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「狗神」

300ページ余りなのでスラスラ読める。「徹底的に改変」というのは「SFオンライン」に書いてあったことだが、それはクライマックスに関してのことのようだ。物語の設定と展開は母親の扱いなど細部に違う部分はあるが、映画は原作をほぼ忠実になぞっている。クライマックスは確かに映画とは異なる。しかし、この程度のクライマックスならば、映画のように描いても別に悪くはない。原作には鵺が登場するが、それが大きな活躍をするわけでもない。しかし、なぜ登場したかという理由は重要な部分ではある。

「狗神」は坂東眞砂子の初期の作品に当たり、直木賞を受賞した「山妣(やまはは)」のような重厚な描写には欠けている。主人公・美希の置かれた境遇など映画よりは書き込んであるけれど、全体として比較すると、この原作をあそこまで豊かに映画化した原田真人の手腕は褒められていいだろう。となると、問題はクライマックスの描き方にあったということになる。あそこさえもっと迫力たっぷりに描いておけば、映画は十分に傑作と呼べるものになっていたと思う。話が収斂していくものとしては少し弱いのである。狗神筋の一族のカタストロフはもっと凄惨に描くべきだったのではないか。

「ハンニバル」

不要な部分がほとんどなく、その見事な描写にほれぼれするのが「ハンニバル」。ご存じトマス・ハリス「レッド・ドラゴン」「羊たちの沈黙」の続編。4月の発売直後に買ってほったらかしにしてあったのをようやく読んだ。「羊たちの沈黙」はアームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のような趣向を堪能させる猟奇ミステリだったが、今回はハンニバル・レクター博士を中心にした長編サスペンスの趣だ。何が凄いと言って、物語が一応終わった後に用意される第6部「長いスプーン」が凄すぎる。ここだけで「ハンニバル」はミステリ史に名をとどめるだろう。

なにしろ脳みそを食うんですぜ、脳みそを。いや脳みそを食うぐらいの話なら、以前にもあっただろう。トマス・ハリスが凄いのは生きた男の脳みそを食う(脳の活き作りですな)様子を一流シェフが料理するように非常に優雅に描いていることだ。陰惨ではなく、しかもリアル、というのが感心する。脳の前頭葉をスプーンで4切れすくい取られた男は突然、「ねえ、お星様の上でブランコに乗ろうよ」とビング・クロスビーのヒット曲を歌い出すのである。「突拍子もない大声でしゃべるのは、ロボトミー(前頭葉切断手術)を受けた人間の通癖である」という説明が笑わせる。

この場面に至るまでの物語ももちろん面白い。前作で逃亡後、フィレンツェで暮らすレクター博士と、博士に復讐を企む富豪、FBIでいわれない冷遇を受けているクラリス・スターリングを絡めた緊密な展開はページを繰る手が止まらないほど。レクター博士の過去にスポットを当てた部分も興味深い。博士の妹は幼い頃、脱走兵に食われてしまうのだ。これが人食いレクターのトラウマとなったのか、などと考えてしまう。しかし、かのスティーブン・キングがこれを激賞したのは脳みそを食う場面があったからに違いないと思う。それほどこのシーンは独自性に富んでいる。結末は好みが分かれるだろうが、トマス・ハリスの凄さを再認識させる1作であることは間違いない。

「ハンニバル」は既にリドリー・スコット監督、ジュリアン・ムーア、アンソニー・ホプキンス主演で映画の撮影が始まっている。このシーンを含むラストは変更されるらしい。まあ、そりゃそうでしょう。脳みそを食うシーンを映画で見せたら気持ち悪いだけだもの。技術的には十分描けると思うが、小説のような優雅さを兼ね備えることは映画では不可能だ。

「朗読者」

「朗読者」は「早くも本年度ベスト1の呼び声」とのオビに惹かれて買った。ドイツのなんとかという作者(妻に貸しているので今手元に本がないのです→ベルンハルト・シュリンク)のベストセラー。15歳の少年と36歳の女のラブストーリーで幕を開け、ナチスの戦犯裁判を絡め、文字を読めない女性の潔い生き方に言及する。プロットには感心したが、アメリカのベストセラーの長大な描写になれているのでなんとなく物足りない。決定的に描写が足りないと思う。アメリカの作家だったら、同じ話でこの3倍ぐらいの長さにするのではないか。ま、長いだけが良いわけではない。アメリカのベストセラーには不要な描写も多すぎますからね。

「秘密」

「秘密」は「本の雑誌」で1位、週刊文春で3位、「このミステリーがすごい!」で9位にランクされ、日本推理作家協会賞も受賞した。どうだ、まいったかという高い評価である。秀作の多い東野作品の中でもベストの作品だろう。交通事故で重傷を負った妻と小学生の娘の意識が、妻が死ぬ直前に入れ替わる。夫は、娘の体で生きる妻と暮らすことになる。成長するに従って、2度目の思春期を謳歌する妻に対して夫は年を取るばかり。他の男の影がちらつくようになった妻に、夫は激しい嫉妬を抱く。しかし、ある事件を境に死んだと思っていた娘の意識がよみがえるようになる。そして妻である時間は日を追って少なくなり、娘の時間が多くなっていくのだ。

タイトルの「秘密」はもちろん、娘の体の中に妻がいるという秘密なのだが、もうひとつ切ない仕掛けがある。それが分かるラストはたまらない。北村薫「スキップ」と比較した書評をよく見かけたけれど、僕はラストの喪失感から井上夢人「ダレカガナカニイル…」を思い出した。

「秘密」はもともと笑いの小説として書かれたという。「毒笑小説」(集英社文庫)の京極夏彦との対談で、東野圭吾は、こう語っている。

東野 あれは、「怪笑」とか「毒笑」を書いている時期に、原型になった短編があるんです。娘に死んだ奥さんの魂が宿って、おやじの慌てぶりのドタバタが面白いだろうと「笑い」で書いたんです。ところが、そのとき何かあまり面白くなくて、こんなはずじゃないゾ、もっとこれは面白くなるはずだ、短編だからよくなかったんだとか思って……。
京極 それで「秘密」を書いたら―。
東野 よりいっそう笑えなくなってしまったという(笑い)。それでもちょっと勉強したことなんですけど、笑うスイッチと泣くスイッチは―。
京極 近所にある。

なるほど。「秘密」には確かにスラップスティック風の笑える部分が残っている。しかし、この小説が優れているのは、夫の心情を丁寧に描いてあることだ。夫は妻に男の影がちらつくから嫉妬しているのではない。自分だけ若返った妻に対しても嫉妬しているのだと思う。男性と女性とで、この小説の読後感はかなり違うのではないか。映画がそうした微妙な部分を描けるかどうか、ちょっと心配でもある。