やってみる。最初に設定したらエラー。WordPressの設定画面でリモート投稿を有効にしなくてはいけなかった。Live Writerで書いた方が落ち着いて書ける感じがする。
プレビューを見てみると、なぜかデザインが少し崩れる。テーマの問題か。現在のテーマはglass。スタイルシートとPHPファイルに手を入れて少し外観を変えた。日本語表示になりきっていないところもあったので、そこも修正。今日はこれで1日終わった。
やってみる。最初に設定したらエラー。WordPressの設定画面でリモート投稿を有効にしなくてはいけなかった。Live Writerで書いた方が落ち着いて書ける感じがする。
プレビューを見てみると、なぜかデザインが少し崩れる。テーマの問題か。現在のテーマはglass。スタイルシートとPHPファイルに手を入れて少し外観を変えた。日本語表示になりきっていないところもあったので、そこも修正。今日はこれで1日終わった。
WordPressをインストールしてみたが、環境構築までに時間がかかりそうだ。インストール時に気をつけなければいけないのはデータベースの接頭辞(Prefix)をwp-から別のものに変えることぐらいか。XOOPSならば、Protectorという強力な保護モジュールがあるが、WordPressのプラグインでもそれに類するものはあるのだろうか。
テーマをいろいろ選んでみると、中にはプレビューではまったく表示できないものもあった。英語版だと具合が悪いので、表記を日本語化。該当ファイルを開いていちいち訳していくのは面倒だな。中にはpoファイルに対応しているものもあったが、なかなかうまくいかない。現在使っているテーマはpoファイルには対応していなかった。
編集画面で戸惑うのはHTML画面にしてもソースが見られないこと。これはソースを表示するのではなく、通常の編集画面では入力できないタグを入力するための画面らしい。ふーん、ソースを直接いじれた方が編集はしやすいと思うんだけど。ビジュアル画面のフォントがserifなのもちょっと違和感がある。
検索機能もどうも日本語のヒット率が悪いようだ(これはMySQLのバージョンが4.0系であることが原因だった)。やはりファイルをダウンロードしてNamazuでインデックスを作るべきか。
「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作。これは映画よりも感動的なノンフィクションである。著者は登山家で文筆家のジョン・クラカワー。クラカワーはアウトドア雑誌にアラスカで餓死したクリス・マッカンドレスについて9000語の記事を書いた後、マッカンドレスと自分に共通点が多いことが気になり、さらに詳細にその足跡を調べ始める。マッカンドレスが交流した多くの人たちや死体の発見者にインタビューし、アラスカの現場まで出かける。そして「向こう見ずな愚か者」「変わり者」「傲慢と愚行によって命を落としたナルシスト」という非難を退けるマッカンドレスの真の姿を明らかにする。
この本が感動的なのはマッカンドレスの生き方が感動的だからではない。著者がマッカンドレスの生き方を理解し、共感し、なぜ若者が荒野を、冒険を目指すのかを自分の体験や多くの先例を出して説明しているからだ。何よりも著者がマッカンドレスに深く寄り添っているからだ。ショーン・ペンがこの原作に感動し、映画化しようと思ったのもそこがあるからだろう。しかし、映画にはクラカワーの視点を取り入れようがなかった。いや少しは入っているだろうが、十分ではなかった。マッカンドレスの生き方とさまざな人たちとの交流は分かるけれども、荒野を目指す若者に対して、観客に共感を十分持たせるには至っていない。
原作の前半で最も感動的なのは映画でハル・ホルブルックが演じた老人との交流の場面(第6章)だ。老人は雑誌の記事のことを知り、雑誌を1冊譲ってくれと雑誌社に手紙を出してくる。その手紙を読んだ著者は老人にインタビューに出かける。
マッカンドレスは放浪の旅の途中で多くの人々に忘れられない印象をあたえていた。その大半は、彼といっしょに過ごしたのがわずか数日、長くても一、二週間にすぎなかった。しかし、男性にせよ、女性にせよ、ロナルド・フランツほど深く心を動かされたものは、誰もいない。一九九二年一月にふたりの進んでいた道が交差したとき、彼は八十歳だった。
老人とマッカンドレスの数週間に及ぶ交流は映画に描かれた通りだ。若い頃、酔っぱらい運転の車にはねられて妻子を亡くした老人はその後さまざまな若者の援助をする。年を取ってそれを辞め、孤独な生活を送っていた頃にマッカンドレスと知り合い、再び父性が頭をもたげ、援助し、養子にならないかと誘う。マッカンドレスに影響を受けた老人はマッカンドレスと別れた後に助言に従って、キャンプを体験するようになる。そんな時、ヒッチハイクをしていた若者2人を車に乗せ、マッカンドレスの死を知らされる。
「アレックスがアラスカへ出発したときに」フランツはそのときのことをよく覚えていた。「私は祈ったんだ。アレックスの肩にかけた手を放さないでください、と神に願いごとをしたわけさ。あれは特別な若者だって神に言ったんだよ。だけど、神はアレックスを死なせてしまった。それで、なにが起こったか、私は12月26日に知り、神を捨てた。教会員であるのをやめ、無神論者になった。アレックスのような若者の身に恐ろしいことをもたらす神を信じないことに決めたんだ」
後半はマッカンドレス家の事情となぜマッカンドレスが荒野へ出かけたのか、どうやって死んだのかを詳細に描く。若者が荒野を目指す理由について、著者は自分が22歳のころに行った単独登山のことを2章にわたって書く。そして死因について、明らかにする。映画では食用の植物と毒のある植物を間違って食べたからと説明されたが、原作では違う。確かに最初の記事を書いた際、著者は毒のある植物を食べたためとしていたが、その後の調査で食用の植物にもサヤの部分に毒があることが分かる。サヤにはアルカイドが含まれていた。この毒が体に入ると、「身体は食べたものを役に立つエネルギーの熱源に変えることができなくなるのだ。スウェインソニンを大量に摂取すると、たとえどんなに食べ物を胃に入れても必ず餓死するのである」。
餓死の説明は同じであっても、映画はなぜこの部分を改変したのだろう。このサヤの部分の毒に関して書いた書物はマッカンドレスが死んだ当時にはなかった。映画ではマッカンドレスが植物図鑑を見て自分が間違った植物を食べてしまったと理解する場面があるけれども、あれではマッカンドレスはやっぱり愚かな青年になってしまうのではないか。原作が出たのは1996年。その後、やっぱり間違った植物を食べたという結論になったことも考えられるが、可能性は薄いように思う。映画の描き方として、主人公が知らない植物の実態について説明しようがなかったためではないかと思われる。
あと、なぜあのバスがアラスカの荒野にあったのか、農場主のウェインが逮捕されたのはなぜかなど、映画では分からない細かい部分もよく分かった。映画にあまり興味を持てなかった人もこの原作には共感できると思う。
最後になぜ、青年は荒野を目指すのか、その重要な部分を引用しておく。エヴェレット・ルースとは1930年代にマッカンドレスと同様に荒野を愛し、そこで生き、行方不明となった若者である。
大人の月並みな関心事しか頭にない私たちにとって、若さの情熱さと憧れにはげしく翻弄されたころのことを思い出すのがいかに困難かをはっきり示している。エヴェレット・ルースの父親が、二十歳の息子が荒れ地で姿を消した何年かあとで、感慨をこめて言ったように、「年配の者には、若い者の奔放な情熱は分からない。誰にもエヴェレットの気持ちはよく理解できないと思う」
【amazon】荒野へ (集英社文庫)
原題はThe Curious Case of Benjamin Button(ベンジャミン・バトンの奇妙な症例)。「グレート・ギャツビー」のスコット・フィッツジェラルド原作なのに、驚いたことに初めて訳されたのだそうだ。本文は80ページ足らずの短編で、それをハードカバーで出版するというのも珍しいが、もちろん、映画公開に合わせてのことだ。ちょうど、これ、小学生が読むぐらいのハードカバーの分量ではないかと思う。
映画の予告編を見て、いったん年を取った男が徐々に若返る話かと思ったが、原作は違う。主人公のベンジャミン・バトンはいきなり70歳の男として母親から生まれる。いったい身長170センチの男がどうやって生まれるんだと思ってしまうが、そういう部分の説明はない。父親のロジャー・バトンが病院に行った途端、医者と看護師からヒステリックな暴言を浴びせられる、という出だしからクスクス笑える。ロジャーが病室で見たのは「大きな白い毛布に包まれて、ベビーベッドに体の一部を押し込まれた、どうみても七十歳ぐらいの老人」だった。
「一体全体どこから来たんだ? お前は誰なんだ?」バトン氏は狂ったように言い放った。
「自分が誰かなんて言えませんよ」老人はぶつくさとこぼした。「だって、まだ生まれて数時間しか経たないんですからね--でも確かに苗字はバトンですが」
「嘘だ! お前はサギ師だ!」
家に連れ帰られたベンジャミンは年を経るごとに若返っていくことになる。50歳ぐらいまで若返った20歳の時にベンジャミンは恋をして結婚する。しかし、若返るベンジャミンと妻との仲は次第に悪くなっていく。それでもベンジャミンは若返り続け、ついには息子よりも孫よりも若くなる。スラップスティックかと思えるような設定で始まった話は次第に透明な悲しみに包まれていく。この感覚はそう、ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」に似ているか。子供に若返っていくベンジャミンは知識も同時に失っていくのだ。
翻訳者の都甲幸治のあとがきによれば、フィッツジェラルドは「人生の一番いい時は最初にやってきて、一番悪い時は最後に来るってのはつらいよなあ、というマーク・トウェインの発言にヒントを得て」、じゃあ逆にしたらどうかと思い立ったのだという。あとがきにはSFと書いてあるけれど、奇想小説と呼んだ方がふさわしいのではないかと思う。たった80ページ足らずの本文で1300円は少し高いと思えるかもしれないが、イラストの入ったしっかりした本であり、内容と合わせて考えれば少しも高くない。だが、角川文庫からはこの小説を含めて「フィツジェラルドの未訳の作品を厳選した傑作集」が文庫本(500円)で出ている。
「告白」は週刊文春ミステリーベストテン1位、「このミス」では4位だった。6章から成っていて、1章あたり50ページ足らず。これなら体力なくても読みやすい。第1章の「聖職者」は小説推理新人賞受賞作。ある中学校の女性教師が終業式の日、1年生のクラスの生徒の前で教師を辞めると語り始める。その理由は彼女の4歳の娘が学校のプールで水死体で発見されたことだった。娘はプールのそばにある家の犬にえさをやろうとして、プールに落ちたらしい。警察は事故死と断定する。しかし、女性教師は「娘は殺された。犯人は2人。このクラスの中にいる」と指摘する。
この1章だけ取り上げれば、女性の心理とか執着、恨みとかが凝縮されて、いかにも女性作家らしい作品だなと思う。よくまとまっていて、新人賞としておかしくない。嫌な気分にさせるミステリを嫌ミスと言うそうだが、そこまではないかもしれない。決着に疑問はあるけれども、これはこれで良いと思う。
第2章の「殉教者」、個人的にはこれが一番面白かった。クラスは2年に進級し、大学を出たばかりの脳天気な男性教師が担任になる。犯人2人のうち、1人は不登校になったが、もう1人の主犯格の少年は以前と変わらず登校してくる。クラスの生徒は彼を無視し、やがて堰を切ったようにいじめが始まる。男性教師は不登校の生徒を登校させようと、委員長を伴って家に行くようになるが、それが悲劇を引き起こす。この章は委員長の女子生徒の視点で語られる。いじめに加われず、少年をかばった委員長もまたいじめの対象になる。やがて委員長は少年の意外な素顔を見て好意を持ち始める。ここは重松清「きみの友だち」を彷彿させるが、あの小説のいじめよりもっと陰湿だ。
3、4、5章はそれぞれ事件の関係者の別の視点で語られていく。そして6章で再び女性教師が登場し、残酷な結末を迎えることになる。一気に読める小説だが、僕は所々に歪さを感じた。第1章の「聖職者」を書いた時点でこういう連作にする意図があったかどうかは分からないが、必ずしも成功していないように思う。木に竹を接いだ感じを受けるのだ。ミステリ風味も3章以降は薄い。個人的に嫌ミスもあまり好きではない。
3章までは小説推理に掲載され、あとの3章は書き下ろし。全編書き下ろしならまた違った感じになったかもしれない。それにしても新人とは思えない作品なので、2作目以降には期待できるのではないか。ちなみに本の帯にある読者の感想は当たり前だけれども、いずれも褒めすぎ。ミステリをあまり読んでいない人たちが書いたとしか思えない。