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「きょうのできごと」

ようやく読む。読んだからといって、映画の見方が変わるわけではない。全然面白くなかったわけではないが、やはり波瀾万丈の筋立ての方が好み。

一番最後(文庫の書き下ろし部分「きょうのできごとのつづきのできごと」)に作者の柴崎友香が映画のロケを見に行く話が出てくる。行定勲の話が興味深かった。作者は田中麗奈に自分の役がどんな女の子か尋ねられる。それについて聞いた行定勲はこう答えるのだ。

「みんなそれぞれ、自分が演じる人物についてすごい考えているからね。柴崎さんの考えた人物があって、おれが考えた人物があって、それから役者が考える。役者は柴崎さんにそうやって聞いたりするかもしれないけど、それは参考に聞いてみるっていうことで、やっぱり最後は自分が考えたとおりに演じるよ」

なるほどなあと思う。役について真剣に考える田中麗奈の表情が目に浮かぶようだ。

「終戦のローレライ」

ようやく読む。上巻453ページ、下巻597ページ。ローレライと呼ばれる秘密兵器を積んだドイツの戦利潜水艦「伊507」を中心に据えた白熱の海洋冒険小説であり、驚異の戦争文学。上巻の最後の方にある「しつこいアメリカ人」との戦いと下巻のクライマックス、40隻のアメリカ艦隊とのテニアン島沖の死闘だけでも海洋冒険小説の最高峰と思える出来である。しかし、作者の福井晴敏がこの長い物語で描こうとしたのは恐怖を恐怖で抑えつける“餓鬼の道”に陥ることへの強い批判であり、凡人が歩む“人の道”がいかに大切かということなのだろう。

それが端的に表れているのは日本のあるべき終戦の姿を求めて、「国家に切腹」させようとする浅倉大佐と、主人公で17歳の上等工作兵・折笠征人が無線で対峙する場面だ。その優秀さで周囲から一目置かれていた浅倉は南洋の島で極限の飢えに苦しめられ、餓鬼の道に落ちた男である。仲間の兵を食わねばならなかった飢餓の描写が凄まじいので、浅倉の言う敗戦の在り方に納得しそうになるのだが、それは征人の「…でも、東京にいる人はみんな死ぬ」という一言で逆転する。

「あんたたち大人が始めた戦争で、これ以上人が死ぬのはまっぴらだ」
「あなたのやろうとしていることはパウラを薬で白人にしようとしたナチスのバカな科学者と同じだ。頭でっかちで、自分の都合のいいようにしか物事を見ようとしない。自分が魂を売ったからって、他人もそうするって勝手に決め込んでる偏屈な臆病者だ…」。

頭でこねくりまわした計画よりも単純な正義感が勝ることは得てしてあることだ。そして、人が考える普通の在り方がいかに重要か、福井晴敏は力を込めて訴えている。

日本人の血を引くドイツ人の少女パウラは征人の心に触れて、苦しんでいたものを乗り越えるようになる。クライマックスの戦闘の中で自分の本来を役割を知るのである。

決してつかまえられなかった答、亡者たちの問いかけに対する答が不意に頭をかすめ、パウラは夢中でその断片を手繰り寄せた。
『なぜ』
終わらせるために。
この世界をあまねく鎮めるために、いまは私は魔女になる。船乗りたちに死をもたらす魔女ではなく、すべての戦に終わりを告げる終戦のローレライに…。

浅倉に同調した「伊507」の掌砲長・田口徳太郎や、生きのびるためにSSに入ったパウラの兄フリッツも同様の変化を迎えることになる。このほか、弟を死なせた艦長・絹見や征人の友人である清永など登場人物の一人ひとりをその背景まで含めて描き込んであり、これは群像劇の趣もある。

終戦後の日本の在り方を総括する終章は個人的にはあまり必要性を感じないが、それは小さな傷と言うべきで、胸を揺さぶられるような熱い筆致で綴られた傑作だと思う。

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「ある日どこかで」

1980年製作の同名映画の原作(リチャード・マシスン)。昨年3月に創元推理文庫から出た邦訳をようやく読む。映画は公開時に東京では2週間足らずで打ち切られたが、地方では「ザナドゥ」の併映として延々と上映された。で、「ザナドゥ」よりもこちらに感激した人が多かったのだった。

劇作家のリチャード・コリアは泊まったホテルで過去の女優エリーズ・マッケナの写真を見て、一目惚れしてしまう。本人に会いたい気持ちが募り、リチャードは過去へ遡る方法を見つけようとする。当時の洋服に着替え、当時のお金を用意し、ホテルの部屋で自分に暗示をかけることでリチャードは時間旅行に成功する。1896年の海岸で、エリーズが初めてリチャードにかけた言葉は映画通りである。

やがて、予想もしていなかった言葉を彼女が不意に言ったので、その声に唖然とさせられた。「あなたなの?」とエリーズが訊いたのだ。

これに対して、リチャードは「そうです、エリーズ」と答える。

原作はほぼ映画に忠実で(という書き方はおかしいが)、映画のさまざまな場面をリフレインしながら読んだ。映画の脚本はマシスン自身が書いているからこれは当然のことだろう。

映画を見ていると、小説を読んでも映画で受けたような感激は味わえないが、この物語を愛する人は持っておいて損はしないだろう。作家の瀬名秀明は解説(これは大変詳しく、読みごたえがある。エリーズのモデルになった女優モード・アダムスについても詳述してある)にこう書いている。

きっとあなたもこの物語を生涯大切にしたくなるだろう。これは奇蹟の作品である。

言わずもがなのことを付け加えておくと、リチャードが試みる時間旅行の方法はジャック・フィニィが考案したものと同じである。だから映画にはフィニィの役も登場する。

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「ドリームキャッチャー」

スティーブン・キングの作品としては水準作で、可もなく不可もなしといったレベル。エイリアンの侵略もの+「IT」という感じだが、文庫で4巻の長さが必要かどうか疑問。キングの作品は目で見るような描写ばかりなのでこれほど長くなるのだろう。

僕はキングの小説を読んでいてSFを読んでいる気がしない。よくあるパターンを圧倒的な筆力で描ききるのがキングという作家の持ち味。そこには新しいビ ジョン、アイデアはあまり見当たらない(エイリアンに乗っ取られた体の中で残った意志が抵抗するというのは新しいか)。かといって退屈かといえば、そうで はないんですがね。

登場人物が痛みに耐える描写が多いのはキング自身が交通事故に遭って、生死の境をさまよった経験が反映されているのだろうか。

「山の郵便配達」

短編で42ページしかないのですぐに読める。これを読むと、映画がいかに良くできているか分かる。まず、老婆に手紙を読んでやる場面が小説にはないし、村の娘と息子との交流もほんの少しだけ。父親が息子を案内して最後の配達に出かけるというプロットだけが同じで、ス・ウの脚本は小説を驚くほど豊かに膨らませている。細部を具体的に語り、父子の関係に的確なエピソードを付け加え、小説を見事に語り直している。その手法に感心させられた。映画は小説以上の出来と言っていい。

ただし、映画には父親の足を痛めつけた川の水の冷たさが少し欠けている。具体的な描写を織り込んだ結果、父親のキャラクターが先日書いたような生真面目すぎるものになったのも残念。もちろん、小説でも生真面目な男なのだが、それ以上に感じるのは老いを迎えた男の切なさなのである。映画はもっと父親の視点で統一した方が良かったのかもしれない。

細部を膨らませすぎることで余計な要素が交じる場合もあるのだ。しかし、これは小さな傷で、この短い小説からあの映画を作り上げたスタッフの手腕は褒められるべきだろう。

小説では天秤棒を担いで郵便袋を運ぶ。映画のリュックサックより、これは大変だと思う。犬に“次男坊”という名前もなかった。