紹介されている。年を取っても体が若く、代謝の活発な人は時間を短く感じることが少ないのかもしれない。

そういえば、20年以上前に読んだロバート・L・フォワードのハードSF「竜の卵」は中性子星上に住む体長3ミリの知的生命体が1カ月の間に文明を開化させ、人間の科学レベルを追い抜くという話だった。この小説の場合は0.2秒で1回転し、670億Gというとんでもない重力の星に生きる生物だったから、体長の大きさや代謝の活性度だけが時間を加速しているわけではない。

代謝のほかに時間の経過を速くしたり遅くしたりする要因は、感情や時間経過への注意、空間の広さ、脈絡やまとまり、難しい課題など多くある。また精神のテンポは人によっても異なる。人は自分のテンポと違ったテンポを強制されると、ストレスを感じる。福知山線の脱線事故のように1分1秒刻みのスケジュールに長時間さらされると、事故の危険が大きくなる。昼夜逆転のような太陽の周期から外れた生活は睡眠障害や鬱病、メタボリック症候群などの問題を引き起こす。

現代のように世界規模で経済活動が展開しているような状況では、生活の時間を均一化しようという圧力は絶えない。私たちは、自分自身や他者の時間的制約についてもう少し考慮し、時間の均一化が私たちの心身や社会における深刻な問題を引き起こすような極端な状況にならないよう工夫すべきなのだろう。

という指摘はもっともだと思える。これは会社や組織における人間性を無視した効率化一辺倒のシステムへの警鐘でもある。効率追求の社会は人間性とは相容れず、破綻を招くのだ。物理的時計と精神テンポに大きなずれがないようなシステムが望ましいのだろう。

著者の一川誠は宮崎県で生まれ、大阪府で育った。専門は実験心理学で、現在、千葉大学文学部行動科学科准教授。

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「女の子ものがたり」

「女の子ものがたり」

「女の子ものがたり」

西原理恵子の自叙伝的漫画。読みながら、業田良家「自虐の詩」に似ているなと思った。共通するのは貧しさと女の子の友情である。作品としては「自虐の詩」の方が上だと感じるのは主人公と2人の友だちの間の友情の描写がやや説得力を欠くからか。3人は同じような境遇で、小学生のころから行動をともにするが、主人公以外の2人は不幸な結婚をする。その不幸の遠因も貧しさにあるのだろうけれど、主人公だけが町を出て、あとから振り返って「もう、こんな友だちは一生できないと思う」と振り返るのは少し違うんじゃないかと思えてくるのだ。主人公がそう思うにいたる過程が描き切れていないと思う。

主人公のなつみは家族3人で父親の実家のある町に引っ越してくる。山と田んぼと工場のある町。拾った黒猫を一緒の世話したことで、みさちゃん、きいちゃんという2人の女の子と親しくなる。みさちゃんの家は半分がゴミ。団地に住むきいちゃんの母親は世界で一番怖そうな母親だった。なつみの両親もなつみが寝た後でけんかをする。それぞれに貧しくて幸福とは言えない3人は別々の中学校に入っても、行動をともにする。

「自虐の詩」と似てると感じたのはなつみにまなちゃんという親友ができるエピソード。まなちゃんは成績が良くてスポーツができて美人で背が高くて家も大きい。まなちゃんと一緒に下校していたなつみは、みさちゃんときいちゃんが男子にいつものよういじめられている場面に遭遇する。そこでまなちゃんは2人を助けるが、その後で主人公は「まなちゃん、わたしね、あんたのこと大っきらい」と思うのだ。「みさちゃんもきいちゃんもきらいだけど、あんたのことがいちばんきらい」。

同じ境遇だから避けたがった「自虐の詩」の幸江と熊本さんの関係に比べると、このあたりの主人公の心境をもっと詳しく描いて欲しくなる。2人のことを嫌いと思うなつみがラストで「みさちゃんときいちゃんが好きだ」と思うようになる変化の決定的な要因がここにはない。

この原作、映画になって今日から東京などで公開された。少女時代を演じるのが大後寿々花、波留、高山侑子というのはきれいすぎる感じもある。原作にない現在のエピソードを含めて映画化してあるようだが、出来はどうなのだろう。

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「ニーナの記憶」

「ニーナの記憶」

「ニーナの記憶」

今年のMWA賞でメアリ・ヒギンズ・クラーク賞を受賞した。原題はThe Killer’s Wifeで、シリアル・キラーの妻を主人公にしたサスペンス。3分の2ぐらいまでは夫が殺した娘の父親から理不尽な攻撃を受ける主人公と、夫が逮捕されるまでの過去の生活の回想(これが邦題の理由)、終盤の3分の1が何者かに連れ去られた主人公の息子を巡るサスペンスとなる。前半の方が面白いが、著者のビル・フロイドはこれがデビュー作だそうで、最初の作品でこれだけ書ければ十分だろう。

主人公のニーナがショッピングセンターの食品売り場で「リー・レンでしょう?」と60代の男から声をかけられる場面で始まる。「ええ、そうです」と答えた途端に男の態度は豹変する。

「あんたの本当の名前はニーナ・モズリー。一九九七年十一月八日、あんたの夫ランドル・ロバーツ・モズリーが私の娘キャリーを殺した」。
この世のすべてが遠くに見えた。両足や空いているほうの手と同じく、つかまれた手から力が抜けたが、チャールズ・プリチェットがあからさまに力を加えて関節が音をたてそうなほどわたしの指を締めつけている。手を引き抜こうとしても、彼がカメラのストロボのように目を光らせてしっかりつかんでいた。

悪夢のような場面。ニーナは逮捕された夫ランディと離婚し、名前を変えてこの町に移り住んでいたのだ。プリチェットはニーナがランディの共犯に違いないと思い込み、私立探偵を雇って行方を突き止めた。事件の犯人の家族が世間から冷たい目で見られるのはアメリカでも同じらしい。

ランディは10年余りの間に少なくとも12人を殺害した。死体の眼球はえぐられ、代わりにサイコロなどが詰め込まれていた。ニーナは当初、そんなランディの正体にまったく気づかなかったが、やがて不審な点が目につき始め、決定的な証拠を突きつけられる。そして自分から警察に通報するのだ。しかし、最近になってランディの手口と似た殺人事件が発生する。

著者は2005年に逮捕されたシリアル・キラーをモチーフにこの小説を書いた。逮捕された男は郊外に住む普通の家庭の夫で、家族は誰一人、夫・父親が連続殺人の犯人とは気づかなかったという。

この小説、ランディが及ぼす力などに「羊たちの沈黙」の影響が見られるけれども、無駄に長くないのがいい。殺人者の妻の心理を詳細に描きながらサスペンスを盛り上げ、きっちりとまとまった佳作。