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「ザ・スタンド」

2 月3日の日記に162ページまで読んだと書いているから、読み始めたのは1日ごろだろう。読み終わるのに3週間あまりかかったことになる。寝る前と昼間に少しずつ、しかし、引き込まれながら読んで、少しも退屈することはなかった。破滅後の世界での善と悪の対決という簡単な筋だから物語の先が知りたいという気持ちはなく、しかもテレビシリーズ(監督はミック・ギャリス)を見て筋はすっかり知っているのだから、これは僕にとって描写を楽しむ小説だった。その意味では本当に満足できた。読書することの楽しみを再び教えてもくれた。

確かに「ミステリマガジン」が指摘しているように下巻に入ってストーリーがトントン進みすぎるきらいはある。ここはもっとじっくり描いて、さらに長い物語にしてほしかったぐらいである。読んでも読んでも終わらない小説、しかし退屈しない小説というのは本当に珍しい。そういう物語がスティーブン・キングには書けるのではないか。

テレビシリーズは悪くはなかったが、原作よりキャラクターの魅力が大きく減っている。闇の男ランドル・フラッグと結ばれる哀しい運命にあるナディーンは原作の方がより美人だし、重要な役回りだ。スチューを演じたゲイリー・シニーズとニックを演じたロブ・ロウはほぼイメージ通り。というか先にテレビを見ているのでこの2人を思い浮かべながら、読むことになった。フラニー役のモリー・リングウォルドの場合もそうだった。テレビシリーズを見たことの欠点はこち らの想像力に足かせをはめられることだろう。テレビのあの小さなブラウン管は描写に適したものではなく、やはり筋を語るメディアなのだと思う。

「ザ・スタンド」が面白かったので続いて、1年ほどまえに途中まで読んで中断していた「フリッカー、あるいは映画の魔」を読み始めた。パソコン関係の本はしばらくお休みである。

「狗神」

300ページ余りなのでスラスラ読める。「徹底的に改変」というのは「SFオンライン」に書いてあったことだが、それはクライマックスに関してのことのようだ。物語の設定と展開は母親の扱いなど細部に違う部分はあるが、映画は原作をほぼ忠実になぞっている。クライマックスは確かに映画とは異なる。しかし、この程度のクライマックスならば、映画のように描いても別に悪くはない。原作には鵺が登場するが、それが大きな活躍をするわけでもない。しかし、なぜ登場したかという理由は重要な部分ではある。

「狗神」は坂東眞砂子の初期の作品に当たり、直木賞を受賞した「山妣(やまはは)」のような重厚な描写には欠けている。主人公・美希の置かれた境遇など映画よりは書き込んであるけれど、全体として比較すると、この原作をあそこまで豊かに映画化した原田真人の手腕は褒められていいだろう。となると、問題はクライマックスの描き方にあったということになる。あそこさえもっと迫力たっぷりに描いておけば、映画は十分に傑作と呼べるものになっていたと思う。話が収斂していくものとしては少し弱いのである。狗神筋の一族のカタストロフはもっと凄惨に描くべきだったのではないか。

「ローズマリーの息子」

ハヤカワ文庫に入ったので読んでみた。「ローズマリーの赤ちゃん」の30年ぶりの続編。2年前に単行本が出た際、かなりの悪評を読んでいたので、予想よりは面白かった。問題はラストの処理でしょう。ここで賛否両論あるのは分かる。気に入らないのならその直前までの話と思えばいい。ま、それ以前に小説としての膨らみが足りないのが決定的で、アイラ・レヴィンはもともと長大な小説を書く人ではないが、このプロットだけのような作りでは物足りない。

話はローズマリーが27年ぶりに昏睡から覚める場面で始まる。息子アンディは世界的な指導者になっており、1999年12月31日に世界中の人々が一斉にロウソクに灯をともし、ミレニアムを迎えようというプロジェクトを進めている。もちろん、悪魔とローズマリーとの間に出来た子どもであるから、何か裏にあるのは読者には承知のことで、それがどう描かれるかが焦点となる。

アイラ・レヴィンは24歳で「死の接吻」でデビューし、2作目として14年後に「ローズマリーの赤ちゃん」を書いた。その天才作家としてのキャリアはここでほぼ終わった。後に続く作品は才能の出涸らしみたいなものである。ただしこの2作(特に後者)が永遠に残る傑作であることは疑問の余地がない。

「ローズマリーの赤ちゃん」を読んだのは高校生のころだが、後半の展開に読んでいて息苦しくなったのを覚えている。ロマン・ポランスキー監督で映画化もされたが、映画自体は良くできていても、とてもこの傑作に及ぶものではなかった。続編は映画プロデューサーの要請で書かれたものらしい。天才も年を取れば、ただの人になるという見本のような出来には違いないし、時代設定からして、もはや映画化も無理のような気がする。昨年たくさん出たミレニアムもの(Y2Kとか)の1作ということになるだろう。ラストに目をつぶれば、暇つぶしにはなると思う。

「ハンニバル」

不要な部分がほとんどなく、その見事な描写にほれぼれするのが「ハンニバル」。ご存じトマス・ハリス「レッド・ドラゴン」「羊たちの沈黙」の続編。4月の発売直後に買ってほったらかしにしてあったのをようやく読んだ。「羊たちの沈黙」はアームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のような趣向を堪能させる猟奇ミステリだったが、今回はハンニバル・レクター博士を中心にした長編サスペンスの趣だ。何が凄いと言って、物語が一応終わった後に用意される第6部「長いスプーン」が凄すぎる。ここだけで「ハンニバル」はミステリ史に名をとどめるだろう。

なにしろ脳みそを食うんですぜ、脳みそを。いや脳みそを食うぐらいの話なら、以前にもあっただろう。トマス・ハリスが凄いのは生きた男の脳みそを食う(脳の活き作りですな)様子を一流シェフが料理するように非常に優雅に描いていることだ。陰惨ではなく、しかもリアル、というのが感心する。脳の前頭葉をスプーンで4切れすくい取られた男は突然、「ねえ、お星様の上でブランコに乗ろうよ」とビング・クロスビーのヒット曲を歌い出すのである。「突拍子もない大声でしゃべるのは、ロボトミー(前頭葉切断手術)を受けた人間の通癖である」という説明が笑わせる。

この場面に至るまでの物語ももちろん面白い。前作で逃亡後、フィレンツェで暮らすレクター博士と、博士に復讐を企む富豪、FBIでいわれない冷遇を受けているクラリス・スターリングを絡めた緊密な展開はページを繰る手が止まらないほど。レクター博士の過去にスポットを当てた部分も興味深い。博士の妹は幼い頃、脱走兵に食われてしまうのだ。これが人食いレクターのトラウマとなったのか、などと考えてしまう。しかし、かのスティーブン・キングがこれを激賞したのは脳みそを食う場面があったからに違いないと思う。それほどこのシーンは独自性に富んでいる。結末は好みが分かれるだろうが、トマス・ハリスの凄さを再認識させる1作であることは間違いない。

「ハンニバル」は既にリドリー・スコット監督、ジュリアン・ムーア、アンソニー・ホプキンス主演で映画の撮影が始まっている。このシーンを含むラストは変更されるらしい。まあ、そりゃそうでしょう。脳みそを食うシーンを映画で見せたら気持ち悪いだけだもの。技術的には十分描けると思うが、小説のような優雅さを兼ね備えることは映画では不可能だ。

「朗読者」

「朗読者」は「早くも本年度ベスト1の呼び声」とのオビに惹かれて買った。ドイツのなんとかという作者(妻に貸しているので今手元に本がないのです→ベルンハルト・シュリンク)のベストセラー。15歳の少年と36歳の女のラブストーリーで幕を開け、ナチスの戦犯裁判を絡め、文字を読めない女性の潔い生き方に言及する。プロットには感心したが、アメリカのベストセラーの長大な描写になれているのでなんとなく物足りない。決定的に描写が足りないと思う。アメリカの作家だったら、同じ話でこの3倍ぐらいの長さにするのではないか。ま、長いだけが良いわけではない。アメリカのベストセラーには不要な描写も多すぎますからね。