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「1Q84」

「1Q84」

「1Q84」

物語の発端は200ページを越えたあたりにある。10歳だった天吾がほかに誰もいない教室で同級生の少女・青豆に手を握られるシーン。青豆の両親は「証人会」という宗教団体にいて、青豆もそこの集団生活で育てられた。給食の時にもお祈りをしなくてはならず、クラスの中で浮いた存在。というよりも存在自体を無視されていた。ある時、天吾はクラスメートにからかわれた青豆を助ける。父親がNHKの集金人で日曜日にはいつも父親に連れられて集金に回っていた天吾には青豆の境遇がよく分かったのだ。青豆が手を握ったのは二人がともに不幸な境遇にあったことに理由があったのかもしれない。

彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣りに立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた(天吾の方が十センチばかり身長が高かった)。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。

20年後、天吾は予備校の講師をしながら作家を目指している。青豆はスポーツインストラクターをしながら、殺し屋になっている。天吾はふかえり(深田絵里子)という17歳の美少女の小説「空気さなぎ」をリライトすることになり、青豆は10代の少女に性行為を繰り返しているある宗教団体の教祖の殺害を依頼される。この2人の物語が1984年とは少し異なる世界、月が2つある1Q84年の世界で交互に語られる。それがいずれ交差していくのは目に見えており、これを天吾と青豆のラブストーリーとして読んでも少しも間違いではないだろう。

2人はまともに言葉を交わすこともなく別れたが、それ以来、青豆にとって天吾は唯一の愛する人となった。そして物語の終盤で、ある人物から天吾もまた青豆を求めていることを知らされる。

「そんなことは信じられません。彼が私のことなんか覚えているはずがない」
「いや、天吾くんは君がこの世界に存在することをちゃんと覚えているし、君を求めてもいる。そして、今に至るまで君以外の女性を愛したことは一度もない」
青豆はしばらく言葉を失っていた。そのあいだ激しい落雷は、短い間隔を置いて続いていた。

賛否両論ある小説で、物語が何も解決しないまま終わるのは不満ではあるし、パラレルワールドSFだったら、枝葉末節を省けば、1冊で終わる話ではないかとも思うのだけれど、それよりも読書する楽しみに満ちた小説だと思う。細部のエピソードや描写を読んでいて全然退屈しない。これが優れた小説の一番の美点なのではないかと僕は思う。純文学作家の作品としてはマイケル・シェイボン「ユダヤ警官同盟」などよりは、はるかに面白く読めた。その前にこれが純文学かと思う。エンタテインメント小説と言っても何らおかしくはない。

「説明されなければ分からないことは、説明されても分からない」という言葉が小説の中で何度か繰り返される。これ、物語の詳細を説明するのを省くためではないかという思いもちらりと頭をかすめるが、確かに小説や映画の面白さは説明されて分かるものではない。常々考えていることなので、なるほどなと思った。

村上春樹の小説はこれまで1冊も読んだことがなかった。僕の趣味とも興味とも関係ない作家という感じを持っていた。この小説も書店の店頭で1冊だけ残っていた上巻を見なかったら、買うことはなかっただろう。買って正解だった。村上春樹の他の本も読みたくなった。

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「きのうの神さま」

「きのうの神さま」

「きのうの神さま」

映画監督西川美和の短編集で直木賞の候補になった。映画「ディア・ドクター」製作の過程で行った僻地医療に関する取材を元にした映画のアナザー・ストーリー。収録されているのは「1983年のホタル」「ありの行列」「ノミの愛情」「ディア・ドクター」「満月の代弁者」の5つ。どれも映画監督らしい小説だと思う。

もっとも完成度が高いのは「ディア・ドクター」で、これは映画の主人公の背景を描いた内容(だと思う。未見なので断言できない→見た。現在の状況になった背景と言って良いと思う)。脚本家や監督はキャラクターの造型の過程で映画には描かれない背景を設定することがある。それが映画に深みを与えたり、俳優が演技する際の参考になるからだ。西川美和はそれを小説にしたわけだ。あとがきによれば、映画のための取材費用を出してもらう代わりにそういう約束を編集者と交わしたそうだ。

小説「ディア・ドクター」は医師を父親に持つ兄弟の物語で、弟の視点で描かれる。父親を尊敬し、父親のような医師になりたいと思っている兄は父親に対して自分の本当の姿を見せることができない。本当の兄について弟はこう思っている。「兄は本来、決して大人からほめられるような子供ではないのだ。けた外れに活発で、馬鹿げたことが大好きで、はっちゃけていて、ぼくと二人、転がり回るようにしながら育った」。そんな兄が父親の前では緊張してしまう。父親は子供に医師になってほしいとは思っていない。人の死に対して鈍感になっている自分のようにはなってほしくないからだ。

「ぼくも、医者になろうかと思う」
すると、それを聞かされた父は、顔をかすかにゆがめ、うーん、と唸るような溜息とともにばつの悪そうな笑い方をした。そして長く黙した後、「世の中にはいろんな生き方があるからな。よく考えたほうがいい」と言葉を添えた。
その時の、深い穴のあいたような兄の表情を一生忘れないと母は言った。
兄の絶望の種はほんの些細なことである。身を焦がすほど憧れた父から、一度も「お前も医者になりなさい」と言われなかったということだ。ぼくの幸運が、兄には悲運だった。

分数計算以上の計算がダメで理系音痴の兄は密かに志望していた医学部の受験をやがてあきらめ、旅行代理店に就職。その後、医療機器メーカーに入り直すが、何度も仕事を変え、遠く離れた寒村の小さな診療所で事務の仕事をするようになる。

しかし、父親は医者にならなかった兄について語る時、「いつも遠いところに吹く、澄み切った風を望むような眼」をしていた。兄の生き方を認めているのだが、それは兄には伝わらない。兄の本当の思いも父親には伝わらない。父親を太陽のように思っている兄とその兄を心配する弟の細かい心情を鮮やかに描いて、これは素晴らしい短編だ。泣かせる話である。兄の現在がどういう状況にあるかは映画を見るべきなのだろう。これは映画を補完する物語なのだ。

「ありの行列」は小さな島で3日間だけ代理の医師を務める男の話。男は都会の病院に勤め、「オートメーション的な作業の連続」の医療業務に携わっている。島に着いたその夜、老婆に往診を頼まれる。別に悪いところもなさそうな老婆の世話をしているうちに、最初に医師を志したころの青臭い自分のことを思い出す。

流れに巻き込まれて一度青臭さを棄てた自分がいまさら青臭くなるはずはなく、今日のことも、自分にとっては今後繰り返されることのない非日常であるからこそだ。これは男にとっては仕事ではなく、お遊びである。しかし擦られるままにして、ここちよさそうなため息をついている森尾セイの素直な背中は久方ぶりの男の幼い、恥ずかしいような陶酔に目を瞑ってくれていた。

流れ作業のような都会の病院よりも僻地の診療所の方にこそ医者の本来の姿がある。西川美和はそんなことを大上段に振りかぶって言っているわけではないが、そういう視点が作品の根底にある。

収録作品に共通するのはどれも映画の1シーンのような短編であること。ヒッチコックは「人生の断面よりケーキの断面」と言ったけれども、西川美和は僻地医療にかかわる人々の人生の断面を見事に生き生きと描き出している。このシーンをつなげれば映画になるし、一つのシーンを描くために物語を設定しているように思える。ジェフリー・ディーヴァーの短編のように意外な結末を目指した小説とは作り方が根本的に違う。映画監督らしいと思ったのはシーンが中心になっている小説だからだ。

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「しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか」

「しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか」

「しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか」

「私とマリオ・ジャコメッリ」と同じく、これもNHKのテレビ番組(2月に放送されたETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」)を再構成し、大幅に拡充した本。「マリオ・ジャコメッリ」同様に200ページ足らずの本である。僕はこの番組を見ていないが、大きな反響を呼んだのだそうだ。

辺見庸は脳出血とガンと脳梗塞にかかっており、恐らくガンが完治したかどうかはまだ分からない状態なのだろう。右手はよく動かず、左手で携帯電話に入力した文章をパソコンに送って書いているという。世界の機能不全について書いたこの本を読むと、自分が死の淵にいるからこういう本を書いたのではないかと思ってしまうが、それを見透かすように本書の終盤にはこうある。

「あんたは躰が悪いし、脳出血で、がんにもなっているから、自分の身体の機能不全と世界の終末というか、世界の機能不全っていうのを二重うつしに、いっしょくたにしているんじゃないか」「自分の先が短いから、世界についてもそういうんじゃないか」と人はおもうのではないかと、僕は意地悪く想像している。
でも、自分があとわずかしか生きられないから、死なばもろともで<世界もひどくなれ>とは全然思わない。それはまったく別の問題です。

しかし、死を間近に意識している人が世界の破局を意識するというのは少しも違和感がない。いや、大いにありそうなことだと思える。

本書は金融恐慌に始まって秋葉原事件や派遣切り、ホームレス、新型インフルエンザ、壊れた資本主義、戦死者に匹敵する年間3万人以上の自殺者などなど同時進行的に進む世界の破局の様相に触れている。破局の同時進行は人間的な価値観が壊れているからであり、その価値を見直す必要があるというのが一貫した主張だ。著者はこう言う。

民主主義というのははたして労働者に奉仕していたのか、それとも市場・資本・国家に奉仕していたのかというつよい疑問があります。現在のように労働者の大量解雇をくりかえし、資本がかつてなく露わに暴力化しつつある段階では、それに抗う者たちの思想性と持久力、闘争力がリアルに問われる。断末魔の資本主義は貧困の大量生産という暴力にうってでているのです。

労働組合が弱体化し、労働者は企業に都合の良い派遣やアルバイトの形となり、企業の思うとおりに何でもできる社会。いわば企業の奴隷と化した社会。不況だから人件費を抑制するのは仕方がない、とは言わせない。これは空前の好況と言われた時も同じ構造だったのだから。世界的な不況に陥って問題が表面化しただけのことなのだ。社会を覆う閉塞感の要因はこうした企業に有利な、労働者が抵抗できないシステムにある。それが人の心の荒みも生み、秋葉原事件のような事件が起きる。

辺見庸はマルクスやケインズやマクルーハンなどある意味懐かしいとさえ感じる先人の考え方を引きながら、こうした事象を検証していく。現在が資本主義のもたらす欠陥そのままの社会になっていることに慄然とせざるを得ない。このシステムを変える力はまだどこかに残っているのだろうか。そんなことを考えさせられる。

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「私とマリオ・ジャコメッリ <生>と<死>のあわいを見つめて」

「私とマリオ・ジャコメッリ」

「私とマリオ・ジャコメッリ」

マリオ・ジャコメッリはイタリアのアマチュア・カメラマンで、2000年に死去した。作品は世界的に高い評価を受けているそうだが、日本で本格的に紹介されたのは昨年3月から5月まで東京で開かれた写真展「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」による。この本は昨年5月に放送されたNHK日曜美術館の「この人が語る私の愛する写真家 辺見庸 私とマリオ・ジャコメッリ」を元にして大幅に加筆したもの。100ページ余りの薄い本だが、内容は堅い。

辺見庸は5年前に脳血管障害で生と死の間をさまよった。ジャコメッリも20代のころ、自動車レース中の事故で瀕死の重傷を負った。そうした体験はその後の作品に大きな影響を与えるという。辺見庸はジャコメッリの作品について、こう書く。

かれの映像は見る者の無意識と身体に、しばしば予想をこえるつよさで「作用」してくる。つまり、映像によって心にあるいは躰の奥に<刺青>が彫られるような不思議な感覚を覚えるのである。それは感動などというクリシエではおおいつくせはしない特別の感覚である。眠っていた記憶の繊毛たちがいっせいにさわさわと動きだし、見る者はいつしか、語ろうとして語りえない夢幻の世界への回廊を夢遊病者のようにあるいているのだ。

そしてジャコメッリの作品には異界=死が漂っていると指摘する。確かに、本書に収録されたモノクロームの写真には死の雰囲気が漂う。小さな村「スカンノ」やホスピスの人々は死と隣り合わせにいるように、あるいは死者の世界の人のように異様に写し取られている。よく白黒映画なのにカラーを感じると言う時があるけれども、ジャコメッリの作品には風景を写したものでさえ、カラーを感じない。白と黒があるのみだ。しかし、この白と黒は深い意味を感じさせる。それはとりもなおさず、死をイメージさせるからなのだろう。

英語のフォトグラフに写真という訳語を当てたのは不幸だった、と辺見庸は言う。これによって写真は真実を写し取るものという無意識の制限が生まれるからだ。合成写真もあるというジャコメッリの作品は写真による表現を追い求めたもので、ここにはやらせなどという低次元のものはない。写真で映画のようにフィクションを意図しても全然構わないのだ。

辺見庸の本を読んだのはあの傑作「もの食う人々」以来。「私とマリオ・ジャコメッリ」を買った後、書店の文庫本コーナーで立ち読みしたら、最後の従軍慰安婦の場面でやっぱり胸をかきむしられるような気分になった。以前読んだ本は倉庫の段ボール箱の中にあり、なかなか読めないので、思わず買ってしまいそうになった。

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「仮想儀礼」

「仮想儀礼」

「仮想儀礼」

上巻469ページ、下巻445ページ。この長さにもかかわらず、退屈させずに最後まで読ませる。久しぶりに篠田節子の小説を読んで思ったのはやっぱりリーダビリティーのある作家だなということだ。僕にとっての篠田節子は直木賞を受賞した「女たちのジハード」などではなく、新型日本脳炎ウイルスが猛威を振るう「夏の災厄」やホラーの「絹の変容」「神鳥 イビス」の方だったりするが、どれを取っても読みやすく、引き込まれる小説なのは同じだ。

「仮想儀礼」は金儲けのために男2人がでっちあげた新興宗教団体の繁栄と没落、カルト化を描く。プロットとしてはそれだけで、筆力のない作家が書いたら、よくある話というだけの小説になっていただろう。篠田節子はこのプロットに沿いながら、たくさんのエピソードと描写を重ね、まず細部で読ませる。

都庁に勤めていた鈴木正彦はゲーム会社の矢口誠に誘われて都庁を辞め、5000枚の原稿を書くが、会社は倒産。妻からは離婚され、生活のあてもないときに、行方をくらました矢口と偶然再会し、金儲けのために新興宗教団体・聖泉真法会を設立する。教義の元になったのは正彦が書いた原稿「グゲ王国の秘宝」だ。ホームページを開設すると、信者は徐々に増え、食品会社の社長がバックに付いてから飛躍的に伸びて、5000人の信者を抱えるようになる。

という前半はトントン拍子に話が進みすぎて、これはコメディかと思ってしまうが、下巻に入ってすぐに没落が始まる。怪しげな会社と宗教団体に近づいたのが運の尽きで、マスコミから叩かれ、脱税で摘発されて、世間的な信用を失う。残ったのはかたくなに教義を信じる女性信者数人。信者の兄に代議士の息子がいたことから、聖泉真法会は徹底的に迫害され、正彦たちは逃走。その過程で女たちがカルト化を推し進めることになる。

こういう宗教団体を描くなら、信者の立場から教祖の嘘くささを告発するのが一般的ではないかと思うが、正彦は最後まで常識人だ。自分が教祖のはずなのに、女性信者たちの信仰が先鋭化し、その暴走を止められなくなってしまうのだ。教義を狭く理解すると、その宗教は世間一般の常識からかけ離れてカルト化する。その過程をじっくり描いて読み応えがある。無条件に信じることは危険なのだろう。先鋭化するのは信仰だけではない。カンボジアのポル・ポト政権のように主義を額面通りに推し進めると、何百万人もの民間人を虐殺する極端なことになってしまう。篠田節子は「ゴサインタン 神の座」でもそうした先鋭化した国の悲劇を描いていた。

この小説は面白かったけれども、著者が篠田節子でなかったら、まず手に取らなかっただろう。こういう一般小説もいいが、たまにはSFも書いて欲しいと思う。

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