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「狗神」

300ページ余りなのでスラスラ読める。「徹底的に改変」というのは「SFオンライン」に書いてあったことだが、それはクライマックスに関してのことのようだ。物語の設定と展開は母親の扱いなど細部に違う部分はあるが、映画は原作をほぼ忠実になぞっている。クライマックスは確かに映画とは異なる。しかし、この程度のクライマックスならば、映画のように描いても別に悪くはない。原作には鵺が登場するが、それが大きな活躍をするわけでもない。しかし、なぜ登場したかという理由は重要な部分ではある。

「狗神」は坂東眞砂子の初期の作品に当たり、直木賞を受賞した「山妣(やまはは)」のような重厚な描写には欠けている。主人公・美希の置かれた境遇など映画よりは書き込んであるけれど、全体として比較すると、この原作をあそこまで豊かに映画化した原田真人の手腕は褒められていいだろう。となると、問題はクライマックスの描き方にあったということになる。あそこさえもっと迫力たっぷりに描いておけば、映画は十分に傑作と呼べるものになっていたと思う。話が収斂していくものとしては少し弱いのである。狗神筋の一族のカタストロフはもっと凄惨に描くべきだったのではないか。

「ローズマリーの息子」

ハヤカワ文庫に入ったので読んでみた。「ローズマリーの赤ちゃん」の30年ぶりの続編。2年前に単行本が出た際、かなりの悪評を読んでいたので、予想よりは面白かった。問題はラストの処理でしょう。ここで賛否両論あるのは分かる。気に入らないのならその直前までの話と思えばいい。ま、それ以前に小説としての膨らみが足りないのが決定的で、アイラ・レヴィンはもともと長大な小説を書く人ではないが、このプロットだけのような作りでは物足りない。

話はローズマリーが27年ぶりに昏睡から覚める場面で始まる。息子アンディは世界的な指導者になっており、1999年12月31日に世界中の人々が一斉にロウソクに灯をともし、ミレニアムを迎えようというプロジェクトを進めている。もちろん、悪魔とローズマリーとの間に出来た子どもであるから、何か裏にあるのは読者には承知のことで、それがどう描かれるかが焦点となる。

アイラ・レヴィンは24歳で「死の接吻」でデビューし、2作目として14年後に「ローズマリーの赤ちゃん」を書いた。その天才作家としてのキャリアはここでほぼ終わった。後に続く作品は才能の出涸らしみたいなものである。ただしこの2作(特に後者)が永遠に残る傑作であることは疑問の余地がない。

「ローズマリーの赤ちゃん」を読んだのは高校生のころだが、後半の展開に読んでいて息苦しくなったのを覚えている。ロマン・ポランスキー監督で映画化もされたが、映画自体は良くできていても、とてもこの傑作に及ぶものではなかった。続編は映画プロデューサーの要請で書かれたものらしい。天才も年を取れば、ただの人になるという見本のような出来には違いないし、時代設定からして、もはや映画化も無理のような気がする。昨年たくさん出たミレニアムもの(Y2Kとか)の1作ということになるだろう。ラストに目をつぶれば、暇つぶしにはなると思う。

「バースデイ」

「リング」シリーズに関しては、小説の3部作こそ読んでいるものの、映画とテレビに関してはほとんどまともに見たことがない。テレビドラマはもともと見る習慣がないし、映画は昨年前半までは映画館にあまり行かない時期(?)だった。それ以上に僕は小説の「リング」シリーズをあまり評価していない。SFファンの眼で見ると、「ちょっと違うなあ」という気がするのだ。どこをどうと聞かれると困るが、細かい部分に違和感がつきまとう。だから昨年、「リング」をフィーチャーした中短編集「バースデイ」が出ても、「そこまでつき合う気はないよ」と読む気にならなかった。しかし映画「リング0 バースデイ」は面白かった。原作と比較したくなって文庫本を読んでみた。

「リング0」の原作は3編収められた「バースデイ」の中では最も長い「レモンハート」。現在47歳の遠山の回想で劇団在籍時の山村貞子が描かれる。音響効果担当の遠山は同期入団の研究生貞子に恋心を抱く。貞子は19歳。少女らしさと大人の色気を併せ持つ不思議な美人である。遠山の思いは貞子に伝わり、遠山は相思相愛になったと信じるが、貞子は言い寄ってくる演出家の重森も邪険には扱わず、遠山には貞子の真意がつかめない。ある日、音効室の中で遠山と貞子は愛を確かめ合う。その時の様子はなぜかカセットテープに録音されていた。それを遠山の同期生がスピーカーで流してしまう。そのテープは4人が聴いており、そのうちの一人、重森は次の日に死亡。残りの3人も現在までに次々に死んでいることが分かる。そして遠山自身、体の不調を感じるようになる。

要約すれば、これは幽霊になる前も山村貞子は山村貞子だった、というだけの話である。「リング」のビデオテープがここでは(まだ一般に普及していないから)カセットテープとなる。遠山と愛を確かめ合う前に、貞子はカセットデッキを指さして次のように言う。

「オープンテープよりずいぶんと小さくなって、録音も簡単そう」
「ああ実に便利だ」
「映像もそうなるのかしら。映画館にある映写フィルムじゃなく、カセットテープぐらいの小さな媒体に、いろいろな映像が記録できるようになるのかしら」

貞子はここで既にリングウイルスの繁殖を意図しているかのようだ。映画の貞子は違う。幽霊が見えてしまう貞子は劇団に所属しながら病院に通っている。主演女優の怪死など貞子の周囲では不思議な出来事が次々に起こる。貞子が意図したものではなく、これは貞子のすぐそばにいる邪悪な誰かが行っていることなのだ。貞子は超能力者ではあるけれども、その力はまだ発揮されていない。貞子が自分の力に目覚めたときには、事態はとんでもない方向に向かっているのである。世間から理解されない超能力者の悲劇。脚本の高橋洋は貞子を「キャリー」のように描くことを考えたという。原作とストーリーは全く異なり、これは脚色というよりほとんどオリジナル脚本と言っていいだろう。原作から借りているのは設定だけなのである。

原作を読んで改めて映画の良さが分かった。映画評にも書いたように、邪悪な存在=双子の妹、というアイデアは他の作品にも例があるけれど、まともに姿を見せないこの妹の描き方が極めて怖い。薬漬けにされて成長を止められたことがどんなにひねくれた存在を生み出すか想像に難くないのである。そして貞子の運命。養父から井戸に落とされた貞子は超能力者であるがために死ぬこともできず、30年近くも生き延びる。世間に対する怨念がこの間にどれほど増大するか、これまた容易に想像できる。人間が行った残酷な仕打ちが怪異となって返ってくる。「リング0」から読みとれるのはこうしたことではないか。遅すぎる認識だが、高橋洋と監督・鶴田法男の作品には今後注目していきたいと思う。