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「ユリ・ゲラーがやってきた 40年代の昭和」

「ユリ・ゲラーがやってきた 40年代の昭和」

「ユリ・ゲラーがやってきた 40年代の昭和」

昭和40年代をサブカルチャーから論じた本。取り上げているのは映画、歌、テレビ、犯罪と事件など。映画については首肯できない部分もあったが、著者の鴨下信一はTBSのディレクターとしてさまざまなドラマや番組を手がけてきただけにテレビと歌に関しては感心するところが多かった。

テレビについて、著者は「40年代のテレビは黄金期だった。その中でも黄金期だったのは、間違いなく[ホームドラマ]だ」と書き、ホームドラマの第一号を東芝日曜劇場で放送された「袋を渡せば」としている。これは石井ふく子と橋田壽賀子が「ささやかな家庭での出来事を描くと、そこで外の社会のあらゆること、政治も経済も、会社も学校も、世界の情勢も、すべてのことが分かる」との認識に立って製作したドラマなのだそうだ。テレビに関して、この本は詳しく、これだけで1冊にしても良かったのではないかと思う。

映画については本流をプログラムピクチャーだと指摘する。プログラムピクチャーは「映画館の上映スケジュールを埋めるために製作される低予算のB級映画」のことだが、著者はこれを「一つ映画が当たると、その手応えをバネに同じ路線でもう一本、もう一本と作っていく。観客もそれを歓迎する。面白いものは、また見たいのだ。映画会社の収支も安定するし、スターも産み出される」としている。これはそれこそ昭和40年代ぐらいまでは正しい認識だっただろうが、今となっては間違いと言って良い。プログラムピクチャーは映画会社の直営映画館が多かった時代にしか通用しないものだった。数多く製作されたプログラムピクチャーの中で今も評価されている作品がどれぐらいあるのか。恐らく1割もないだろう。システム的に壊れたものを懐かしがって、本流などと言っても始まらない。

小津安二郎などの家族の問題を扱った映画を見れば分かるように、かつては映画館がホームドラマの役割を果たしていた。その役割がテレビに移り、映画は芸術性やスペクタクル路線、大作路線を歩むようになった。当然のことながら、僕らがある映画の評価を「テレビドラマのレベル」と書くとき、それは低いレベルを想定している。もちろん、高いレベルのテレビドラマもあるが、多くの場合、映画館に行ってテレビと同じようなものを見せられたら腹が立つだけだ。

面白かったのは歌の章で、大学紛争当時、バリケードの中で学生たちは何を歌っていたかという部分。替え歌を歌っていたのだそうだ。紹介してある中で思わず笑った替え歌はこれ。

赤い旗ふってた 男の子
おまわりさんに つれられて
いっちゃった
(元歌は「赤い靴」)

これ、短いのがいい。あるいは、

ちょいと1回のつもりでデモリ
いつのまにやら活動家
気がつきゃ全学連の中央執行委員
これじゃ革命なんかできるわきゃないよ
わかっちゃいるけど やめられねえ
(元歌は「スーダラ節」)

連合赤軍もこういうユーモアのある歌を歌っていれば、総括のような悲劇は起きなかったのではないか。

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「ゼロの焦点」

「ゼロの焦点」

「ゼロの焦点」

以前、知り合いと話していて、ミステリが好きということが分かった。何を読んでいるのか聞いたら、「松本清張はほとんど読んでます」と言う。僕は松本清張の小説を読んだことがなかった。「砂の器」を少しかじっただけ。この本を手に取ったのは犬童一心監督の映画が11月に公開されるのに合わせて、松本清張を少し読んでみようかという気分になったからだ。というか出張の際に書店に寄ったら、買いたい本もほかに見つからなかった。

印象としてはまるでテレビの2時間ドラマ。なにしろ50年前の作品なので、今のミステリの水準に比べると、手法を著しく古く感じる。特に最終章で主人公の推理が延々と説明される部分は興ざめで、これはプロットであって小説ではないと思う。犯人が殺人を犯さざるを得なかった経緯を小説にするのが本当ではないか。

困ったことに、夫の失踪の謎を追う主人公が事件の捜査を続ける理由も説得力を欠く。夫の行方は分かったのだから、その先はあなたにとっては不要なんじゃない、と思えてくる。探偵役の動機が弱いのだ。関係者が次々に殺されていくので、犯人の目星も早い段階でついてくる。これを名作というのは少し違うのではないか。最近のミステリを読み慣れている人なら、そう思うはずだ。

では全然つまらなかったかというと、そんなことはなく、そういう古い推理小説として時代色を楽しんだ。終戦から13年の昭和33年、まだ戦後が色濃く残っている時代。「もはや戦後ではない」と経済白書が記したのは昭和31年だけれど、人々はまだ戦後を引きずっている。そういう部分が面白かった。

主人公の板根禎子は見合いで、広告会社の金沢出張所に勤める鵜原憲一と結婚する。夫は結婚を契機に、東京に異動の予定だった。結婚して10日後、仕事の引き継ぎで金沢に行った夫は帰る予定の日を過ぎても帰らなかった。禎子は金沢に行き、夫の足取りを追い始める。そして夫には隠された生活があったことが分かってくる。同時に夫の兄や出張所の社員など夫の失踪を調べ始めた周辺の人間が次々に殺される。

「君は若い身体をしているんだね」と夫に言われ、禎子は誰と比較しているんだろうと思う。

禎子は顔をおおいながら、夫は自分の身体と比較しているのであろうかと思った。三十六歳と二十六歳の十歳の開きが気になるのか。が、夫の目にも口調にも、その羨望らしいものは少しもなかった。禎子は、それで初めて気がついた。夫は過去の女の誰かと比較しているのではないか。たしかにそんな言い方であった。夫のそういう過去については、禎子には未知であった。これから夫について未開のことがしだいに溶解してくるに違いないが、その部分だけが一番最後になるのではないかと思った。

相手のことをよく知らずに結婚することは現代ではほとんどないだろうが、この時代にはあったのだ。予告編を見ると、映画はそうした時代を舞台にしているようだ。そうでなくてはこの話は成立しない。あらすじを読むと、いろいろと変更点もある。犬童一心監督がどう映画化しているのか気になる。

ただし、映画の予告編で「アカデミー賞に輝く3女優が共演」というのはどうかと思う。広末涼子は「おくりびと」でアカデミー外国語映画賞を受賞、中谷美紀と木村多江は日本アカデミー賞で主演女優賞を受賞しているからだが、日本とアメリカのアカデミー賞を同じ名前だからと言って同列に扱うのはなんだこれ、と思ってしまう。

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「グラーグ57」

「グラーグ57」

「グラーグ57」

トム・ロブ・スミス「チャイルド44」の続編。グラーグ57とはシベリアのコルイマ地区にある過酷な第57強制労働収容所を指す。主人公のレオ・デミドフは国家保安省の捜査官時代に自分が逮捕した司祭を脱出させるために囚人としてこの収容所に潜り込むことになる。だが、潜入して早々にレオの正体はばれ、囚人たちから凄絶な拷問を受ける。一緒に潜入するはずだった捜査官は死に、助けは来ない。前作以上に絶体絶命の危機がレオを待ち受けている。

今回もページを繰る手が止まらない面白さ。ただし、完成度においては「チャイルド44」の域には達していない。あんな大傑作を立て続けに書けるわけはないので、これは仕方がないだろう。

「チャイルド44」は国家の命令通りに動いていたレオが国家の在り方に疑問を感じ、人間性を取り戻し、妻ライーサの愛を勝ち得ていく話だった。今回はかつて自分が起こした事件の被害者から復讐される話なので、前向きな気分にはならないのだ。どんなにレオがひどい目に遭おうと、どんなにかつての自分とは違うことを訴えようと、復讐者の恨みには一理も二理もあって、理解できる。それはもちろん、トム・ロブ・スミスも分かっていて、後半、ハンガリーの動乱に舞台を移してから物語は別の様相を現してくる。今回もまた、真の敵は別の所にいる。

原題は「Secret Speech」。フルシチョフがスターリン時代を批判した秘密の演説を指している。復讐者はこれを利用してかつての国家の手先たちを告発していく。レオが収容所に潜り込むのは復讐者から養女のゾーラを誘拐されたためだ。今回、レオは家族を守るために行動を起こすが、物語の中盤で自分が設立した警察の殺人課もライーサの愛も失ってしまう。すべてを失ったレオはどうするのか。

北上次郎の解説によれば、レオ・デミドフのシリーズには第3部が予定されており、それで完結するとのこと。この第2部は物語の真ん中に当たるための弱さが出たのかもしれない。いずれにしてもトム・ロブ・スミスの筆力の快調さは今回も確認できたので、第3部でどんな決着を用意しているか楽しみにしたい。

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