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「心に響く5つの小さな物語」

「心に響く5つの小さな物語」

「心に響く5つの小さな物語」

知人がTwitterで褒めていたので興味を持ち、amazonのレビューで全員が5つ星を付けていたので読んでみた。あとがきを含めて77ページ。文字が大きく、行間も広い。3行しかないページもあって、10分足らずで読み終わる本である。残念なことに僕の心にはあまり響かなかった。響くか響かないかは人それぞれだから、このタイトルに怒りはしないのだけれど、長い長い物語をいつまでも読んでいたい本好きな人にはお勧めしない。物足りないことこの上ないのである。読書の楽しみとは別のところで成立している本なのだと思う。

人間学を学ぶ月刊誌「致知」に連載されている「小さな人生論」の中から反響の大きかった5編を収録してある。第一話「夢を実現する」はイチローが小学6年の時に書いた作文を引用し、それを解説したもの。プロ野球選手になるために365日中360日を練習にあてているというイチローの作文自体は確かに大したものだが、解説は屋上屋を重ねるようなもので余計だと思う。

このほか、結核にかかった母親が鬼のような存在に変貌する「喜怒哀楽の人間学」、重度脳性マヒの少年が「ごめんなさいね おかあさん」と綴る詩を紹介した「人生のテーマ」などが収録されている。それぞれに良い話だが、物足りない気分はどうしても消えない。それぞれの題材からもっと長く感動的な話に仕立て上げることも可能なのではないかと思う。この本の作りは例えば、昨年、深い感銘を受けた藤原新也「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」に比べると、題材の深化のさせ方が足りないのだ。

こういう本の存在を否定はしない。忙しい人にも読める分量、小学生にも読める人生論の本は必要だろう。かといって、やっぱり、本好きな人にはお勧めしない。5編ではなく、50編ぐらいあれば、話は違ったのかもしれない。挿絵は片岡鶴太郎が描いている。著者の藤尾秀昭は致知出版社社長。

Wikipediaによれば、「致知」は「一般書店での販売はしておらず、読者に直接届ける定期購読誌」で、主な読者は「稲盛和夫(京セラ名誉会長)、牛尾治朗(ウシオ電機会長)、北尾吉孝(SBIホールディングスCEO)、鍵山秀三郎(イエローハット相談役)など」だそうだ。

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「ハリウッドではみんな日本人のマネをしている」

「ハリウッドではみんな日本人のマネをしている」

「ハリウッドではみんな日本人のマネをしている」

著者のマックス桐島さんはハリウッド映画のプロデューサーで宮崎県在住。仕事で以前知り合ったので、書店で著者名を見ただけで買った。ハリウッド映画は近年、「仄暗い水の底から」「シャル・ウィ・ダンス」「鉄腕アトム」など日本映画のリメイクや「呪怨」の清水崇など監督の進出が目立ってきたが、映画に限らず、仕事や生活の仕方にも日本文化の影響が出ているという実例を豊富に挙げて説明している。長年、アメリカに住んだ著者でなければ書けない本で、面白く読んだ。

象徴的に取り上げているのはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での日本の連覇。米国内ではあまり関心がないと言われてきたが、ハリウッドではWBCへの注目が高かったのだという。

WBC連覇によって、日本人選手の優秀さだけではなく、日本野球のコンセプトそのものが賞賛されたように、これからはハリウッドもコンテンツを買うだけではなくなるだろう。
コンテンツ以上にその根っこにあるコンセプトそのものを吸収する-。そんな時期に来ているのではないか。いわばハリウッドの「日本化」だ。その流れは、すでにかなり大きなものになっている。

そこから取り上げられている実例はハリウッドでの日本人スタッフの優秀さから始まって、エンタメやアフター5の飲みニケーション、喫茶店、デパ地下、お土産、土足厳禁、自動販売機、温水洗浄式便座、武道、謙譲の美徳など文化、ライフスタイル、精神などのさまざまなものに及ぶ。著者の知り合いの実例もあるからすべてが広範囲とは言えないにしても、これほど日本文化が評価されていることにはやはり驚く。

日本人としては日本文化の利点が理解されて嬉しい限りだが、ちょっとひいき目に見ている部分もあるだろう。文化が伝わる際にはその国の実情に合わせて伝わることが多いからだ。タイトルにはマネとあるが、良いものを積極的に取り入れることはマネではなく、さらに良くしたいという思いがあるからだと思う。ハリウッドが世界最大の夢の生産基地であることは今も変わらないし、さらに面白いものを作ろうとして日本に限らずさまざまな国の映画を取り入れるのは企画の貧困さだけからきているものではないだろう。

それに文化の吸収は日本が得意としてきたもの。アメリカへの日本の影響よりも日本へのアメリカの影響の方が今でもずっと大きいだろう。アメリカが日本文化やライフスタイルに興味を示していることは相互理解が深まることでもあるから悪いことではないけれど、今、日本やアメリカが相互理解に努めた方がいいのはイスラム圏の国々ではないかとも思う。

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「しがみつかない生き方」

「しがみつかない生き方」

「しがみつかない生き方」

オリコンスタイルの「2009年年間本ランキング」で総合13位、新書では2位に入っている。38万7797部売れたのだそうだ。内容は軽い読み物、エッセイという感じだが、精神科医の立場・経験から世間一般の考え方に異議を呈し、一つの価値観に縛られない生き方を求める視点は面白い。欲を言えば、もう少し掘り下げた内容、示唆が欲しいところだ。内容が分かりやすいので売れているのだろうか。著者の香山リカは今年はこの1冊だけだったが、昨年は9冊、一昨年は6冊と著書の刊行ペースが凄い。

サブタイトルは「『普通の幸せ』を手に入れる10のルール」。そのルールが10章にわたって書かれている。目次を見れば、この本の内容は分かる。第1章「恋愛にすべてを捧げない」第2章「自慢・自己PRをしない」第3章「すぐに白黒つけない」第4章「老・病・死で落ち込まない」第5章「すぐに水に流さない」第6章「仕事に夢を求めない」第7章「子どもにしがみつかない」第8章「お金にしがみつかない」第9章「生まれた意味を問わない」第10章「<勝間和代>を目指さない」。

第1章では演劇にのめり込み、エネルギーに満ちた女性がいいかげんな恋人を持ったことで精神的な病気になっていったのを例に挙げている。メールを出しても返事をくれない、親に紹介したいと言うと、「冗談じゃない」と言う男。彼女はこれによって「食事がまったく喉を通らず、朝起きれない」「こんな毎日ならもう消えた方がいいかも」と言うようになる。恋愛がうまくいかないことで、自信を喪失していく女性は「運やタイミング、賭けの要素も大きい恋愛のような経験があまりなく、『努力すればした分だけの成果、評価が得られる』という勉強や仕事の世界にどっぷり浸かっていた人」に多いのだそうだ。

著者のアドバイスは極めて当たり前のことで、「恋愛でつまづいても、すぐに『すべては無意味』と思わない。『私は寂しい』と決めつけない」ということである。著者も指摘しているが、テレビや雑誌で毎日おびただしい量の恋愛ものに触れていると、「恋愛がすべて」と思ってしまう女性が生まれることになるのだろう。

第10章の「<勝間和代>を目指さない」は最近、新聞や雑誌で取り上げられている。「競争社会の成功者」であるアナリストの勝間和代の著書(ここでは主に「断る力」)に疑義を呈し、勝間和代のように殺到する仕事の依頼を断る力よりも仕事の依頼がなく「耐える力」を必要としている人が多いという指摘はもっともだ。すべての人が勝間和代の本を読んで成功者になれるわけがない。なれない人の方が圧倒的に多いだろう。

病院での経験から私が気づいたように、人生が思い通りに展開していない人の多くは努力が足りないわけではなくて病気になったり勤めた会社が倒産したり、という“不運な人”なのだ。たとえ、努力不足が挫折や失敗の原因であったとしても、丹念にその人生を振り返ると、そもそも家庭環境などに恵まれず、努力しようにもできる環境になかった、という場合が多い。そして、依頼殺到の人気者の側にいるか、誰からも相手にされない絶望や孤独の側にいるかは、本当に“紙一重”だと私は思う。

努力すれば夢はかなう場合もあるけれど、どんなに努力しても夢を実現できないケースもある。アメリカ映画によくあるアメリカン・ドリームにしても、ごく一部の成功の事例が普遍化することはあり得ないのだ。競争社会においてそういう夢を実現するケースを夢として持つことも必要だけれど、現実は厳しい。著者のスタンスは成功者になれなかった人の立場にあり、その方が僕には好ましいと思える。

勝間和代はTwitterで「ちなみに私は、@kohmi(広瀬香美)とも会話になりませんが、香山リカさんとも会話がすれ違って、困ります」とつぶやいていた。当然だろうなと思う。

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「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」

これは宝物のような輝きを持つ本である。作者の藤原新也が「長い人生の中で出会った出来事や普通の人々の物語」で、14編が収められている。このうち13編は東京メトロの駅に置かれるフリーマガジン「メトロミニッツ」に連載したもの。雑誌の方針が「ジャスト一駅間で読める」トピックなので、それほど長い話はないが、どれもこれも心にしみる。

人と人とのふれあい、感情の行き違い、別れ、喪失感、苦悩、後悔、悲しみ、喜びがこの本には詰まっている。藤原新也は出会った無名の人々のそうした思いをすくい上げ、見事な作品に結晶させた。すべて実話なのか、フィクションが混ざっているのか分からないが、作者が記事と書いている以上、完全なフィクションはないのだろう。手法としてはボブ・グリーンやピート・ハミルなどアメリカのコラムニストの作品を彷彿させる書き方だが、それらを超えている。深い洞察力と観察力、優れた文体があって初めてこうした作品は成立するのだ。収録作品は足かけ6年にわたる連載の71編の中から選んだそうだ。ほかの作品もすべて読みたくなる。個人的には今年今までに読んだ本の中で1、2を争う傑作。

連載中に読者の反響を呼んだという「カハタレバナ」は別れた妻に思いを馳せる男の話。カハタレバナとは藤原新也の造語で漢字を当てるとすれば、彼誰花となるだろうか。墓に誰が供えたか分からない花という意味である。妻の美和子と別れて3年後、島野は静岡県にある母親の墓前に山桜が供えられているのを見つける。供えたのは寺の人ではなかった。島野は供えたのは美和子ではないかとふと思う。美和子は島野の母親を敬愛していた。その年の秋の彼岸には真っ赤な鶏頭が供えられていた。それから2年間、春と秋の彼岸に必ずカハタレバナがあった。島野は美和子に会いたいという思いが募るが、罪の意識がそれをはばからせる。

お前には男がいるのだろうと、島野は美和子をののしったことがある。離婚の話し合いの時、二人の子供は島野のもとではなく美和子のもとで暮らすことを選んだ。潔癖な美和子は腐れ縁を残したくないのか、わずかばかりの財産分与の取得以外は養育費を要求しなかった。
早くから両親と生き別れて叔父のもとで育てられた美和子には実家と言えるものがない。帰るあてもなく自分に養育費を要求することなく二人の子供を引き取るということは男がいるに違いない。肉体的にも精神的にも追い詰められていた島野はそんな妄想をしてしまった。

しかし、3年後、カハタレバナは供えられなくなった。なぜか、ということを解き明かしながら物語は深い余韻を残して終わる。

冒頭に収められた「尾瀬に死す」は優れたミステリのような話。ガンで余命4カ月を宣告された妻が夫に「尾瀬に行きたい」と言う。尾瀬は2人の思い出の地だった。休み休みしながら、尾瀬に着いた夫が歩道脇にあったナメコを取っているうちに妻は死んでしまう。通信手段はなく、夫は妻の死体を背負い、しっかりと体にゆわえて山小屋まで歩く。警察は司法解剖を要求したが、夫は拒否する。これが心証を悪くしたこともあって、妻の首に残っていた外傷を理由に夫は殺人容疑で逮捕されてしまう。妻の首に巻いた紐は頭を固定させるためのものだった。夫は冤罪裁判を最高裁まで争うことになる。最高裁の判決前に夫はもう一度尾瀬を訪ねる。妻の線香をあげ、目を瞑って拝んだときに何かを訴えかけるような妻の面影を見る。

このほか、母親との同居が離婚のきっかけになった元妻を通勤電車の車窓から偶然見かける「車窓の向こうの人生」、美しいモデルと雨の中の撮影で一瞬心を通わせる「あじさいのころ」なども素晴らしい。読み終わって溜息をつきたくなるような作品ばかりだった。

藤原新也はあとがきにこう書いている。

あらためて読み返してみるとそこには、人間の一生はたくさんの哀しみや苦しみに彩られながらも、その哀しみや苦しみの彩りによってさえ人間は救われ癒されるのだという、私の生きることへの想いや信念がおのずと滲み出ているように思う。
哀しみもまた豊かさなのである。
なぜならそこにはみずからの心を犠牲にした他者への限りない想いが存在するからだ。

人は傷つけ合って生きているけれども、その悲しみは悲しみだけではないのだ。

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「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは何か? 美意識過剰スパイラル」

「美人とは顔の造作+他人が勝手に読み取る内面情報」と書いてあるのにすごく納得。常々思っていたことだからだ。美人と思う芸能人、ブスと思う芸能人というアンケートで、黒木瞳が美人にもブスのリストにも入っていたというのにも納得。黒木瞳の顔かたちは整っているけれども、僕は女性としての魅力は一切感じない。黒木瞳から受ける内面情報が僕の嫌いなタイプであることを示しているからだ。

岡田准一と共演した「東京タワー」なんてその最たるものだった。この人、「自分は美人よ」という意識がふつふつと全身から発散されていて、それがどうも僕には合わない。もちろん、他人が受け取る内面情報が正しいとは限らないから、ちょっとしたことで嫌いから好きに変わることもあり得る。つまり人がある人を美人かどうかを判断するということはその人を好きかどうかということであり、その人の内面も判断基準に大いに関係しているのだ。

クスクス笑いながら、いろんな指摘に納得できて、とても面白い本だ。女性は必読。目からうろこが落ちるほどではないが、男が読んでももちろん面白い。著者の中村うさぎは美容整形をしたが、その理由は「顔について、これ以上、他人からあれこれ言われたくない」ということであり、男にもてるためではなく、あくまでも自分のためという。自立した女であるバービー人形のようなビジュアルが理想なのだそうだ。

くらたま(倉田真由美)は、「女の価値は男が決定する」と思っている。しかし、私はそうは考えない。女の価値を決定するのは、同性の女たちなのである。そして、バービーは「男の欲情のシンボル」ではなく「女の欲望のシンボル」であるがゆえに、女たちからは熱い羨望の眼差しを注がれ、彼女たちのボディイメージの理想モデルとなりうるのだ。
言い換えれば、バービーの肉体が意味しているのは「セックス」ではなく、「ファッション」なのである。

そして、整形をした結果、「自分の顔にまつわる面倒な自意識を手放した」。

ブスなのか美人なのか、と、他人の評価に揺れ動くこともなくなった。ブスか美人かは他人が判断することかもしれないが、好みの顔かどうかは私が判断することだ、と、自分で顔を選択した今なら、堂々と言えるからである。
自意識の安定……結局、我々が求めるのは、それではないか。他人の評価は安定しないし、信用できない。しかし、自分の好みは、自分で決めればいいんだもの。

さて、それでは内面情報はどうなのか。美人が発する内面情報を著者は「美人オーラ」と言う。美人オーラの三大要素は気品、知性、優しさ。お薦めは優しさだそうだ。気品や知性は本物の中身がある程度備わっていないと、メッキが剥げた時にかえってヤバイ。付け焼き刃の『気品』や『知性』は、あっという間に見透かされて、「何よ、上品ぶっちゃって」「頭いいふりしてるけど、じつはバカなんじゃん?」ということになり、美人オーラのつもりが強力なブスオーラになってしまうからだ。

僕も美人は好きだが、嫌いな美形の女性というのも数多く存在し、それがつまりはその人が発散する内面情報によるものなのだ。この本を読むと、女性が顔の美醜という基準に振り回されていることがよく分かる。それを形成しているのは根本的には連綿と続いてきた男社会なのではないかと思う。

著者の美人論のほかに、巻末には対談が二つ付いている。その中の一つ、もてない男・小谷野敦との対談で、「実家が金持ちであったらモテただろうと思いますけど」という発言に対して中村うさぎが「ううーん、どうしてそっちに行くかな」と言っているのはちょっと違うと思った。

女性が美人であることと、男が金持ちであることは同じという指摘を以前、小林信彦の本で読んだ。それはハワード・ヒューズの言葉だったか、映画で描いていることだったか忘れたが、そういうことなのである。男の魅力に経済力が関係ないとは言わせない。おとぎ話でお姫様が結ばれるのはハンサムである上に裕福そうな「白馬に乗った王子さま」であり、ハンサムではあるけれど金はない「白馬に乗ったホームレス」では決してない。

すべての経済力のある男がもてるわけではないし、経済力のない男がもてないわけでもないが、それは美人でももてない女性や美人じゃないのにもてる女性がいるのと同じこと。男と女では評価の基準が違うのだ。

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