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「バースデイ」

「リング」シリーズに関しては、小説の3部作こそ読んでいるものの、映画とテレビに関してはほとんどまともに見たことがない。テレビドラマはもともと見る習慣がないし、映画は昨年前半までは映画館にあまり行かない時期(?)だった。それ以上に僕は小説の「リング」シリーズをあまり評価していない。SFファンの眼で見ると、「ちょっと違うなあ」という気がするのだ。どこをどうと聞かれると困るが、細かい部分に違和感がつきまとう。だから昨年、「リング」をフィーチャーした中短編集「バースデイ」が出ても、「そこまでつき合う気はないよ」と読む気にならなかった。しかし映画「リング0 バースデイ」は面白かった。原作と比較したくなって文庫本を読んでみた。

「リング0」の原作は3編収められた「バースデイ」の中では最も長い「レモンハート」。現在47歳の遠山の回想で劇団在籍時の山村貞子が描かれる。音響効果担当の遠山は同期入団の研究生貞子に恋心を抱く。貞子は19歳。少女らしさと大人の色気を併せ持つ不思議な美人である。遠山の思いは貞子に伝わり、遠山は相思相愛になったと信じるが、貞子は言い寄ってくる演出家の重森も邪険には扱わず、遠山には貞子の真意がつかめない。ある日、音効室の中で遠山と貞子は愛を確かめ合う。その時の様子はなぜかカセットテープに録音されていた。それを遠山の同期生がスピーカーで流してしまう。そのテープは4人が聴いており、そのうちの一人、重森は次の日に死亡。残りの3人も現在までに次々に死んでいることが分かる。そして遠山自身、体の不調を感じるようになる。

要約すれば、これは幽霊になる前も山村貞子は山村貞子だった、というだけの話である。「リング」のビデオテープがここでは(まだ一般に普及していないから)カセットテープとなる。遠山と愛を確かめ合う前に、貞子はカセットデッキを指さして次のように言う。

「オープンテープよりずいぶんと小さくなって、録音も簡単そう」
「ああ実に便利だ」
「映像もそうなるのかしら。映画館にある映写フィルムじゃなく、カセットテープぐらいの小さな媒体に、いろいろな映像が記録できるようになるのかしら」

貞子はここで既にリングウイルスの繁殖を意図しているかのようだ。映画の貞子は違う。幽霊が見えてしまう貞子は劇団に所属しながら病院に通っている。主演女優の怪死など貞子の周囲では不思議な出来事が次々に起こる。貞子が意図したものではなく、これは貞子のすぐそばにいる邪悪な誰かが行っていることなのだ。貞子は超能力者ではあるけれども、その力はまだ発揮されていない。貞子が自分の力に目覚めたときには、事態はとんでもない方向に向かっているのである。世間から理解されない超能力者の悲劇。脚本の高橋洋は貞子を「キャリー」のように描くことを考えたという。原作とストーリーは全く異なり、これは脚色というよりほとんどオリジナル脚本と言っていいだろう。原作から借りているのは設定だけなのである。

原作を読んで改めて映画の良さが分かった。映画評にも書いたように、邪悪な存在=双子の妹、というアイデアは他の作品にも例があるけれど、まともに姿を見せないこの妹の描き方が極めて怖い。薬漬けにされて成長を止められたことがどんなにひねくれた存在を生み出すか想像に難くないのである。そして貞子の運命。養父から井戸に落とされた貞子は超能力者であるがために死ぬこともできず、30年近くも生き延びる。世間に対する怨念がこの間にどれほど増大するか、これまた容易に想像できる。人間が行った残酷な仕打ちが怪異となって返ってくる。「リング0」から読みとれるのはこうしたことではないか。遅すぎる認識だが、高橋洋と監督・鶴田法男の作品には今後注目していきたいと思う。

「秘密」

「秘密」は「本の雑誌」で1位、週刊文春で3位、「このミステリーがすごい!」で9位にランクされ、日本推理作家協会賞も受賞した。どうだ、まいったかという高い評価である。秀作の多い東野作品の中でもベストの作品だろう。交通事故で重傷を負った妻と小学生の娘の意識が、妻が死ぬ直前に入れ替わる。夫は、娘の体で生きる妻と暮らすことになる。成長するに従って、2度目の思春期を謳歌する妻に対して夫は年を取るばかり。他の男の影がちらつくようになった妻に、夫は激しい嫉妬を抱く。しかし、ある事件を境に死んだと思っていた娘の意識がよみがえるようになる。そして妻である時間は日を追って少なくなり、娘の時間が多くなっていくのだ。

タイトルの「秘密」はもちろん、娘の体の中に妻がいるという秘密なのだが、もうひとつ切ない仕掛けがある。それが分かるラストはたまらない。北村薫「スキップ」と比較した書評をよく見かけたけれど、僕はラストの喪失感から井上夢人「ダレカガナカニイル…」を思い出した。

「秘密」はもともと笑いの小説として書かれたという。「毒笑小説」(集英社文庫)の京極夏彦との対談で、東野圭吾は、こう語っている。

東野 あれは、「怪笑」とか「毒笑」を書いている時期に、原型になった短編があるんです。娘に死んだ奥さんの魂が宿って、おやじの慌てぶりのドタバタが面白いだろうと「笑い」で書いたんです。ところが、そのとき何かあまり面白くなくて、こんなはずじゃないゾ、もっとこれは面白くなるはずだ、短編だからよくなかったんだとか思って……。
京極 それで「秘密」を書いたら―。
東野 よりいっそう笑えなくなってしまったという(笑い)。それでもちょっと勉強したことなんですけど、笑うスイッチと泣くスイッチは―。
京極 近所にある。

なるほど。「秘密」には確かにスラップスティック風の笑える部分が残っている。しかし、この小説が優れているのは、夫の心情を丁寧に描いてあることだ。夫は妻に男の影がちらつくから嫉妬しているのではない。自分だけ若返った妻に対しても嫉妬しているのだと思う。男性と女性とで、この小説の読後感はかなり違うのではないか。映画がそうした微妙な部分を描けるかどうか、ちょっと心配でもある。

「聖の青春」

初めて買った「将棋世界」に村山聖の写真が掲載されていた。頬がふっくらした童顔で恐らくこれは小学生か中学生で速く昇級したから掲載されたのだろうと思った。しかし、村山は当時23歳だった。「聖の青春」(講談社、単行本)の135ページにも掲載されているこの写真は、師匠の森信雄がB級2組への昇級祝いに撮影したものだった。村山聖はその後、A級にまで昇級し、「名人になりたい」との志半ばで平成10年8月8日に亡くなる。29歳。幼いころから難病の腎ネフローゼと闘い、最後は膀胱ガンで倒れた。本書は「将棋世界」編集長の大崎善生が綴った村山の鮮烈な“魂の軌跡”である。将棋一筋の村山の生き方、周囲の人々(特に森信雄)の温かい支援に胸を熱くせずにはいられない。将棋に興味のない人にも必読の1冊と思う。

村山の将棋界へのデビューは順調なものではなかった。実力は十分あったが、将棋界の古いしきたりが阻んだ。故郷広島の将棋教室を通じて奨励会への入会を図るが、「まだ早い。もう少し実力を付けてから」と言われ、別のルートで奨励会試験を受ける。その時の師匠が4段になったばかりの森信雄。森は一目会った途端、村山を弟子にしようと決意する。試験は優秀な成績だったが、思わぬ事態が起こる。関西では当時一流の棋士がクレームを付けてきたのだ。村山の父親が最初に相談を持ちかけた将棋教室の主宰者がこの一流棋士に弟子入りを頼み、既に許可されていたというのだ。自分の弟子にしたはずの子どもが他の門下から試験を受けた。これは承伏しかねる、とこの棋士は怒り、奨励会入会に待ったをかけた。森はこの棋士に電話で掛け合うが、こう脅される。

「あきらめろ。これ以上このことで俺に何か言ったら、お前を斬るぞ」
このひとことで森の腹は決まった。大人たちの理屈を一方的に押しつけ、子どもの未来を次にする、その論理が許せなかった。斬るならば、勝手に斬れと思った。
斬られようが、将棋界を追放されようが自分はどうなったっていい。もし、村山君が将棋界に入れないようなことになれば、そのときは自分も将棋をやめよう、そう決心したのだ。
…(中略)…
村山君はわしの弟子や。はじめてのわしの弟子や。守ってやらな…。

村山はこのことで奨励会入会を1年待たされる。その間、森のもとに住み込み、修業をすることになる。2人とも風呂嫌いで顔も洗わなければ歯も磨かない共通点があった。これに関して作者が真冬の公園で見た2人のエピソードが泣かせる。

森が飛ぶように、青年に近づいていった。
「飯、ちゃんと食うとるか? 風呂入らなあかんで。爪と髪切りや、歯も時々磨き」
機関銃のような師匠の命令が次々と飛んだ。
髪も髭も伸び放題、風呂は入らん、歯もめったに磨かない師匠は「手出し」と次の命令を下す。青年はおずおずと森に向けて手を差し伸べた。その手を森はやさしくさすりはじめた。そして「まあまあやなあ」と言った。すると、青年は何も言わずにもう一方の手を差し出すのだった。
大阪の凍りつくような、真冬の公園で私は息をのむような気持ちでその光景を見ていた。それは人間のというよりもむしろ犬の親子のような愛情の交換だった。理屈も教養も、無駄なものは何もない、純粋で無垢な愛情そのものの姿を見ているようだった。
…(中略)…
空には降り注ぐような満天の星が輝いていた。つきさすような冷え切った空気が、星を磨いているようだった。それを眺めるふりをしながら、私は涙をこらえていた。なぜだろう、そんな気持ちになったのは生まれてはじめてのことだった。

この光景が作者にこの本を書かせる原動力の一つになったと思われる。村山と森の交流の深さ、その一つ一つのエピソードは胸を打つ。村山はいい師匠に恵まれたなと思う。

むろん、本書の主題は村山の凄まじい生き方そのものにある。腎ネフローゼは一度高熱を発すると、身動き一つできない事態に陥る。4畳半のアパートで村山は1週間動けないこともあった。入退院を繰り返し、順位戦を不戦敗せざるを得ないこともあった。それでも健康な他の棋士に負けず、昇級していく。終盤に強く、“終盤は村山に聞け”とまで言われるようになる。病気がネフローゼだけであったら、村山は悲願の名人位を手に入れていたかもしれない。しかし、ガンにかかってしまう。意識朦朧とした村山が最後に口にした言葉は「2七銀」だったという。最近、これほど熱い感動を与える書物を僕はほかに知らない。「新潮学芸賞受賞」とオビにあるが、そんなものがなくとも手に取るべき1冊。繰り返すが、絶対の必読。

【amazon】聖の青春 (講談社文庫)