投稿者「hiro」のアーカイブ

「バスク、真夏の死」

本棚に積ん読状態だったトレヴェニアンの旧作を読む。原題は「カーチャの夏」(The Summer of Katya)。前半はラブストーリーだが、後半はスリラーで、訳者後書きを引用すれば、「バスクという特異な地方色を濃厚に盛り込んだ恋愛小説仕立ての精神分析学的スリラー」ということになる。これを読むと、「ワイオミングの惨劇」の主人公の設定に納得できる。そうか、トレヴェニアンはこういう部分に元々興味があったのか。

第2次大戦前のフランス、バスク地方が舞台。村の診療所に勤める新米医師のジャン=マルク・モンジャンは大戦前の最後の夏、カーチャと名乗る美しい女性に出会う。双子の弟が事故で鎖骨を骨折したので、家まで治療に来てくれと頼まれるのだ。カーチャの家族は2.6キロ離れた山荘に住み、弟のポールと中世の研究に打ち込む父親のムッシュー・トレビルの3人で質素に暮らしていた。カーチャの美しさに惹かれたモンジャンは毎日、山荘に通うようになり、2人の愛は深まる。しかし、ポールは「姉を愛してはいけない。それを父親に知られてもいけない」と警告する。そしてなぜか一家は1週間後によそに引っ越すことになる。

クライマックス、狂騒的で郷愁を呼ぶバスク地方の祭りのシーンから一転してショッキングで悲劇的な真相が明らかになる。終盤の説明のシーンはちょっと長すぎるし、この趣向はいくつも前例がある。それでもこの小説が魅力的なのは地方色がふんだんに盛り込まれているためか。

トレヴェニアンの小説はこれまで「夢果つる街」しか読んでいなかった。「このミステリーがすごい!」1988年版の1位になった警察小説だが、僕にはあまり印象が強くなかった。これを機会に再読してみようかと思う。

「ワイオミングの惨劇」

覆面作家トレヴェニアンの「バスク、真夏の死」(1983年)以来の新作。アメリカでは1998年に出版されたそうだが、翻訳が遅かったのはそれなりの出来であるためか。確かに絶賛される小説ではないけれど、主人公や悪役の造型に独自のものがあって面白く読めた。

州に昇格したばかりのワイオミングのさびれた鉱山町“20マイル”が舞台(原題は「20マイルの事件」Incident at Twenty-Mile)。古い大きなショットガンを持った男マシューがこの鉱山町にふらりと現れる。どこか正体不明のところがあるマシューは住人からの雇われ仕事をする何でも屋として住み着く。そこへ刑務所を脱獄した凶悪な3人組が来る。3人組は町にある銃をすべて取り上げ、暴虐の限りを尽くすようになる。

トレヴェニアンはこの基本プロットに住民のキャラクターを描き込むことで、読み応えのある小説に仕上げた。主人公マシューは自分に危機が及ぶと、“もうひとつの場所”に逃げ込む。これは虐待を受けた子供が現実から逃避するために行うとよく説明されるもので、多重人格の原因にもなるものだ。このマシューと3人組のリーダーであるリーダーは過去の虐待という点で共通点を持つ。この2人が対決するクライマックスは意外にあっさり片が付き、その後に長いエピローグがある。

トレヴェニアンの狙いが邦題の“惨劇”にあるわけではないことは明らか。西部劇仕立てながら西部劇ではなく、ラース・フォン・トリアー「ドッグヴィル」に共通するものがある。巻末の解説にはトレヴェニアンのデビューから現在までが書いてあって詳しい。

「きょうのできごと」

ようやく読む。読んだからといって、映画の見方が変わるわけではない。全然面白くなかったわけではないが、やはり波瀾万丈の筋立ての方が好み。

一番最後(文庫の書き下ろし部分「きょうのできごとのつづきのできごと」)に作者の柴崎友香が映画のロケを見に行く話が出てくる。行定勲の話が興味深かった。作者は田中麗奈に自分の役がどんな女の子か尋ねられる。それについて聞いた行定勲はこう答えるのだ。

「みんなそれぞれ、自分が演じる人物についてすごい考えているからね。柴崎さんの考えた人物があって、おれが考えた人物があって、それから役者が考える。役者は柴崎さんにそうやって聞いたりするかもしれないけど、それは参考に聞いてみるっていうことで、やっぱり最後は自分が考えたとおりに演じるよ」

なるほどなあと思う。役について真剣に考える田中麗奈の表情が目に浮かぶようだ。

「終戦のローレライ」

ようやく読む。上巻453ページ、下巻597ページ。ローレライと呼ばれる秘密兵器を積んだドイツの戦利潜水艦「伊507」を中心に据えた白熱の海洋冒険小説であり、驚異の戦争文学。上巻の最後の方にある「しつこいアメリカ人」との戦いと下巻のクライマックス、40隻のアメリカ艦隊とのテニアン島沖の死闘だけでも海洋冒険小説の最高峰と思える出来である。しかし、作者の福井晴敏がこの長い物語で描こうとしたのは恐怖を恐怖で抑えつける“餓鬼の道”に陥ることへの強い批判であり、凡人が歩む“人の道”がいかに大切かということなのだろう。

それが端的に表れているのは日本のあるべき終戦の姿を求めて、「国家に切腹」させようとする浅倉大佐と、主人公で17歳の上等工作兵・折笠征人が無線で対峙する場面だ。その優秀さで周囲から一目置かれていた浅倉は南洋の島で極限の飢えに苦しめられ、餓鬼の道に落ちた男である。仲間の兵を食わねばならなかった飢餓の描写が凄まじいので、浅倉の言う敗戦の在り方に納得しそうになるのだが、それは征人の「…でも、東京にいる人はみんな死ぬ」という一言で逆転する。

「あんたたち大人が始めた戦争で、これ以上人が死ぬのはまっぴらだ」
「あなたのやろうとしていることはパウラを薬で白人にしようとしたナチスのバカな科学者と同じだ。頭でっかちで、自分の都合のいいようにしか物事を見ようとしない。自分が魂を売ったからって、他人もそうするって勝手に決め込んでる偏屈な臆病者だ…」。

頭でこねくりまわした計画よりも単純な正義感が勝ることは得てしてあることだ。そして、人が考える普通の在り方がいかに重要か、福井晴敏は力を込めて訴えている。

日本人の血を引くドイツ人の少女パウラは征人の心に触れて、苦しんでいたものを乗り越えるようになる。クライマックスの戦闘の中で自分の本来を役割を知るのである。

決してつかまえられなかった答、亡者たちの問いかけに対する答が不意に頭をかすめ、パウラは夢中でその断片を手繰り寄せた。
『なぜ』
終わらせるために。
この世界をあまねく鎮めるために、いまは私は魔女になる。船乗りたちに死をもたらす魔女ではなく、すべての戦に終わりを告げる終戦のローレライに…。

浅倉に同調した「伊507」の掌砲長・田口徳太郎や、生きのびるためにSSに入ったパウラの兄フリッツも同様の変化を迎えることになる。このほか、弟を死なせた艦長・絹見や征人の友人である清永など登場人物の一人ひとりをその背景まで含めて描き込んであり、これは群像劇の趣もある。

終戦後の日本の在り方を総括する終章は個人的にはあまり必要性を感じないが、それは小さな傷と言うべきで、胸を揺さぶられるような熱い筆致で綴られた傑作だと思う。

【amazon】終戦のローレライ〈1〉 (講談社文庫)

「ある日どこかで」

1980年製作の同名映画の原作(リチャード・マシスン)。昨年3月に創元推理文庫から出た邦訳をようやく読む。映画は公開時に東京では2週間足らずで打ち切られたが、地方では「ザナドゥ」の併映として延々と上映された。で、「ザナドゥ」よりもこちらに感激した人が多かったのだった。

劇作家のリチャード・コリアは泊まったホテルで過去の女優エリーズ・マッケナの写真を見て、一目惚れしてしまう。本人に会いたい気持ちが募り、リチャードは過去へ遡る方法を見つけようとする。当時の洋服に着替え、当時のお金を用意し、ホテルの部屋で自分に暗示をかけることでリチャードは時間旅行に成功する。1896年の海岸で、エリーズが初めてリチャードにかけた言葉は映画通りである。

やがて、予想もしていなかった言葉を彼女が不意に言ったので、その声に唖然とさせられた。「あなたなの?」とエリーズが訊いたのだ。

これに対して、リチャードは「そうです、エリーズ」と答える。

原作はほぼ映画に忠実で(という書き方はおかしいが)、映画のさまざまな場面をリフレインしながら読んだ。映画の脚本はマシスン自身が書いているからこれは当然のことだろう。

映画を見ていると、小説を読んでも映画で受けたような感激は味わえないが、この物語を愛する人は持っておいて損はしないだろう。作家の瀬名秀明は解説(これは大変詳しく、読みごたえがある。エリーズのモデルになった女優モード・アダムスについても詳述してある)にこう書いている。

きっとあなたもこの物語を生涯大切にしたくなるだろう。これは奇蹟の作品である。

言わずもがなのことを付け加えておくと、リチャードが試みる時間旅行の方法はジャック・フィニィが考案したものと同じである。だから映画にはフィニィの役も登場する。

【amazon】ある日どこかで (創元推理文庫)