月別アーカイブ: 2009年10月

「ヒトは脳から太る」

「ヒトは脳から太る」

「ヒトは脳から太る」

早食いはなぜ肥満につながるのか。僕は早く食べることによって血糖値が上がる前に量を食べすぎるためと思っていた。人は血糖値が上がることによって満腹感を感じる仕組みになっているからだ。たいていのダイエット本にもそう書いてある。この考え方なら、一定量を食べる限り、早く食べても遅く食べても太り方は同じはずだ。

ところが、本書には「摂食量を同じにしても早食いの方が肥満傾向にある」と書いてある。なぜか。「早食いのときは、脳内にドーパミンやオレキシンが活発に分泌されて、体は貪欲にカロリーを取り込み、ため込むモードになって」いるからだそうだ。

これを裏付けるものとして、成人男子に糖尿病検査で使われる糖負荷テスト用の糖質液を飲んでもらう実験を紹介している。1回目は速やかに血糖値が上昇したが、2回目の上昇は1回目の半分、3回目には上昇しなかったという。被験者はこのブドウ糖液を飲むのが嫌になったのだそうだ。

糖の吸収はおいしいとか飲みたいといった前向きの気持ちがあるかないかで大きな影響を受けるということです。まずいな、いやだなと思いながら食事をするとカロリー吸収は抑えられるが、おいしそう、食べたいな、という前向きの気持ちで食べると、体はそれに反応して、積極的に吸収しようとするのです。

もう一つ、太らないためにはものを良く噛んで食べることが推奨される。これも血糖値の上昇速度と絡めて説明されることが多いが、この本はラットでの実験から「唾液や水分でドロドロになったものは、固形物のまざったつぶつぶのものよりも、飲み込んだあとは血糖値の上昇が小さい」としている。消化管は固形状のものが入ってくると、頑張って消化吸収しようとするのだという。

同じ量、カロリーのものを食べてもドロドロの状態の方が吸収は少ないという意外な結論だ。普通、よく噛むのは消化吸収を助けるためと言われるが、それとはまったく逆の結論なのである。だからカロリーを吸収しにくくするためには良く噛んでドロドロの状態にしてから飲み込んだ方がいいというわけ。

この2つの指摘が僕には面白かった。本書のサブタイトルは「人間だけに仕組まれた“第2の食欲”とは」。お腹いっぱいなのにデザートを食べてしまう別腹の説明など前半は脳と食欲の関係が中心、後半はダイエットに必要な知識と食全般について書いてある。具体的なダイエット法はないが、朝バナナダイエットのようにこうすれば痩せると決めつけるようなダイエット法がいかに間違っているかがよく分かる本である。ダイエットに関心のある人は読んでおいて損はない。

著者の山本隆は畿央大学大学院健康科学研究科教授。

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「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

これは宝物のような輝きを持つ本である。作者の藤原新也が「長い人生の中で出会った出来事や普通の人々の物語」で、14編が収められている。このうち13編は東京メトロの駅に置かれるフリーマガジン「メトロミニッツ」に連載したもの。雑誌の方針が「ジャスト一駅間で読める」トピックなので、それほど長い話はないが、どれもこれも心にしみる。

人と人とのふれあい、感情の行き違い、別れ、喪失感、苦悩、後悔、悲しみ、喜びがこの本には詰まっている。藤原新也は出会った無名の人々のそうした思いをすくい上げ、見事な作品に結晶させた。すべて実話なのか、フィクションが混ざっているのか分からないが、作者が記事と書いている以上、完全なフィクションはないのだろう。手法としてはボブ・グリーンやピート・ハミルなどアメリカのコラムニストの作品を彷彿させる書き方だが、それらを超えている。深い洞察力と観察力、優れた文体があって初めてこうした作品は成立するのだ。収録作品は足かけ6年にわたる連載の71編の中から選んだそうだ。ほかの作品もすべて読みたくなる。個人的には今年今までに読んだ本の中で1、2を争う傑作。

連載中に読者の反響を呼んだという「カハタレバナ」は別れた妻に思いを馳せる男の話。カハタレバナとは藤原新也の造語で漢字を当てるとすれば、彼誰花となるだろうか。墓に誰が供えたか分からない花という意味である。妻の美和子と別れて3年後、島野は静岡県にある母親の墓前に山桜が供えられているのを見つける。供えたのは寺の人ではなかった。島野は供えたのは美和子ではないかとふと思う。美和子は島野の母親を敬愛していた。その年の秋の彼岸には真っ赤な鶏頭が供えられていた。それから2年間、春と秋の彼岸に必ずカハタレバナがあった。島野は美和子に会いたいという思いが募るが、罪の意識がそれをはばからせる。

お前には男がいるのだろうと、島野は美和子をののしったことがある。離婚の話し合いの時、二人の子供は島野のもとではなく美和子のもとで暮らすことを選んだ。潔癖な美和子は腐れ縁を残したくないのか、わずかばかりの財産分与の取得以外は養育費を要求しなかった。
早くから両親と生き別れて叔父のもとで育てられた美和子には実家と言えるものがない。帰るあてもなく自分に養育費を要求することなく二人の子供を引き取るということは男がいるに違いない。肉体的にも精神的にも追い詰められていた島野はそんな妄想をしてしまった。

しかし、3年後、カハタレバナは供えられなくなった。なぜか、ということを解き明かしながら物語は深い余韻を残して終わる。

冒頭に収められた「尾瀬に死す」は優れたミステリのような話。ガンで余命4カ月を宣告された妻が夫に「尾瀬に行きたい」と言う。尾瀬は2人の思い出の地だった。休み休みしながら、尾瀬に着いた夫が歩道脇にあったナメコを取っているうちに妻は死んでしまう。通信手段はなく、夫は妻の死体を背負い、しっかりと体にゆわえて山小屋まで歩く。警察は司法解剖を要求したが、夫は拒否する。これが心証を悪くしたこともあって、妻の首に残っていた外傷を理由に夫は殺人容疑で逮捕されてしまう。妻の首に巻いた紐は頭を固定させるためのものだった。夫は冤罪裁判を最高裁まで争うことになる。最高裁の判決前に夫はもう一度尾瀬を訪ねる。妻の線香をあげ、目を瞑って拝んだときに何かを訴えかけるような妻の面影を見る。

このほか、母親との同居が離婚のきっかけになった元妻を通勤電車の車窓から偶然見かける「車窓の向こうの人生」、美しいモデルと雨の中の撮影で一瞬心を通わせる「あじさいのころ」なども素晴らしい。読み終わって溜息をつきたくなるような作品ばかりだった。

藤原新也はあとがきにこう書いている。

あらためて読み返してみるとそこには、人間の一生はたくさんの哀しみや苦しみに彩られながらも、その哀しみや苦しみの彩りによってさえ人間は救われ癒されるのだという、私の生きることへの想いや信念がおのずと滲み出ているように思う。
哀しみもまた豊かさなのである。
なぜならそこにはみずからの心を犠牲にした他者への限りない想いが存在するからだ。

人は傷つけ合って生きているけれども、その悲しみは悲しみだけではないのだ。

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「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは顔の造作+他人が勝手に読み取る内面情報」と書いてあるのにすごく納得。常々思っていたことだからだ。美人と思う芸能人、ブスと思う芸能人というアンケートで、黒木瞳が美人にもブスのリストにも入っていたというのにも納得。黒木瞳の顔かたちは整っているけれども、僕は女性としての魅力は一切感じない。黒木瞳から受ける内面情報が僕の嫌いなタイプであることを示しているからだ。

岡田准一と共演した「東京タワー」なんてその最たるものだった。この人、「自分は美人よ」という意識がふつふつと全身から発散されていて、それがどうも僕には合わない。もちろん、他人が受け取る内面情報が正しいとは限らないから、ちょっとしたことで嫌いから好きに変わることもあり得る。つまり人がある人を美人かどうかを判断するということはその人を好きかどうかということであり、その人の内面も判断基準に大いに関係しているのだ。

クスクス笑いながら、いろんな指摘に納得できて、とても面白い本だ。女性は必読。目からうろこが落ちるほどではないが、男が読んでももちろん面白い。著者の中村うさぎは美容整形をしたが、その理由は「顔について、これ以上、他人からあれこれ言われたくない」ということであり、男にもてるためではなく、あくまでも自分のためという。自立した女であるバービー人形のようなビジュアルが理想なのだそうだ。

くらたま(倉田真由美)は、「女の価値は男が決定する」と思っている。しかし、私はそうは考えない。女の価値を決定するのは、同性の女たちなのである。そして、バービーは「男の欲情のシンボル」ではなく「女の欲望のシンボル」であるがゆえに、女たちからは熱い羨望の眼差しを注がれ、彼女たちのボディイメージの理想モデルとなりうるのだ。
言い換えれば、バービーの肉体が意味しているのは「セックス」ではなく、「ファッション」なのである。

そして、整形をした結果、「自分の顔にまつわる面倒な自意識を手放した」。

ブスなのか美人なのか、と、他人の評価に揺れ動くこともなくなった。ブスか美人かは他人が判断することかもしれないが、好みの顔かどうかは私が判断することだ、と、自分で顔を選択した今なら、堂々と言えるからである。
自意識の安定……結局、我々が求めるのは、それではないか。他人の評価は安定しないし、信用できない。しかし、自分の好みは、自分で決めればいいんだもの。

さて、それでは内面情報はどうなのか。美人が発する内面情報を著者は「美人オーラ」と言う。美人オーラの三大要素は気品、知性、優しさ。お薦めは優しさだそうだ。気品や知性は本物の中身がある程度備わっていないと、メッキが剥げた時にかえってヤバイ。付け焼き刃の『気品』や『知性』は、あっという間に見透かされて、「何よ、上品ぶっちゃって」「頭いいふりしてるけど、じつはバカなんじゃん?」ということになり、美人オーラのつもりが強力なブスオーラになってしまうからだ。

僕も美人は好きだが、嫌いな美形の女性というのも数多く存在し、それがつまりはその人が発散する内面情報によるものなのだ。この本を読むと、女性が顔の美醜という基準に振り回されていることがよく分かる。それを形成しているのは根本的には連綿と続いてきた男社会なのではないかと思う。

著者の美人論のほかに、巻末には対談が二つ付いている。その中の一つ、もてない男・小谷野敦との対談で、「実家が金持ちであったらモテただろうと思いますけど」という発言に対して中村うさぎが「ううーん、どうしてそっちに行くかな」と言っているのはちょっと違うと思った。

女性が美人であることと、男が金持ちであることは同じという指摘を以前、小林信彦の本で読んだ。それはハワード・ヒューズの言葉だったか、映画で描いていることだったか忘れたが、そういうことなのである。男の魅力に経済力が関係ないとは言わせない。おとぎ話でお姫様が結ばれるのはハンサムである上に裕福そうな「白馬に乗った王子さま」であり、ハンサムではあるけれど金はない「白馬に乗ったホームレス」では決してない。

すべての経済力のある男がもてるわけではないし、経済力のない男がもてないわけでもないが、それは美人でももてない女性や美人じゃないのにもてる女性がいるのと同じこと。男と女では評価の基準が違うのだ。

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「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」

「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」

「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」

このタイトルに聞き覚えがあったのは米原万里が「打ちのめされるようなすごい本」の中で取り上げていたからだ。直接的な動機は原題が同じの「子供の情景」を見たからだが、米原万里の書評を読んでさらに読む気になった。

映画「カンダハール」の監督で作家でもあるイラン人のモフセン・マフマルバフは隣国アフガニスタンの苦境に耐えきれず、このレポートを書いた。タイトルの意味ははっきりしている。タリバンによって仏像が破壊された時、世界中の多くの人々がそのニュースに注目したが、5分に1人の割合で死んでいくアフガニスタン国民にはほとんど誰も目を向けなかったことに異議を申し立てているのだ。重要なのは仏像ではない、人間の命だという当たり前すぎる主張である。

なぜ目を向けないのか。それは世界の人々がアフガンのことを知らないからだ。マフマルバフはアフガンがどんな国かを詳細に説明する。国土の75%が山岳地帯で、農業開発に適した土地はわずか7%。いかなる種類の工業も持たない。イランには石油があるが、アフガニスタンにはない。生産物と言えば、アヘンぐらい。まともな道路もほとんどない。干魃と内戦によって100万人が餓死に直面している。人々が生き残るには国外に脱出するか、タリバンの神学校に入るか、アヘンを生産するかの選択しかない。国外に出た難民は630万人。その人々も受け入れられず、餓死寸前だ。国土には除去しようのない多数の地雷が埋められている。

文化人や芸術家は誰も彼もが、破壊された仏像を守れ、と叫んだ。しかし、干魃によって引き起こされた凄まじい飢饉のためにアフガニスタンで100万人の人びとに差し迫っている死については、国連難民高等弁務官の他に懸念を表明する人がいなかったのはなぜなのか。なぜ誰もこの死の原因について発言しないのか。「仏像」の破壊については皆声高に叫ぶのに、アフガンの人々を飢えで死なせないために、なぜ小さな声も上がらないのか。現代の世界では、人間よりも仏像が大事にされるのか。

タリバンが泥棒の手を切断するという過酷な刑を始めたため、人々はどんなに飢えていても物を盗むことはしない。食べ物が目の前にあってもそれを取らずに餓死していく。マフマルバフは「あなたが月を指させば、愚か者はその指を見ている」という中国のことわざを引き、仏像ではなく、アフガン国民を見て欲しいと訴える。

アフガニスタンは徹底した男尊女卑の国だ。女性に参政権はもちろんない。一夫多妻制の国であり、自分の10歳の娘を嫁にやり、その婚資金で別の10歳の少女と結婚しようとしている老人がいる。夫と30歳、50歳年が離れていることも多い。しかもタリバンは女性が学校に通うのを禁じ、ブルカの着用を強制した。

ただし、この本の民族的な部分に関して訳者の渡部良子は「多民族国家アフガニスタンを作り上げてきた『部族的』な文化を、現代的な国民意識と対立するという理由で否定的にしか見ていない」として、あとがきで疑問も投げかけ、「自分たちが育んできた歴史と文化の中から共存の知恵を学び、21世紀をも生きてゆこうとするアフガニスタンの人びと自身の戦いを伝えることに、マフマルバフは必ずしも成功していない」としている。

このレポートが書かれたのは2001年3月。同時テロの起きる前の状況であり、その後、どのように変わったのか変わらなかったのかを知りたい。ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領はアフガニスタンへの増派を進めているが、それがアフガン国民にとって利益になるのかならないのか。それも知りたい。

一つだけ言えるのはこうした過酷な状況にあった当時のアフガニスタンに対してブッシュ政権が空爆をしたのは間違いだったということ。アフガニスタンに必要なのは爆弾ではなく、パンだった。爆弾の雨を降らせた米国に対して協力する国民がいるとは思えない。

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「エヴァ・ライカーの記憶」

「エヴァ・ライカーの記憶」

「エヴァ・ライカーの記憶」

アメリカでの出版は1978年。1979年に文藝春秋から出てベストセラーとなり、週刊文春ミステリーベストテンで4位に入った。昨年8月、創元推理文庫で復刊された。タイタニック号を扱った小説の中では最も面白いと言われるが、僕にはクライブ・カッスラー「タイタニックを引き揚げろ」の方が面白かった。

物語は1942年のハワイで始まる。警察官のノーマン・ホールは「夫が毒殺された」というマーサ・クラインと出会う。夫のアルバート・クラインは車の運転中、急に苦しみだし、車を暴走させたという。いったんホテルに帰ったマーサを迎えに行ったノーマンはそこでマーサのバラバラ死体を発見、あまりの無残さにそのまま逃げてしまう。20年後、ノーマンは警察官を辞め、ベストセラー作家になっていた。そこへ雑誌社からタイタニック関連の記事の依頼が来る。億万長者のウィリアム・ライカーがタイタニックの遺留品の引き揚げをしようとしていたのだ。タイタニック号に乗っていたライカーの妻は謎の死を遂げ、娘のエヴァは生き残ったが、精神的な打撃を受けていた。ノーマンに白羽の矢が立ったのは死んだクライン夫妻もタイタニック号の生存者だったからだ。調査を引き受けたノーマンはタイタニックの関係者に当たり始めるが、重要な関係者が死に、ノーマン自身も命を狙われる。

さまざまな要素が入っているが、基本的には本格ミステリ。545ページのうち第1部「事件」が320ページほどで、第2部「解明」が200ページ以上ある。解決編がこれほど長いミステリも珍しい。しかも、関係者を集めて主人公が事件の真相を説明するというクラシックなミステリを踏襲している。ここで利用されるのがタイタニックで被害に遭ったエヴァ・ライカーの記憶というわけである。エヴァは当時の記憶を失っていたが、催眠術で当時のことを語った。それを録音したテープを元に、回想シーン(再現シーン)を入れて展開するこの第2部はまあ面白い。

問題は作者の文体にある。省略しても差し支えない描写や通俗的で下手な形容が所々で目に付き、読み進む上で引っかかったところが多かった。これ、すっきりした文体で書けば、3分の2程度の量で収まるのではないか。主人公のノーマンをはじめ、キャラクターも通俗的で魅力に欠ける。だから引用したい文学的な部分もない。大衆的なベストセラーの典型のような小説と言える。

作者のドナルド・A・スタンウッドは28歳までに8年間かけてこの小説を書き、成功を収めた。川出正樹の解説によると、それからさらに9年かけて書き上げた2作目の「七台目のブガッティ」は「処女作の輝きが嘘のような駄作」だったそうだ。この文体、書き方なら、そうだろうなと思う。

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