月別アーカイブ: 2009年11月

「Twitter社会論」

「Twitter社会論」

「Twitter社会論」

ネット通販でワンクリック購入のシステムがあるのは購入手続きの途中でユーザーが冷静になるのを防ぎ、購入意欲をなくさせないためという記述になるほどと思った。購入までに確認画面が何度もあると、やっぱり買わなくてもいいかと思い、買うのをやめた経験が僕にもある。逆にワンクリックで購入して早まったかと思った事も何度もある。「ネット通販は、購入までの確認画面を1つ挟むたびに購入率が落ちていく」のだそうだ。これはデル・コンピュータがTwitterで300万ドルの売り上げを達成したということに関連して言及されている。Twitterでつぶやきを読んでいる時にコンピュータ購入のお得な情報を見ると、ユーザーは購入意欲が高まるものらしい。

本書は140文字のつぶやきのシステムが社会にどんな影響を与えているかを初期からのTwitterユーザーの立場から考察した本だ。スタートから発展、さまざまな使い方、企業・団体の利用などのTwitterに関する事象をコンパクトにまとめた好著。Twitterの全貌を知るのに役立つ本だと思う。

「いまなにしてる?」という問いに対して答えることに何の意味があるのか。Twitterを始めるまでは何の意味もないと思っていたし、今も「おはようございます」だの「おやすみなさい」だの「○○○なう」などというつぶやきはその人の知り合い以外には何の意味もないと思う。

しかし、著者の津田大介が指摘しているようにTwitterの最も強力な機能はそのリアルタイム性にある。今起きていること、自分が目撃していること、体験していることをどこからでも即座に投稿できる。これが事件・事故やイベントの実況に威力を発揮するのだ。Twitterの最も有効な機能はこれに尽きると思う。もちろん、ブログだってどこからでも投稿できるが、たった一言のブログなんてブログの意味をなさない。140文字のブログなんて読みたくないし、つぶやきを掲載するシステムとしてはブログは大げさすぎるのだ。Twitterは元々そういう簡易なものだから許される。

このほか著者が挙げているTwitterの特徴は(1)RT(リツイート)による強力な伝播力(2)オープン性(3)ゆるい空気感(4)属人性-の4つ。あとの3つは付け足しみたいなものだろう。Twitterの開発者が当初からリアルタイム性を考慮していたかどうかは分からないが、Twitterの魅力がリアルタイム性と伝播力にあることは間違いないだろう。イベントの実況は著者が本格的に始めたので「tsudaる」と言われる。あるシステムをどう使うかを見つけていくのはユーザーであり、そうしたいろいろな使い方ができる緩やかなシステムであることがTwitterの普及に役立っている側面は否定できないだろう。

Twitterの問いかけは11月20日から「いまどうしてる?」に変わった。英語版では「What’s happening?」なのだから、「いま何が起きてる?」と訳しても良かったし、その方がリアルタイム性を表しているのではないかと思う。まあ、大多数を占める個人のつぶやきで「何が起きてる?」という訳は合わないのかもしれない。

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「オッド・トーマスの受難」

「オッド・トーマスの受難」

「オッド・トーマスの受難」

ディーン・クーンツの、霊が見える青年オッド・トーマスを主人公にしたシリーズ第2作。第1作「オッド・トーマスの霊感」の解説で瀬名秀明が「ストレートなプロットが採用されているため意外性に乏しく、心の傷が癒えないオッドの語り口もユーモアに欠け、一本調子だ。まるで二作目の悪いところが出てしまった新人作家のようである」と書いていたので、それほど期待せずに読み始めた。確かにストレートな話だし、1作目で深く心に残ったひどい両親の描写もなく、1作目ほどの完成度はないのだけれど、そこらの小説よりはよほど面白い。ステップアップするらしい3作目を読むためにも読み逃してはいけない作品だと思う。

オッドの親友ダニー・ジェサップの義父が殺され、ダニーが何者かに拉致される。ダニーは骨形成不全症で骨が極端に脆い。拉致は刑務所を出たばかりの嫉妬深い父親サイモン・メイクピースの仕業と思われたが、オッドがダニーの行方を捜しているうちに正体不明の邪悪な犯人の仕業であることが分かる。オッドは霊的磁力を駆使してダニーの居場所を突き止め、廃墟のホテルで犯人たちと対決する。

この小説で心引かれるのはクーンツのキャラクター描写だ。椅子に固定され爆弾を仕掛けられたダニーを見つけたオッドとダニーの会話。

ダニーは首を横に振った。「おれのために君を死なせたくない」
「じゃあ、ぼくはだれのために死ねばいい? 見ず知らずの他人のためにか? そんなことしてなんになる? 彼女はだれなんだ」
彼はいかにも自嘲的なうなり声を発した。「おれがろくでもない負け犬だってことがばれちまう」
「きもは負け犬じゃない。きみは変人で、ぼくも変人だけど、どちらも負け犬じゃない」

彼女とは犯人グループのボスであるダチュラのこと。邪悪なダチュラはこう描写される。「神話のなかでは、サキュバスというのは美しい女性の姿をした悪魔で、男とセックスをしてその魂を奪うとされている。ダチュラの顔も身体も、まさにそんな淫魔を絵に描いたようだった」。そしてダチュラの狙いはオッドの霊的能力にあった。

クーンツという作家はモダンホラーから出発した人なので、スティーブン・キングと同タイプの作家という認識を持っていた。このシリーズを読むと、キングとクーンツのはっきりとした違いが分かる。少なくともこのシリーズはオッドという主人公とそれを取り巻く警察署長のワイアット・ポーターや作家のリトル・オジー、ダイナーの店主テリ・スタンボーらがしっかりと描写されていて、そこに物語の深みが生まれているのだ。3作目でオッドはこうした理解者のいるピコ・ムンドの町を離れるらしい。どういう展開になるのか楽しみだ。

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「私の中のあなた」

「私の中のあなた」

「私の中のあなた」

読んだ動機が映画(感想は「私の中のあなた」: Sorry, Wrong Access)との結末の違いを確認するためだったので、あまり良い読み方とは言えない。ほとんど映画と同じ話なので、家族愛ものとしてよくまとまっているというぐらいの感想しか出てこない。しかし問題の結末は驚いた。こういう展開にするとは思わなかった。原題の「My Sister’s Keeper」、邦題の「私の中のあなた」に合いすぎる内容なのだ。合いすぎて厳しすぎて不快に思う人もいるのではないか。これを短編でやられたら、本を投げ捨てるだろう。映画にも向かなかったと思う。結末を変えて映画は正解だった。

同時にこれは遺伝子操作で出産するデザイナー・ベイビーに対する作者のジョディ・ピコーの考え方を表したものでもあると思う。映画があいまいに終わらせていた部分をはっきり描いているのだ。姉のドナーとして妹を出産するということが是か非か、それが浮き彫りになる。

映画とは登場人物の設定などに細かい違いがある。一番の違いはアナの弁護士キャンベルの元恋人で訴訟後見人のジュリアが出てくること。キャンベルとジュリアの高校時代からの関係がキャンベルの病気を絡めて描かれる。キャンベルは高校時代、突然、ジュリアを捨てる。事故によって病気になったキャンベルは両親にもそれを隠していたのだ。それが映画でも描かれた裁判の中での発作で周囲に明らかになり、キャンベルとジュリアは復縁を果たす。

「それともうひとつ、今度はあなたがわたしと別れるんじゃない。わたしがあなたと別れるのよ」
その言葉はぼくの気持ちをさらに落ち込ませる。傷ついた顔を見せまいとするが、今はそのエネルギーの持ち合わせがない。「だったら、もう行ってくれ」
ジュリアは僕に寄り添って言う。「ええ、そうする。あと50年か60年経ったらね」

ただ、これは本筋にあまり絡まない部分なので映画で省略しても差し支えないだろう。こういう部分まで描いていたら、映画は長くなりすぎるし、焦点もぼけたかもしれない。

映画で印象的だったケイトとテイラーの短い恋のエピソードは40ページ足らずしかなく、本と映画との描こうとしたものの違いがよく分かる。映画の主人公はあくまでもケイトなのだ。登場人物のそれぞれの視点から物語を語る手法は映画で序盤に使われていたが、小説はこれで統一されている。ケイトの視点はエピローグにしか登場しない。映画はテーマを突き詰めず、家族愛・難病ものにしてしまっているのが欠点だが、この原作の映画化として、まとめ方はそれしかなかったのだろうなと思う。

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