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「舞姫 テレプシコーラ」

山岸凉子の「舞姫 テレプシコーラ」10巻を朝から一気に読む。「日出処の天子」よりはずっと読みやすく、スラスラ読めた。まず「日出処の天子」から。これは厩戸王子が女性だったら、もっとすんなり入り込めただろう。というのは冗談で、そうすると、話が成り立たなくなる。蘇我毛人との同性愛が物語の基本にあるからだ。厩戸王子は超能力者で蘇我毛人はそれを補完する能力を持っている。この2人が力を合わせれば、雨を降らすなど強大な力を得ることができるが、常識的な毛人は同性愛に踏み込むことをためらう。永井豪「デビルマン」の最終巻をなんとなく思い出した。もちろん、山岸凉子はそうしたSF的な発展の仕方には興味がなかったのだろう。力作であり、労作。

「舞姫 テレプシコーラ」は「日出処の天子」とはがらりと画風が変わっている。この2作の間に20年以上の年月があるからか。よく言えば軽やか、悪く言えば、スカスカの絵である。それでも物語は重い。バレエの天才少女・篠原千花と凡庸な妹六花(ゆき)が中心だが、前半の焦点は児童ポルノまがいの撮影で金を得てバレエに打ち込む貧しい家の(しかも美しくはない)少女須藤空美のエピソード。これはかなりの奥行きがあり、どうなることかと思ったら、空美は途中で転校し、物語から消えてしまう。うーん、これは編集者との話し合いで作品の方針が変わったためではないか。物語の決着を持って行きようがないエピソードなのである。

これ以後は千花の苦難を描きながらも、普通のバレエ漫画となる。それでも拒食症やいじめの問題を散りばめて面白いのだけれど、衝撃の第10巻は僕には全然衝撃ではなく、トラウマにもなりようがない。山岸凉子は最初からこういう構想だったのだろう。

印象から言えば、「日出処の天子」の方がずっと作品としては立派だ。ただし、二部以降の展開には期待する。

「総員玉砕せよ!」

NHKで放送した「鬼太郎が見た玉砕 水木しげるの戦争」の基になったコミック。1973年に書き下ろしで出版され、今は講談社文庫に入っている。これは水木しげるの軍隊に対する恨み辛み、激しい憎しみと怒りがあふれた本である。読み終わって、その恨みと怒りが伝染してくる。実際に戦場を体験した人だから説得力があるのだ。描かれるのはパプアニューギニアのニューブリテン島バイエンの小隊の日常と玉砕。理不尽な命令と卑劣な上官、バタバタと死んでいく初年兵たちの姿をこれでもかと描き出す。

玉砕から生き残った81人の命乞いをしようとする軍医の言葉が端的に軍への怒りを表している。

「虫けらでもなんでも生きとし生けるものが生きるのは宇宙の意志です。人為的にそれをさえぎるのは悪です」
「だってここは軍隊じゃあありませんか」
「軍隊? 軍隊というものがそもそも人間にとって最も病的な存在なのです。本来のあるべき人類の姿じゃないのです」

しかし、上官は軍医の言葉を聞こうとしない。

「参謀どの、とうてい勝目のない大部隊にどうして小部隊を突入させ、果ては玉砕させるのですか」
「時をかせぐためだ」
「なんですか、時って」
「後方を固め戦力を充実させるのだ」
「後方を固めるのに、なにもなにも玉砕する必要はないでしょう。玉砕させずにそれを考えるのが作戦というものじゃないですか。玉砕で前途有能な人材を失ってなにが戦力ですか」
「バカ者ーッ。貴様も軍人のはしくれなら言うべき言葉も知ってるだろ?」

そして部隊はもう一度、玉砕を命じられることになる。「軍隊で兵隊と靴下は消耗品」と水木しげるは後書きに書いている。勇敢な兵隊など一人も登場しない。死に場所を求める職業軍人と上官の姿はバカな教育と命令に洗脳された人間の末路を表しているにすぎない。こういう軍隊の現実を書ける人はもう少なくなった。戦後62年たって、戦場に行った人たちは70代後半から80歳以上。水木しげるも85歳だ。こういう戦争の現実を忘れた時から危ない状況に入っていくのだろう。

「僕は戦記物を書くとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」と水木しげるは後書きを結んでいる。戦死者の死を悼むと同時に戦死者たちの無念の思いと、人命を軽視し、理不尽な命令を繰り返した国に対して怒りを持つのが当然なのだ。

「夕凪の街 桜の国」

「夕凪の街 桜の国」

「夕凪の街 桜の国」

自宅に帰ったら、「夕凪の街 桜の国」の原作が届いていた。めちゃくちゃ薄い。漫画の部分だけで98ページ。これに3つの話が入っている。夕凪の街一つと桜の国が二つ。最初に訂正しておくと、「広島のある日本のあるこの世界を愛するすべての人へ」という献辞は原作にそのままあった。佐々部清監督が付け加えたものではなかった。

細部の違いはいくつかあるが、映画は原作をそのままなぞったものであることがよく分かる。そして映画の良い部分はそのまま原作の良い部分であることもよく分かる。ただ、原作にある透明な哀しさが映画には欠けている。

「夕凪の街」で皆実が死ぬシーンは原作の方が秀逸で、目が見えなくなるシーンを黒コマではなく白コマにしたのが工夫だろう。というか、全体的に優しい線なので、黒コマは合わなかったかもしれない。

原作がこれだけ短いと、原作を読んで映画を見た場合のように感じることになる。物語が分かっているので先の興味がなくなるのだ。これならば、原作を読んでから映画を見た方が良かったかもしれない。

amazonからメールが来て、水木しげる「総員玉砕せよ!」も発送したとのこと。予定より2週間以上早い。なんだ、それなら待っていても良かったのだ。

「バブル崩壊を阻止せよ」

「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」の原案コミック。今日届いた「気まぐれコンセプト クロニクル」に収録されている(楽天ブックスにしては届くのが早かった。9日の夜に注文して3日もかかってない)。「気まぐれコンセプト」は4コマ漫画だが、これは長くて9ページある。白クマ広告社の社員ヒライが1990年に行って、大蔵省の芹沢局長の「不動産融資の総量規制」発表をやめさせようとする。

「気まぐれコンセプト クロニクル」

「気まぐれコンセプト クロニクル」

タイムマシンは洗濯機ではなく、超高速エレベーターになっている。映画を見たとき、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に似ているなと思ったのだが、この漫画にもジゴワットという言葉が出てくる。この漫画はホントに原案もいいところで、1990年に行ったヒライが無名時代の飯島直子や松嶋菜々子のナンパでうろうろする場面が中心だったりする。結局、芹沢局長を2004年に連れてきてしまってバブル崩壊はないことになる(2004年発表の漫画なのである)。

バブルの恩恵を受けたのは一部の大企業が中心だったように思う。都会が地上げのブームのころ、地方では「こちらにも地上げってくるんですかねえ」という話をしていた。本当に地価が上がったのはそれから2年ほどしてから。それもシャッター通りを増やしただけで終わったように思う。

庶民としてはバブルそのものよりもバブル退治の高金利時代の方がうれしかった。今はなき、山一証券の公社債投信の利率(配当)は高くて、住宅建設資金のため貯金をせっせとしていた我が家は助かった。なんせ、毎月積み立てていくと、2年目から月に4000円近い利子が入ってきていたのだから、今では考えられない高利率だったのだ。

映画はあっちの日記に詳しい感想を書くつもりだが、アイデアが足りない。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を参考にするのなら、もっともっと伏線が必要と思う。馬場康夫監督としてはバブル時代を揶揄したシチュエーションコメディにするつもりだったのだろうから、時間テーマSFの要素が少ないのだろうが、それでもこの設定なら、たくさんのエピソードを詰め込んでほしくなってくるのである。はたと膝を打つシーンが欲しい。まあ、それでも一緒に行った家内と子供は面白がっていた。

「DEATH NOTE」

「デスノート」

「デスノート」

昨日4巻まで読み、きょう残りの11巻までを買った。最終の12巻は4日発売。現在読み終えたのは9巻までだが、一番驚いたのは7巻の展開。そうか、そこまで考えていたなら大したものだと感心した。

映画は4巻の途中までの話なので、そこまでは映画との違いを感じながら面白く読んだ。5巻、6巻で少しボルテージが落ちたかと思ったら、衝撃の7巻が待っていた。物語の完成度を考えれば、この7巻で(結末を変えて)終わっていても良かったような気がする。人気の連載だけになかなかやめられなかったのだろう。Lの後継者が出てくる展開は無理に話をつないだ感じが拭いきれない。

気になるのは映画の後編がどこまで描くかということ。とても12巻までは無理だろう。第3のキラを出さずに第1、第2のキラ対Lの対決で終わるのではないか。映画の後味を考えれば、キラもLも両方死ぬ結末を僕なら考える。前編で原作にはないクライマックスを用意した金子修介だから、映画の結末も原作とは変えてくるはずだ。

で、12巻である。仕事中に読むわけにはいかないので、仕事が終わってから読む。ふむ。最後のトリックは小ネタだなあ。物語も落ち着くところに落ち着いて終わった印象だ。全12巻を見渡すと、小さなトリックを積み重ねた中に7巻の大きなトリックがある感じ。やはりSFやファンタジーではなくて、ミステリだと思う。で、ミステリとしてはトリック偏重の部分があって、そこが少し減点対象なのだが、キャラクターの面白さで持っていると思う。