ノンフィクション」カテゴリーアーカイブ

「荒野へ」

「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作。これは映画よりも感動的なノンフィクションである。著者は登山家で文筆家のジョン・クラカワー。クラカワーはアウトドア雑誌にアラスカで餓死したクリス・マッカンドレスについて9000語の記事を書いた後、マッカンドレスと自分に共通点が多いことが気になり、さらに詳細にその足跡を調べ始める。マッカンドレスが交流した多くの人たちや死体の発見者にインタビューし、アラスカの現場まで出かける。そして「向こう見ずな愚か者」「変わり者」「傲慢と愚行によって命を落としたナルシスト」という非難を退けるマッカンドレスの真の姿を明らかにする。

この本が感動的なのはマッカンドレスの生き方が感動的だからではない。著者がマッカンドレスの生き方を理解し、共感し、なぜ若者が荒野を、冒険を目指すのかを自分の体験や多くの先例を出して説明しているからだ。何よりも著者がマッカンドレスに深く寄り添っているからだ。ショーン・ペンがこの原作に感動し、映画化しようと思ったのもそこがあるからだろう。しかし、映画にはクラカワーの視点を取り入れようがなかった。いや少しは入っているだろうが、十分ではなかった。マッカンドレスの生き方とさまざな人たちとの交流は分かるけれども、荒野を目指す若者に対して、観客に共感を十分持たせるには至っていない。

原作の前半で最も感動的なのは映画でハル・ホルブルックが演じた老人との交流の場面(第6章)だ。老人は雑誌の記事のことを知り、雑誌を1冊譲ってくれと雑誌社に手紙を出してくる。その手紙を読んだ著者は老人にインタビューに出かける。

マッカンドレスは放浪の旅の途中で多くの人々に忘れられない印象をあたえていた。その大半は、彼といっしょに過ごしたのがわずか数日、長くても一、二週間にすぎなかった。しかし、男性にせよ、女性にせよ、ロナルド・フランツほど深く心を動かされたものは、誰もいない。一九九二年一月にふたりの進んでいた道が交差したとき、彼は八十歳だった。

老人とマッカンドレスの数週間に及ぶ交流は映画に描かれた通りだ。若い頃、酔っぱらい運転の車にはねられて妻子を亡くした老人はその後さまざまな若者の援助をする。年を取ってそれを辞め、孤独な生活を送っていた頃にマッカンドレスと知り合い、再び父性が頭をもたげ、援助し、養子にならないかと誘う。マッカンドレスに影響を受けた老人はマッカンドレスと別れた後に助言に従って、キャンプを体験するようになる。そんな時、ヒッチハイクをしていた若者2人を車に乗せ、マッカンドレスの死を知らされる。

「アレックスがアラスカへ出発したときに」フランツはそのときのことをよく覚えていた。「私は祈ったんだ。アレックスの肩にかけた手を放さないでください、と神に願いごとをしたわけさ。あれは特別な若者だって神に言ったんだよ。だけど、神はアレックスを死なせてしまった。それで、なにが起こったか、私は12月26日に知り、神を捨てた。教会員であるのをやめ、無神論者になった。アレックスのような若者の身に恐ろしいことをもたらす神を信じないことに決めたんだ」

後半はマッカンドレス家の事情となぜマッカンドレスが荒野へ出かけたのか、どうやって死んだのかを詳細に描く。若者が荒野を目指す理由について、著者は自分が22歳のころに行った単独登山のことを2章にわたって書く。そして死因について、明らかにする。映画では食用の植物と毒のある植物を間違って食べたからと説明されたが、原作では違う。確かに最初の記事を書いた際、著者は毒のある植物を食べたためとしていたが、その後の調査で食用の植物にもサヤの部分に毒があることが分かる。サヤにはアルカイドが含まれていた。この毒が体に入ると、「身体は食べたものを役に立つエネルギーの熱源に変えることができなくなるのだ。スウェインソニンを大量に摂取すると、たとえどんなに食べ物を胃に入れても必ず餓死するのである」。

餓死の説明は同じであっても、映画はなぜこの部分を改変したのだろう。このサヤの部分の毒に関して書いた書物はマッカンドレスが死んだ当時にはなかった。映画ではマッカンドレスが植物図鑑を見て自分が間違った植物を食べてしまったと理解する場面があるけれども、あれではマッカンドレスはやっぱり愚かな青年になってしまうのではないか。原作が出たのは1996年。その後、やっぱり間違った植物を食べたという結論になったことも考えられるが、可能性は薄いように思う。映画の描き方として、主人公が知らない植物の実態について説明しようがなかったためではないかと思われる。

あと、なぜあのバスがアラスカの荒野にあったのか、農場主のウェインが逮捕されたのはなぜかなど、映画では分からない細かい部分もよく分かった。映画にあまり興味を持てなかった人もこの原作には共感できると思う。

最後になぜ、青年は荒野を目指すのか、その重要な部分を引用しておく。エヴェレット・ルースとは1930年代にマッカンドレスと同様に荒野を愛し、そこで生き、行方不明となった若者である。

大人の月並みな関心事しか頭にない私たちにとって、若さの情熱さと憧れにはげしく翻弄されたころのことを思い出すのがいかに困難かをはっきり示している。エヴェレット・ルースの父親が、二十歳の息子が荒れ地で姿を消した何年かあとで、感慨をこめて言ったように、「年配の者には、若い者の奔放な情熱は分からない。誰にもエヴェレットの気持ちはよく理解できないと思う」

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「散るぞ悲しき」

サブタイトルは「硫黄島総指揮官・栗林忠道」。原田真人監督の日記に「素晴らしい。必読」とあったので読む。5日間で終わると米軍が考えていた硫黄島の攻防戦を、本土への空襲を防ぎたい一心で36日間にわたって持ちこたえ、最後は攻撃の先頭に立って戦死した栗林中将を描いたノンフィクション。大本営から見捨てられた硫黄島で、意味のないバンザイ突撃を否定し、日本軍の伝統だった水際での米軍上陸阻止作戦を否定し、地下壕を築いて徹底抗戦したその姿を浮き彫りにする。

日本軍の指揮官は突撃には参加せず、玉砕の際には割腹自殺するのが普通だったという。栗林は唯一、突撃した指揮官なのである。幹部の豪華な食事を拒否して一般の兵士と同じものを食べ、部下の健康に気を配り、水の乏しい硫黄島で率先して節水に努めたという人となりもいいが、何よりも多く引用される家族への手紙が胸を打つ。

「最後に子供達に申しますが、よく母の言いつけを守り、父なき後、母を中心によく母を助け、相はげまして元気に暮して行くように。特に太郎は生れかわったように強い逞しい青年となって母や妹達から信頼されるようになることを、ひとえに祈ります」

栗林は若い頃にアメリカに留学し、アメリカの国力をよく知っていた。だから戦争には元々反対だったそうだ。最後の電報には無謀な戦争を始めた上層部批判と受け取れる内容がある。知力を尽くした合理的な戦い方はアメリカを苦しめ、それゆえアメリカでの栗林の評価は高いという。

タイトルの「散るぞ悲しき」は「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」という栗林の辞世の句に基づく。ノンフィクションとしては241ページではやや短く感じる。硫黄島の地獄の戦闘をさらに詳細に描き、栗林の硫黄島に至るまでの生い立ちをもっと詳細に描いても良かったと思う。戦後60年を過ぎ、戦場を知る関係者は次々に亡くなっており、こういうノンフィクションの取材は今がぎりぎりの所にあるような気がする。

日本兵20,129人、米兵6,821人が戦死した硫黄島の激戦はクリント・イーストウッドが2本の映画化を進めている。アメリカ側と日本側の双方から描いた映画をそれぞれ作るという。アメリカ側の視点に基づくのは「硫黄島の星条旗」(Flags of Our Fathers)。摺鉢山に星条旗を立てた米軍兵士の息子(この本にも登場するジェームズ・ブラッドリー)が書いたノンフィクションの映画化である。原田監督によると、日本側視点の映画は栗林中将を描くらしいということだが、さてどうなるか。

「職業欄はエスパー」

「A」「A2」の監督森達也が書いたノンフィクション。スプーン曲げの清田益章、宇宙人に400回会ったという秋山真人、ダウジングの堤裕司の3人を取り上げている。フジテレビで同名のドキュメンタリー(1998年)が放映されたらしいが、僕は未見。このノンフィクションはその番組を作る過程とその後を描く。森監督は超能力について肯定も否定もしない(できない)というスタンス。ただ、3人と日常的に交流しているのでその人間性へのシンパシーはある。清田益章の両親(寿司屋をやっている)が登場する場面などは宮部みゆきの小説のような雰囲気である。

このノンフィクションの中でも語られる清田益章の超能力がトリックだということを暴いた16年前の番組は僕も見ている(トリックを使ったのは番組のスタッフに追い詰められたからだという)。あれで清田は終わったと思っている人が多いのではないか。しかし、その後も清田はスプーンを曲げ続けているのだった。

常人にはああいうスプーンの曲げ方や折り方はできない、という理由から、このノンフィクションに登場する人たち(石田純一や前田日明も出てくる)は清田を信じているようだが、清田益章はフツーの人ではなく、何十年もスプーン曲げをやっているベテランなわけですからね。仮に超能力でスプーンを曲げているのだとしても、この能力は(これ以上、上には行かない)水平線上の超能力とでも言うしかない。スプーン曲げという何の役にも立たない超能力というのは悲しいものがある。

それにしても否定派の最右翼である大槻義彦が取材にも応じないのには驚く(他人のネタにはされたくないそうだ)。きっと単なるタレントなのだろう。超能力を偽物と言いながら、自分も偽物なのだった。

「聖の青春」

初めて買った「将棋世界」に村山聖の写真が掲載されていた。頬がふっくらした童顔で恐らくこれは小学生か中学生で速く昇級したから掲載されたのだろうと思った。しかし、村山は当時23歳だった。「聖の青春」(講談社、単行本)の135ページにも掲載されているこの写真は、師匠の森信雄がB級2組への昇級祝いに撮影したものだった。村山聖はその後、A級にまで昇級し、「名人になりたい」との志半ばで平成10年8月8日に亡くなる。29歳。幼いころから難病の腎ネフローゼと闘い、最後は膀胱ガンで倒れた。本書は「将棋世界」編集長の大崎善生が綴った村山の鮮烈な“魂の軌跡”である。将棋一筋の村山の生き方、周囲の人々(特に森信雄)の温かい支援に胸を熱くせずにはいられない。将棋に興味のない人にも必読の1冊と思う。

村山の将棋界へのデビューは順調なものではなかった。実力は十分あったが、将棋界の古いしきたりが阻んだ。故郷広島の将棋教室を通じて奨励会への入会を図るが、「まだ早い。もう少し実力を付けてから」と言われ、別のルートで奨励会試験を受ける。その時の師匠が4段になったばかりの森信雄。森は一目会った途端、村山を弟子にしようと決意する。試験は優秀な成績だったが、思わぬ事態が起こる。関西では当時一流の棋士がクレームを付けてきたのだ。村山の父親が最初に相談を持ちかけた将棋教室の主宰者がこの一流棋士に弟子入りを頼み、既に許可されていたというのだ。自分の弟子にしたはずの子どもが他の門下から試験を受けた。これは承伏しかねる、とこの棋士は怒り、奨励会入会に待ったをかけた。森はこの棋士に電話で掛け合うが、こう脅される。

「あきらめろ。これ以上このことで俺に何か言ったら、お前を斬るぞ」
このひとことで森の腹は決まった。大人たちの理屈を一方的に押しつけ、子どもの未来を次にする、その論理が許せなかった。斬るならば、勝手に斬れと思った。
斬られようが、将棋界を追放されようが自分はどうなったっていい。もし、村山君が将棋界に入れないようなことになれば、そのときは自分も将棋をやめよう、そう決心したのだ。
…(中略)…
村山君はわしの弟子や。はじめてのわしの弟子や。守ってやらな…。

村山はこのことで奨励会入会を1年待たされる。その間、森のもとに住み込み、修業をすることになる。2人とも風呂嫌いで顔も洗わなければ歯も磨かない共通点があった。これに関して作者が真冬の公園で見た2人のエピソードが泣かせる。

森が飛ぶように、青年に近づいていった。
「飯、ちゃんと食うとるか? 風呂入らなあかんで。爪と髪切りや、歯も時々磨き」
機関銃のような師匠の命令が次々と飛んだ。
髪も髭も伸び放題、風呂は入らん、歯もめったに磨かない師匠は「手出し」と次の命令を下す。青年はおずおずと森に向けて手を差し伸べた。その手を森はやさしくさすりはじめた。そして「まあまあやなあ」と言った。すると、青年は何も言わずにもう一方の手を差し出すのだった。
大阪の凍りつくような、真冬の公園で私は息をのむような気持ちでその光景を見ていた。それは人間のというよりもむしろ犬の親子のような愛情の交換だった。理屈も教養も、無駄なものは何もない、純粋で無垢な愛情そのものの姿を見ているようだった。
…(中略)…
空には降り注ぐような満天の星が輝いていた。つきさすような冷え切った空気が、星を磨いているようだった。それを眺めるふりをしながら、私は涙をこらえていた。なぜだろう、そんな気持ちになったのは生まれてはじめてのことだった。

この光景が作者にこの本を書かせる原動力の一つになったと思われる。村山と森の交流の深さ、その一つ一つのエピソードは胸を打つ。村山はいい師匠に恵まれたなと思う。

むろん、本書の主題は村山の凄まじい生き方そのものにある。腎ネフローゼは一度高熱を発すると、身動き一つできない事態に陥る。4畳半のアパートで村山は1週間動けないこともあった。入退院を繰り返し、順位戦を不戦敗せざるを得ないこともあった。それでも健康な他の棋士に負けず、昇級していく。終盤に強く、“終盤は村山に聞け”とまで言われるようになる。病気がネフローゼだけであったら、村山は悲願の名人位を手に入れていたかもしれない。しかし、ガンにかかってしまう。意識朦朧とした村山が最後に口にした言葉は「2七銀」だったという。最近、これほど熱い感動を与える書物を僕はほかに知らない。「新潮学芸賞受賞」とオビにあるが、そんなものがなくとも手に取るべき1冊。繰り返すが、絶対の必読。

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