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「B型の品格 本音を申せば」

「B型の品格 本音を申せば」

「B型の品格 本音を申せば」

鹿児島のOさんと電話で話していて、「出ましたね」と教えられた。週刊文春の連載エッセイ「本音を申せば」をまとめた小林信彦のこの本をOさんも毎年楽しみにしているのである。昼休み時間に会社のそばの大きな書店で探した。エッセイコーナーにあるだろうと見当を付けていたが、なかなか見つからない。他のコーナーも探し、再びエッセイコーナーに戻ってようやく見つけた。平積みになっていても、本が多いとなかなか見つからないのだ。大きな書店は何の目的もなくふらりと入って、たくさん並んでいる中から本を選ぶ楽しみはあるが、目当ての本を探す時には時間がかかる。こういう時、amazonに頼もうかと思ってしまう。 書店には検索機械もあったが、触っても反応しなかった。僕の操作の仕方が悪かったのか。

僕にとって小林信彦のエッセイを読む楽しみは自分の映画の見方が大丈夫かどうかを確認することにある。リアルタイムで週刊誌の連載を読んでいれば、映画観賞ガイドとしての機能もあるのだろうが、1年分をまとめて読む場合は前年に公開された映画の見方の確認が主な役割となるのだ。

内田けんじの「アフタースクール」について小林信彦はこう書いている。

ラストで、パズルのピースがみごとにはまり、全体の図(ストーリー)が完成したとき、なるほど、こういう話だったのかと感心した。<頭を使った脚本>ではあるが、それだけではない、ほのぼのとした味がある。

自分がどんな感想を書いたか気になったので、Sorry, Wrong Access: 「アフタースクール」を読み直してみる(元はmixiに書いた日記をコピーしたもの)。

個人的には大技に比べて、終盤の展開はややドラマ的に弱く、少しバランスが取れていない感じを受けた。ドラマ的な弱さは構成と関係してくるので難しいのだが、ここをもっと強化すれば、映画は完璧になっただろう。ただし、内田けんじ監督の良さはこういう軽いほのぼの感にあるのだと思う。

まあ、「ほのぼの」が一致しているのでいいだろう。しかし、この本で取り上げられたこれ以外の映画はほとんど見ていない。「接吻」「相棒 劇場版」「ICHI」「その土曜日、7時58分」など。これはDVDを借りてみようと思う。特に「接吻」が見たい(これと「その土曜日、7時58分」は宮崎映画祭で上映するけど)。ニコール・キッドマン主演で劇場公開はされなかった「マーゴット・ウェディング」も見たいと思った。

タイトルのB型に品格に関しては5回に分けて書いてある。僕は血液型による人の分類は占い程度のものと考えている。血液型の本に書いてあることが当たってるように思えるのは大まかに当てはまることしか書いてないから。アメリカなら人種や民族で分けるところを、日本はほぼ単一民族だから、こういうもので分類しないと分けようがないのだろう。もし血液型で人のタイプが分類できるというなら、環境が異なるA型のエスキモーとA型のアボリジニが同じタイプだったというような統計的データを示してほしいものだ。小林信彦自身、「この連載のために、いま出ている血液型人間学の本をパラパラ見たが、こりゃダメだと思った。A型男性はこう、A型女性はこう、という風に決めつけているからだ」と書いている。まあ、それでもここで小林信彦が書いている自分の周囲や芸人の血液型に関するエピソードは読み物として面白い。

週刊文春の連載は映画のほかに政治、世相、東京のことなどを取り上げることが多く、本書のオビに書いてあるように「クロニクル(年代的)時評」の様相が濃かった。これまでに10冊出ている本もそうだったが、今回は映画に関する文章が多い。あとがきによれば、これは「某新聞に連載していた映画のコラムをやめて、新旧の映画のことが気をつかわずに書けるようになった」ためだそうだ。

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「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

原題はThe Curious Case of Benjamin Button(ベンジャミン・バトンの奇妙な症例)。「グレート・ギャツビー」のスコット・フィッツジェラルド原作なのに、驚いたことに初めて訳されたのだそうだ。本文は80ページ足らずの短編で、それをハードカバーで出版するというのも珍しいが、もちろん、映画公開に合わせてのことだ。ちょうど、これ、小学生が読むぐらいのハードカバーの分量ではないかと思う。

映画の予告編を見て、いったん年を取った男が徐々に若返る話かと思ったが、原作は違う。主人公のベンジャミン・バトンはいきなり70歳の男として母親から生まれる。いったい身長170センチの男がどうやって生まれるんだと思ってしまうが、そういう部分の説明はない。父親のロジャー・バトンが病院に行った途端、医者と看護師からヒステリックな暴言を浴びせられる、という出だしからクスクス笑える。ロジャーが病室で見たのは「大きな白い毛布に包まれて、ベビーベッドに体の一部を押し込まれた、どうみても七十歳ぐらいの老人」だった。

「一体全体どこから来たんだ? お前は誰なんだ?」バトン氏は狂ったように言い放った。
「自分が誰かなんて言えませんよ」老人はぶつくさとこぼした。「だって、まだ生まれて数時間しか経たないんですからね--でも確かに苗字はバトンですが」
「嘘だ! お前はサギ師だ!」

家に連れ帰られたベンジャミンは年を経るごとに若返っていくことになる。50歳ぐらいまで若返った20歳の時にベンジャミンは恋をして結婚する。しかし、若返るベンジャミンと妻との仲は次第に悪くなっていく。それでもベンジャミンは若返り続け、ついには息子よりも孫よりも若くなる。スラップスティックかと思えるような設定で始まった話は次第に透明な悲しみに包まれていく。この感覚はそう、ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」に似ているか。子供に若返っていくベンジャミンは知識も同時に失っていくのだ。

翻訳者の都甲幸治のあとがきによれば、フィッツジェラルドは「人生の一番いい時は最初にやってきて、一番悪い時は最後に来るってのはつらいよなあ、というマーク・トウェインの発言にヒントを得て」、じゃあ逆にしたらどうかと思い立ったのだという。あとがきにはSFと書いてあるけれど、奇想小説と呼んだ方がふさわしいのではないかと思う。たった80ページ足らずの本文で1300円は少し高いと思えるかもしれないが、イラストの入ったしっかりした本であり、内容と合わせて考えれば少しも高くない。だが、角川文庫からはこの小説を含めて「フィツジェラルドの未訳の作品を厳選した傑作集」が文庫本(500円)で出ている。

「告白」

「告白」

「告白」

「告白」は週刊文春ミステリーベストテン1位、「このミス」では4位だった。6章から成っていて、1章あたり50ページ足らず。これなら体力なくても読みやすい。第1章の「聖職者」は小説推理新人賞受賞作。ある中学校の女性教師が終業式の日、1年生のクラスの生徒の前で教師を辞めると語り始める。その理由は彼女の4歳の娘が学校のプールで水死体で発見されたことだった。娘はプールのそばにある家の犬にえさをやろうとして、プールに落ちたらしい。警察は事故死と断定する。しかし、女性教師は「娘は殺された。犯人は2人。このクラスの中にいる」と指摘する。

この1章だけ取り上げれば、女性の心理とか執着、恨みとかが凝縮されて、いかにも女性作家らしい作品だなと思う。よくまとまっていて、新人賞としておかしくない。嫌な気分にさせるミステリを嫌ミスと言うそうだが、そこまではないかもしれない。決着に疑問はあるけれども、これはこれで良いと思う。

第2章の「殉教者」、個人的にはこれが一番面白かった。クラスは2年に進級し、大学を出たばかりの脳天気な男性教師が担任になる。犯人2人のうち、1人は不登校になったが、もう1人の主犯格の少年は以前と変わらず登校してくる。クラスの生徒は彼を無視し、やがて堰を切ったようにいじめが始まる。男性教師は不登校の生徒を登校させようと、委員長を伴って家に行くようになるが、それが悲劇を引き起こす。この章は委員長の女子生徒の視点で語られる。いじめに加われず、少年をかばった委員長もまたいじめの対象になる。やがて委員長は少年の意外な素顔を見て好意を持ち始める。ここは重松清「きみの友だち」を彷彿させるが、あの小説のいじめよりもっと陰湿だ。

3、4、5章はそれぞれ事件の関係者の別の視点で語られていく。そして6章で再び女性教師が登場し、残酷な結末を迎えることになる。一気に読める小説だが、僕は所々に歪さを感じた。第1章の「聖職者」を書いた時点でこういう連作にする意図があったかどうかは分からないが、必ずしも成功していないように思う。木に竹を接いだ感じを受けるのだ。ミステリ風味も3章以降は薄い。個人的に嫌ミスもあまり好きではない。

3章までは小説推理に掲載され、あとの3章は書き下ろし。全編書き下ろしならまた違った感じになったかもしれない。それにしても新人とは思えない作品なので、2作目以降には期待できるのではないか。ちなみに本の帯にある読者の感想は当たり前だけれども、いずれも褒めすぎ。ミステリをあまり読んでいない人たちが書いたとしか思えない。

「ウォッチメイカー」

「ウォッチメイカー」

「ウォッチメイカー」

ディーヴァーの小説は「ボーン・コレクター」は持っているが、読んでいない(デンゼル・ワシントン、アンジェリーナ・ジョリー主演で映画化されたが、これまたテレビでちらりと見ただけ)。2005年に出た短編集「クリスマス・ストーリー」は途中まで読んだ。短編で感じたのはそのどんでん返しの鮮やかさ。ナイフの切れ味のような鮮やかさだなと思った。といっても、これも11編読んで中断している。あと5編残っているので、これから読もう。

で、「ウォッチメイカー」。もうこれは終盤の展開に唖然とする。どんでん返しは1回だけだからどんでん返しなのだが、ストーリーがこれほど3回も4回もひっくり返る話も珍しい。ディーヴァーは「これぐらいツイストしなきゃミステリじゃない」と思っているのだろう。

時計に執着を持つウォッチメイカーと名乗る殺人鬼を四肢麻痺のリンカーン・ライムが追い詰める。という風に序盤は始まる。サイコな話かと思ってしまうが、そんな単純な話ではない。ライムの相棒であるアメリア・サックスは単独でニューヨーク市警の腐敗を捜査する。別々の事件に見えて、これが絡んでくるのは想像つくのだが、そこから先は感心するほかない。サービス精神の旺盛な作家なのだ。ここまでひねるのは。

だが、読み終えて何が残るかというと、ああ面白かったという感想しか残らない。エンタテインメントはそれで良いのだが、なんというか、野暮を承知で言えば、人間のドラマをもう少し描いてほしいと思えてくるのだ。キャラクターが立っているというのとは別に人間のドラマの深みが欲しくなる。そういうのは別の小説を読めば済むことなんだけど。ミステリの中にもそういう小説はある。

といっても十分面白かったので、家にある「ボーン・コレクター」も読んでみようと思う。

「ミサイルマン」

「ミサイルマン」

「ミサイルマン」

6月に出た平山夢明の短編集。「このミス」1位になった「独白するユニバーサル横メルカトル」が面白かったので読む。最初の「テロルの創世」はカズオ・イシグロ「わたしを離さないで」と同じシチュエーションである。これ、雑誌掲載は2001年。この着想、誰でも思いつくものらしい。短編というより長編の導入部という感じで、この話の続きが読みたくなる。続く「Necksucker Blues」「けだもの」はそれぞれ吸血鬼と狼男を扱っている。ここまでの3編を読んで平山夢明はSF方面の作家だなという思いを強くする。特に「けだもの」の悲哀がいい。

次の「枷(コード)」はグチャグチャ、ゲロゲロの世界。表題作で快楽殺人犯を扱った「ミサイルマン」と「それでもお前は俺のハニー」もそういう傾向の話。ま、このあたりは好みもあるが、僕はちょっと苦手だ。「ある彼岸の接近」はオーソドックスなホラーで、敷地内に墓のある家を買った家族が化け物に襲来される。これ、不気味な雰囲気がいい。最初の3編を読んだ段階では評価を高くしたが、その後の話で少し下がったか。それでも平山夢明の書く話は面白いと思う。次も出たら買う。