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「オッド・トーマスの受難」

2009 年 11 月 14 日 土曜日
「オッド・トーマスの受難」

「オッド・トーマスの受難」

ディーン・クーンツの、霊が見える青年オッド・トーマスを主人公にしたシリーズ第2作。第1作「オッド・トーマスの霊感」の解説で瀬名秀明が「ストレートなプロットが採用されているため意外性に乏しく、心の傷が癒えないオッドの語り口もユーモアに欠け、一本調子だ。まるで二作目の悪いところが出てしまった新人作家のようである」と書いていたので、それほど期待せずに読み始めた。確かにストレートな話だし、1作目で深く心に残ったひどい両親の描写もなく、1作目ほどの完成度はないのだけれど、そこらの小説よりはよほど面白い。ステップアップするらしい3作目を読むためにも読み逃してはいけない作品だと思う。

オッドの親友ダニー・ジェサップの義父が殺され、ダニーが何者かに拉致される。ダニーは骨形成不全症で骨が極端に脆い。拉致は刑務所を出たばかりの嫉妬深い父親サイモン・メイクピースの仕業と思われたが、オッドがダニーの行方を捜しているうちに正体不明の邪悪な犯人の仕業であることが分かる。オッドは霊的磁力を駆使してダニーの居場所を突き止め、廃墟のホテルで犯人たちと対決する。

この小説で心引かれるのはクーンツのキャラクター描写だ。椅子に固定され爆弾を仕掛けられたダニーを見つけたオッドとダニーの会話。

ダニーは首を横に振った。「おれのために君を死なせたくない」
「じゃあ、ぼくはだれのために死ねばいい? 見ず知らずの他人のためにか? そんなことしてなんになる? 彼女はだれなんだ」
彼はいかにも自嘲的なうなり声を発した。「おれがろくでもない負け犬だってことがばれちまう」
「きもは負け犬じゃない。きみは変人で、ぼくも変人だけど、どちらも負け犬じゃない」

彼女とは犯人グループのボスであるダチュラのこと。邪悪なダチュラはこう描写される。「神話のなかでは、サキュバスというのは美しい女性の姿をした悪魔で、男とセックスをしてその魂を奪うとされている。ダチュラの顔も身体も、まさにそんな淫魔を絵に描いたようだった」。そしてダチュラの狙いはオッドの霊的能力にあった。

クーンツという作家はモダンホラーから出発した人なので、スティーブン・キングと同タイプの作家という認識を持っていた。このシリーズを読むと、キングとクーンツのはっきりとした違いが分かる。少なくともこのシリーズはオッドという主人公とそれを取り巻く警察署長のワイアット・ポーターや作家のリトル・オジー、ダイナーの店主テリ・スタンボーらがしっかりと描写されていて、そこに物語の深みが生まれているのだ。3作目でオッドはこうした理解者のいるピコ・ムンドの町を離れるらしい。どういう展開になるのか楽しみだ。

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「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

2009 年 10 月 18 日 日曜日
「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは顔の造作+他人が勝手に読み取る内面情報」と書いてあるのにすごく納得。常々思っていたことだからだ。美人と思う芸能人、ブスと思う芸能人というアンケートで、黒木瞳が美人にもブスのリストにも入っていたというのにも納得。黒木瞳の顔かたちは整っているけれども、僕は女性としての魅力は一切感じない。黒木瞳から受ける内面情報が僕の嫌いなタイプであることを示しているからだ。

岡田准一と共演した「東京タワー」なんてその最たるものだった。この人、「自分は美人よ」という意識がふつふつと全身から発散されていて、それがどうも僕には合わない。もちろん、他人が受け取る内面情報が正しいとは限らないから、ちょっとしたことで嫌いから好きに変わることもあり得る。つまり人がある人を美人かどうかを判断するということはその人を好きかどうかということであり、その人の内面も判断基準に大いに関係しているのだ。

クスクス笑いながら、いろんな指摘に納得できて、とても面白い本だ。女性は必読。目からうろこが落ちるほどではないが、男が読んでももちろん面白い。著者の中村うさぎは美容整形をしたが、その理由は「顔について、これ以上、他人からあれこれ言われたくない」ということであり、男にもてるためではなく、あくまでも自分のためという。自立した女であるバービー人形のようなビジュアルが理想なのだそうだ。

くらたま(倉田真由美)は、「女の価値は男が決定する」と思っている。しかし、私はそうは考えない。女の価値を決定するのは、同性の女たちなのである。そして、バービーは「男の欲情のシンボル」ではなく「女の欲望のシンボル」であるがゆえに、女たちからは熱い羨望の眼差しを注がれ、彼女たちのボディイメージの理想モデルとなりうるのだ。
言い換えれば、バービーの肉体が意味しているのは「セックス」ではなく、「ファッション」なのである。

そして、整形をした結果、「自分の顔にまつわる面倒な自意識を手放した」。

ブスなのか美人なのか、と、他人の評価に揺れ動くこともなくなった。ブスか美人かは他人が判断することかもしれないが、好みの顔かどうかは私が判断することだ、と、自分で顔を選択した今なら、堂々と言えるからである。
自意識の安定……結局、我々が求めるのは、それではないか。他人の評価は安定しないし、信用できない。しかし、自分の好みは、自分で決めればいいんだもの。

さて、それでは内面情報はどうなのか。美人が発する内面情報を著者は「美人オーラ」と言う。美人オーラの三大要素は気品、知性、優しさ。お薦めは優しさだそうだ。気品や知性は本物の中身がある程度備わっていないと、メッキが剥げた時にかえってヤバイ。付け焼き刃の『気品』や『知性』は、あっという間に見透かされて、「何よ、上品ぶっちゃって」「頭いいふりしてるけど、じつはバカなんじゃん?」ということになり、美人オーラのつもりが強力なブスオーラになってしまうからだ。

僕も美人は好きだが、嫌いな美形の女性というのも数多く存在し、それがつまりはその人が発散する内面情報によるものなのだ。この本を読むと、女性が顔の美醜という基準に振り回されていることがよく分かる。それを形成しているのは根本的には連綿と続いてきた男社会なのではないかと思う。

著者の美人論のほかに、巻末には対談が二つ付いている。その中の一つ、もてない男・小谷野敦との対談で、「実家が金持ちであったらモテただろうと思いますけど」という発言に対して中村うさぎが「ううーん、どうしてそっちに行くかな」と言っているのはちょっと違うと思った。

女性が美人であることと、男が金持ちであることは同じという指摘を以前、小林信彦の本で読んだ。それはハワード・ヒューズの言葉だったか、映画で描いていることだったか忘れたが、そういうことなのである。男の魅力に経済力が関係ないとは言わせない。おとぎ話でお姫様が結ばれるのはハンサムである上に裕福そうな「白馬に乗った王子さま」であり、ハンサムではあるけれど金はない「白馬に乗ったホームレス」では決してない。

すべての経済力のある男がもてるわけではないし、経済力のない男がもてないわけでもないが、それは美人でももてない女性や美人じゃないのにもてる女性がいるのと同じこと。男と女では評価の基準が違うのだ。

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「エヴァ・ライカーの記憶」

2009 年 10 月 4 日 日曜日
「エヴァ・ライカーの記憶」

「エヴァ・ライカーの記憶」

アメリカでの出版は1978年。1979年に文藝春秋から出てベストセラーとなり、週刊文春ミステリーベストテンで4位に入った。昨年8月、創元推理文庫で復刊された。タイタニック号を扱った小説の中では最も面白いと言われるが、僕にはクライブ・カッスラー「タイタニックを引き揚げろ」の方が面白かった。

物語は1942年のハワイで始まる。警察官のノーマン・ホールは「夫が毒殺された」というマーサ・クラインと出会う。夫のアルバート・クラインは車の運転中、急に苦しみだし、車を暴走させたという。いったんホテルに帰ったマーサを迎えに行ったノーマンはそこでマーサのバラバラ死体を発見、あまりの無残さにそのまま逃げてしまう。20年後、ノーマンは警察官を辞め、ベストセラー作家になっていた。そこへ雑誌社からタイタニック関連の記事の依頼が来る。億万長者のウィリアム・ライカーがタイタニックの遺留品の引き揚げをしようとしていたのだ。タイタニック号に乗っていたライカーの妻は謎の死を遂げ、娘のエヴァは生き残ったが、精神的な打撃を受けていた。ノーマンに白羽の矢が立ったのは死んだクライン夫妻もタイタニック号の生存者だったからだ。調査を引き受けたノーマンはタイタニックの関係者に当たり始めるが、重要な関係者が死に、ノーマン自身も命を狙われる。

さまざまな要素が入っているが、基本的には本格ミステリ。545ページのうち第1部「事件」が320ページほどで、第2部「解明」が200ページ以上ある。解決編がこれほど長いミステリも珍しい。しかも、関係者を集めて主人公が事件の真相を説明するというクラシックなミステリを踏襲している。ここで利用されるのがタイタニックで被害に遭ったエヴァ・ライカーの記憶というわけである。エヴァは当時の記憶を失っていたが、催眠術で当時のことを語った。それを録音したテープを元に、回想シーン(再現シーン)を入れて展開するこの第2部はまあ面白い。

問題は作者の文体にある。省略しても差し支えない描写や通俗的で下手な形容が所々で目に付き、読み進む上で引っかかったところが多かった。これ、すっきりした文体で書けば、3分の2程度の量で収まるのではないか。主人公のノーマンをはじめ、キャラクターも通俗的で魅力に欠ける。だから引用したい文学的な部分もない。大衆的なベストセラーの典型のような小説と言える。

作者のドナルド・A・スタンウッドは28歳までに8年間かけてこの小説を書き、成功を収めた。川出正樹の解説によると、それからさらに9年かけて書き上げた2作目の「七台目のブガッティ」は「処女作の輝きが嘘のような駄作」だったそうだ。この文体、書き方なら、そうだろうなと思う。

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「ゼロの焦点」

2009 年 9 月 12 日 土曜日
「ゼロの焦点」

「ゼロの焦点」

以前、知り合いと話していて、ミステリが好きということが分かった。何を読んでいるのか聞いたら、「松本清張はほとんど読んでます」と言う。僕は松本清張の小説を読んだことがなかった。「砂の器」を少しかじっただけ。この本を手に取ったのは犬童一心監督の映画が11月に公開されるのに合わせて、松本清張を少し読んでみようかという気分になったからだ。というか出張の際に書店に寄ったら、買いたい本もほかに見つからなかった。

印象としてはまるでテレビの2時間ドラマ。なにしろ50年前の作品なので、今のミステリの水準に比べると、手法を著しく古く感じる。特に最終章で主人公の推理が延々と説明される部分は興ざめで、これはプロットであって小説ではないと思う。犯人が殺人を犯さざるを得なかった経緯を小説にするのが本当ではないか。

困ったことに、夫の失踪の謎を追う主人公が事件の捜査を続ける理由も説得力を欠く。夫の行方は分かったのだから、その先はあなたにとっては不要なんじゃない、と思えてくる。探偵役の動機が弱いのだ。関係者が次々に殺されていくので、犯人の目星も早い段階でついてくる。これを名作というのは少し違うのではないか。最近のミステリを読み慣れている人なら、そう思うはずだ。

では全然つまらなかったかというと、そんなことはなく、そういう古い推理小説として時代色を楽しんだ。終戦から13年の昭和33年、まだ戦後が色濃く残っている時代。「もはや戦後ではない」と経済白書が記したのは昭和31年だけれど、人々はまだ戦後を引きずっている。そういう部分が面白かった。

主人公の板根禎子は見合いで、広告会社の金沢出張所に勤める鵜原憲一と結婚する。夫は結婚を契機に、東京に異動の予定だった。結婚して10日後、仕事の引き継ぎで金沢に行った夫は帰る予定の日を過ぎても帰らなかった。禎子は金沢に行き、夫の足取りを追い始める。そして夫には隠された生活があったことが分かってくる。同時に夫の兄や出張所の社員など夫の失踪を調べ始めた周辺の人間が次々に殺される。

「君は若い身体をしているんだね」と夫に言われ、禎子は誰と比較しているんだろうと思う。

禎子は顔をおおいながら、夫は自分の身体と比較しているのであろうかと思った。三十六歳と二十六歳の十歳の開きが気になるのか。が、夫の目にも口調にも、その羨望らしいものは少しもなかった。禎子は、それで初めて気がついた。夫は過去の女の誰かと比較しているのではないか。たしかにそんな言い方であった。夫のそういう過去については、禎子には未知であった。これから夫について未開のことがしだいに溶解してくるに違いないが、その部分だけが一番最後になるのではないかと思った。

相手のことをよく知らずに結婚することは現代ではほとんどないだろうが、この時代にはあったのだ。予告編を見ると、映画はそうした時代を舞台にしているようだ。そうでなくてはこの話は成立しない。あらすじを読むと、いろいろと変更点もある。犬童一心監督がどう映画化しているのか気になる。

ただし、映画の予告編で「アカデミー賞に輝く3女優が共演」というのはどうかと思う。広末涼子は「おくりびと」でアカデミー外国語映画賞を受賞、中谷美紀と木村多江は日本アカデミー賞で主演女優賞を受賞しているからだが、日本とアメリカのアカデミー賞を同じ名前だからと言って同列に扱うのはなんだこれ、と思ってしまう。

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「グラーグ57」

2009 年 9 月 7 日 月曜日
「グラーグ57」

「グラーグ57」

トム・ロブ・スミス「チャイルド44」の続編。グラーグ57とはシベリアのコルイマ地区にある過酷な第57強制労働収容所を指す。主人公のレオ・デミドフは国家保安省の捜査官時代に自分が逮捕した司祭を脱出させるために囚人としてこの収容所に潜り込むことになる。だが、潜入して早々にレオの正体はばれ、囚人たちから凄絶な拷問を受ける。一緒に潜入するはずだった捜査官は死に、助けは来ない。前作以上に絶体絶命の危機がレオを待ち受けている。

今回もページを繰る手が止まらない面白さ。ただし、完成度においては「チャイルド44」の域には達していない。あんな大傑作を立て続けに書けるわけはないので、これは仕方がないだろう。

「チャイルド44」は国家の命令通りに動いていたレオが国家の在り方に疑問を感じ、人間性を取り戻し、妻ライーサの愛を勝ち得ていく話だった。今回はかつて自分が起こした事件の被害者から復讐される話なので、前向きな気分にはならないのだ。どんなにレオがひどい目に遭おうと、どんなにかつての自分とは違うことを訴えようと、復讐者の恨みには一理も二理もあって、理解できる。それはもちろん、トム・ロブ・スミスも分かっていて、後半、ハンガリーの動乱に舞台を移してから物語は別の様相を現してくる。今回もまた、真の敵は別の所にいる。

原題は「Secret Speech」。フルシチョフがスターリン時代を批判した秘密の演説を指している。復讐者はこれを利用してかつての国家の手先たちを告発していく。レオが収容所に潜り込むのは復讐者から養女のゾーラを誘拐されたためだ。今回、レオは家族を守るために行動を起こすが、物語の中盤で自分が設立した警察の殺人課もライーサの愛も失ってしまう。すべてを失ったレオはどうするのか。

北上次郎の解説によれば、レオ・デミドフのシリーズには第3部が予定されており、それで完結するとのこと。この第2部は物語の真ん中に当たるための弱さが出たのかもしれない。いずれにしてもトム・ロブ・スミスの筆力の快調さは今回も確認できたので、第3部でどんな決着を用意しているか楽しみにしたい。

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「ニーナの記憶」

2009 年 8 月 17 日 月曜日
「ニーナの記憶」

「ニーナの記憶」

今年のMWA賞でメアリ・ヒギンズ・クラーク賞を受賞した。原題はThe Killer’s Wifeで、シリアル・キラーの妻を主人公にしたサスペンス。3分の2ぐらいまでは夫が殺した娘の父親から理不尽な攻撃を受ける主人公と、夫が逮捕されるまでの過去の生活の回想(これが邦題の理由)、終盤の3分の1が何者かに連れ去られた主人公の息子を巡るサスペンスとなる。前半の方が面白いが、著者のビル・フロイドはこれがデビュー作だそうで、最初の作品でこれだけ書ければ十分だろう。

主人公のニーナがショッピングセンターの食品売り場で「リー・レンでしょう?」と60代の男から声をかけられる場面で始まる。「ええ、そうです」と答えた途端に男の態度は豹変する。

「あんたの本当の名前はニーナ・モズリー。一九九七年十一月八日、あんたの夫ランドル・ロバーツ・モズリーが私の娘キャリーを殺した」。
この世のすべてが遠くに見えた。両足や空いているほうの手と同じく、つかまれた手から力が抜けたが、チャールズ・プリチェットがあからさまに力を加えて関節が音をたてそうなほどわたしの指を締めつけている。手を引き抜こうとしても、彼がカメラのストロボのように目を光らせてしっかりつかんでいた。

悪夢のような場面。ニーナは逮捕された夫ランディと離婚し、名前を変えてこの町に移り住んでいたのだ。プリチェットはニーナがランディの共犯に違いないと思い込み、私立探偵を雇って行方を突き止めた。事件の犯人の家族が世間から冷たい目で見られるのはアメリカでも同じらしい。

ランディは10年余りの間に少なくとも12人を殺害した。死体の眼球はえぐられ、代わりにサイコロなどが詰め込まれていた。ニーナは当初、そんなランディの正体にまったく気づかなかったが、やがて不審な点が目につき始め、決定的な証拠を突きつけられる。そして自分から警察に通報するのだ。しかし、最近になってランディの手口と似た殺人事件が発生する。

著者は2005年に逮捕されたシリアル・キラーをモチーフにこの小説を書いた。逮捕された男は郊外に住む普通の家庭の夫で、家族は誰一人、夫・父親が連続殺人の犯人とは気づかなかったという。

この小説、ランディが及ぼす力などに「羊たちの沈黙」の影響が見られるけれども、無駄に長くないのがいい。殺人者の妻の心理を詳細に描きながらサスペンスを盛り上げ、きっちりとまとまった佳作。

「ブルー・ヘヴン」

2009 年 8 月 1 日 土曜日
「ブルー・ヘヴン」

「ブルー・ヘヴン」

昨年8月に翻訳が出た本で、今年のMWA最優秀長編賞を受賞した。殺人事件を目撃した幼い姉弟とそれを守る老牧場主を巡るサスペンス。終盤で意外な人間関係は明らかになるけれども、これは老牧場主のジェス・ロウリンズの生き方をじっくりと描いて心に残る作品だ。

舞台はアイダホ州北部の小さな町クートネー・ベイ。ロサンゼルス市警を退職した警官が多く移り住んでくるため、ブルー・ヘヴンと呼ばれている。姉弟が目撃した殺人は元警官の4人組によるものだった。気づかれた姉弟は逃げ、ジェスの牧場にたどり着く。ジェスの家は祖父の代からここで牧場を経営してきたが、妻のカレンの浪費癖によって牧場はジェスが知らない間に多額の借金を負い、人手に渡ろうとしていた。カレンは牧場を出て行き、息子は精神を病んでいる。その頃、町には8年前に起きた競馬場での現金強奪事件を調べるため、警察を退職したばかりのエデュアルド・ヴィアトロが訪れていた。

ジェスとヴィアトロは物語の中盤で出会う。2人は真っ当に生きてきた同じタイプの人間であることを知る。「今でも警察官倫理規定の最後を暗唱できる」と言って、暗唱してみせたヴィアトロに対してジェスは言う。

「引退したとは残念だ」ジェスは言った。
「このことばからは引退していない。まだ、な」
ジェスはこうした話題について誰かと話しができることに驚いた。それも、はじめて会った男と。こんな風に考えている人間が他にもいるのだとわかっただけで嬉しかった。

「あんたは面白い男だな、ミスタ・ヴィアトロ」
「水から上がった魚さ、それがいまのおれだ。だがおれは、決意の固い魚だ」
「そうみたいだな」ジェスは応えた。「おれもどうやら、あんたと同じみたいだ」
二人は手を握り合った。

ストレートなサスペンス作品だが、このようにジェスとヴィアトロ、その周囲の人間たちを生き生きと描いていて読ませる。正統派の西部劇のような印象を受けるのはアイダホ州の自然の中で描かれる話であるためか。作者のC・J・ボックスはワイオミング州生まれ。これまでにワイオミング州猟区管理官ジョー・ピケットを主人公にしたシリーズ作品などを書いているそうだ。僕は初めて読んだ。

訳者あとがきには「アバウト・シュミット」のプロデューサー、マイケル・ベスマンとキャメロン・ラムが映画化の権利を獲得したとあり、CJ Box Web Siteにもそう書いてあるが、IMDBにはまだ影も形もない。ジェスのイメージに近いのはあとがきにもあるようにクリント・イーストウッドだろうが、もう無理か。

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「イン・ザ・プール」

2009 年 7 月 23 日 木曜日
「イン・ザ・プール」

「イン・ザ・プール」

「打ちのめされるようなすごい本」で米原万里が褒めていたので読む。奥田英朗の本は数冊買っているが、まともに読んでいなかった。いや、これはおかしい。面白い。続編の「空中ブランコ」は直木賞を取り、この本自体も直木賞候補になったけれども、それが納得できる面白さ。精神科医・伊良部一郎を主人公にした連作短編。医師というよりは単なる混ぜっ返し、駄々っ子のような太った中年の伊良部のもとを訪れるプール依存症、妄想癖、陰茎強直症、不安神経症などさまざまな患者を取り上げ、ストレス社会の中で現代人が抱える心の病を爆笑させながら描き出した小説だ。

読んでいていくつか自分にも思い当たることがある。「イン・ザ・プール」のプール依存症になった男はウォーキング依存症やネット依存症に近かった(今でも?)自分に当てはまるし、たばこの火を消したかどうかに不安を覚え、何度も確認し、外出できなくなる「いてもたっても」の男には、そうそうたばこの火って気になるんだよなと思う。ということは自分も軽度の不安神経症なのか。

まともな治療などせず、注射フェチの伊良部にあきれながらも患者が通院をやめられないのは心の病とは無縁で、人目を気にせず自分の思うとおりに行動する伊良部がある意味、うらやましい存在だからだろう。収録されている5編すべて面白いが、僕が気に入ったのは色っぽい看護師のマユミさんがちょっとだけクローズアップされる「フレンズ」。1日に200通も携帯メールを出す高校生の雄太が患者で、この行動は友だちや仲間がいないことを避けたいという不安の裏返しなのだ。クリスマスに誰からも相手にされなかった雄太は伊良部に電話をかけ、代わったマユミさんと話す。

「マユミさん、彼氏はいるんですか」
「いないよ」
「ぼくじゃだめですか」
「子供はだめ」
間髪を入れず返事された。でも愉快な気分になる。くじけず話を続けた。
「どんな人が理想ですか」
「友だちがいない奴。大勢で遊ぶの、苦手なんだ」
メリークリスマス。雄太は夜空に向かってつぶやいていた。

マユミさんは「孤塁を守ることを恐れない北国の美女」だったのである。

恐らく、この連作短編を書くのに奥田英朗は相当の取材をしているはず。それを表面にはおくびにも出さず、エンタテインメントに仕上げている。こういうのを洗練された手法と言うのだろう。

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