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「クローズド・ノート」

「クローズド・ノート」

「クローズド・ノート」

昨日半分ぐらいまで読んだ雫井脩介「クローズド・ノート」の続きを読む。映画の予告編は何か深刻な感じだが、原作は少女漫画のような感じ。主人公のキャラクターが少し抜けててかわいいのである。雫井脩介だけれどもミステリではなく、恋愛小説。タッチが軽いのは携帯向けサイトの文庫読み放題に連載されたものだからか。

主人公の香恵は教育大学の学生で文具店でアルバイトをしている。引っ越したアパートに前の住人のノートが残されていた。ノートの持ち主は真野伊吹。小学校の先生で、ノートには生徒との交流が生き生きと綴られていた。香恵は万年筆売り場の担当になるが、そこに無精ひげを生やした男が来る。試し書きに猫の絵を描いた男、石飛隆作に徐々に香恵は引かれていく。

Web本の雑誌の評価を見ると、酷評している人もいる。僕はそこまでとは思わないが、これはもう少し書き込むべき話のように思う。できれば、主人公の恋愛感情は背景にして真野伊吹先生の人となりをもっと詳しく読みたかったところだ。不登校の児童との交流が描かれる前半に比べて、後半、隆との恋愛がメインになってくると、前半の魅力が薄くなっているように思う。香恵を語り手にした隆と伊吹の恋愛小説にすれば良かったのだ。

映画の方もあまり評判はよろしくないようだ。以下はYUIが歌う映画の主題歌のPV(予告編は公式サイトにもあるが、このサイト重すぎて話にならない。なんで、こんなに重いのか)。

あとがきにはこの小説の成り立ちが書かれていて、そこだけしんみりさせる。真野伊吹のモデルは、学校の先生で事故死した雫井脩介の姉とのこと。だから小説の中に姉が残した実際の手記の一部が引用されている。

映画への期待は、主役ではないけれども、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で好演した永作博美が出ていることか。

「独白するユニバーサル横メルカトル」

平山夢明の悪夢と狂気の異様な短編集。8編が収録されている。「このミステリーがすごい」で1位となり、収録してある同名の短編は日本推理作家協会賞を受賞している。最初の「C10H14N2(ニコチン)と少年 乞食と老婆」で軽いジャブ。続く「Ω(オメガ)の聖餐」でノックアウトされた。その後は普通のミステリっぽいSF、あるいはSFっぽいミステリが続くが、最後の「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」で再びノックアウトされる。平山夢明はもの凄い話を書く作家だなと思う。

即物的で凄惨な描写がそれだけに終わっていないのは狂人の論理が伴っているからで、そこが(未見だが)「ホステル」のような残酷描写だけの映画とは異なる点なのだろう。全盛期のクライブ・バーカーに似た感触もあるが、描写中心だったバーカーよりは作りがしっかりしていると感じるのはそういう部分があるからだ。こういう話を書く作家は日本にはあまりいない。そこを評価すべきか。だいたい、残酷描写をセーブしてしまうものなのだ。

「無垢の祈り」「オペラントの肖像」「卵男」は読んでいて「おお、SFだ」と思った。表題作はサイコな殺人鬼をメルカトル図法の地図の独白で描く。これもSF的な手法と言える。SF方面での平山夢明の評価はどうなのだろう? 「このミス」1位では一般的なSFファンは手に取らないのかもしれないな。

「すまじき熱帯」は「地獄の黙示録」(あるいはウィリアム・コンラッド「闇の奥」)のようなシチュエーションであり、「怪物のような…」の目をえぐり取られた助手の描写などは「フランケンシュタイン」のイゴールを思わせる。平山夢明はたぶん映画ファンではないか。と思ったら、ホラー映画の監督もしているようだ。

表題作について推理作家協会賞の選考委員の選評で法月綸太郎は「地図の一人称という奇手を用いながら、執事風の語り口が絶妙の効果を上げている。トリッキーな仕掛けはないけれど、ディテールがいちいち気が利いているので、風変わりなクライム・ストーリーとして愛すべき作品だと思う」と書いている。

「わたしを離さないで」

「わたしを離さないで」

「わたしを離さないで」

SFとミステリの枠組みで語られる文学。それも素晴らしい文学。中心となるアイデアは昨年公開された映画に似ているが、展開がまるで異なる。最初のページに登場人物たちの秘密につながる重要なキーワードが既に出てくるし、数ページ読み進めるうちにこれはあの映画と同じではないかと分かってくる。そして3分の1ぐらいのところで作者のカズオ・イシグロはそれを明らかにする。その場面が特に強調されるわけではない。そこに至るまでに読者には秘密が分かっているからだ。作者の意図は秘密よりもその立場に置かれた若者たちを描くことにあったのだろう。

煎じ詰めれば、これは「限られた短い命を定められた若者たちの生き方」を描いた話である。彼らの制限された生き方は普通の人たちと違うのか。少しも違わない。彼らもまた恋をするし、些細なことで怒ったり、笑ったりする。仲間内のいじめもある。にもかかわらず、この小説の全体にあるのは透明で深い悲しみだ。同時に彼らに課せられた過酷な運命とそれを人為的に作り出した人間たちに怒りが湧いてくる。そしてもちろん、カズオ・イシグロは意識しているだろうが、倫理的な問題が残るこの技術を安易に進めるべきではないとの強烈なメッセージになっている。

彼らの置かれた状況は戦時下にも置き換えられるし、難病を生まれつき背負った患者にも置き換えられる。強制収容所に入れられたユダヤ人たち、屋根裏部屋に隠れて生き延びようとしたアンネ・フランクをも彷彿させる。そこがこの小説の優れたところなのだろう。読売新聞の作者インタビューによれば、「イギリスの田舎に住む若いグループが、核兵器によって短い人生を終えるというのが当初の設定」だったという。自分たちの運命を受け入れ、それでも小さな幸福と小さな喜びにすがって生きる彼らの生き方には胸を締め付けられる。

終盤、主人公の介護人キャシーとその恋人のトミーは3年間だけ平穏に暮らせるといわれる方法の真偽を確かめる。それが残酷な結末に終わっても、この小説の魅力はそうしたプロットにあるわけではない。例えば、第1章にあるこんな場面で僕はこの小説に引き込まれた。

癇癪持ちであるためにみんなからいじめられるトミーにキャシーが語りかける場面。トミーは得意のサッカーの選手に選ばれると期待していたが、選ばれず、ぬかるみの中で叫びながら地団駄を踏んで、一番お気に入りのシャツを泥だらけにしてしまう。

「トミー」と、わたしはとがめる口調で言いました。「大切なシャツが泥だらけじゃない」
「だから何だよ」ぼそぼそと言いながら、トミーは下を向き、点々とついている茶色の染みに気づきました。わっと叫ぼうとして、危うく思いとどまったふうで した。次に現れたのは意外そうな表情です。これが大事なポロシャツだってこと、こいつはなぜ知ってる……? その思いだったでしょうか。

穏やかで繊細な筆致で統一されたこの小説はだからこそ、読む者の胸に迫る。カズオ・イシグロの「日の名残り」は僕には関係ない世界と思って、小説も読んでいないし、映画も見ていないが、これほどの小説を書ける作者の本はすべて読みたくなる。そう思わせるほどの傑作。

「本音を申せば」

鹿児島のOさんからの手紙に「もう買いましたか」と書かれていた。小林信彦の週刊文春のエッセイをまとめた本のことである。Oさんも小林信彦のファンで以前、電話で「昨年の分はまだ出ないんですかね」という話をしていた。これで7冊目だそうである。

毎年この本を買うのは僕自身の映画の見方が間違っていないかどうかを確認するためにほかならない。映画に関する文章は多くはないが、意見が合っているとホッとするのだ。

例えば、「コールドマウンテン」について小林信彦はこう書く。

この映画は<ハリウッド久々のメロドラマ>という風に喧伝されていて、物語の骨格はそうなのだが、実は反戦映画だと思う。

僕はこう書いている。「そうした女たちの目から見た戦争批判をこの映画はさらりと描いている。この軸足を少しもぶれさせなかったことで、映画は凡百のラブストーリーを軽く超えていく」。まあまあではないか。

「華氏911」については

ドキュメンタリーとしてフェアでない、という人もいるが、<完全にフェアなドキュメンタリー>なんてあるのか。

僕は「内容に偏りがあるという批判は分かるが、主義主張を込めないドキュメンタリーには意味がない」。

ただ、「ハウルの動く城」について、「語りたい強烈なエネルギーがない」とした上で「自分の体験からみて、これは作者が<枯れた>からだ、と感じた」という指摘は僕にはできない。だから分かったような分からないような感想にしかならないのだなあと反省する。

小林信彦は以前からこの連載をクロニクルと位置づけている。連載は8年目に入った。小泉政権や中越地震に関するタイムリーな文章が収められたこの連載はもう立派なクロニクルだと思う。後世の人はこの本を読んで、小泉純一郎という総理の下の日本はなんとひどい国だったかと思うことだろう。

「ミリオンダラー・ベイビー」

風邪で昨日からダウンしているので、先日買った映画「ミリオンダラー・ベイビー」の原作を読む。F・X・トゥール「テン・カウント」に収録されている。60ページ足らずの短編。

32歳の女性ボクサー、マギーが老トレーナーのフランクに指導を頼む。女が殴られるのを見るのが嫌いなフランクは最初は断っていたが、熱心に練習するマギーに資質があると見て、指導するようになる。マギーは日を追うごとに上達し、試合でも連戦連勝。多額のファイトマネーを稼ぐようになり、「世界初のミリオン・ダラー・ベイビィ(100万ドル稼ぐ女性ボクサー)になるか」とマスコミの注目も集めるようになる。しかし、ロシアの女性ボクサーとの試合が2人の運命を変える。

貧しい境遇にある女性ボクサーが順調に勝ち上がっていく話と見当をつけていたので、後半の展開は思いもよらないものだった。大変厳しいラストで、このままでは映画になりにくいのではないかと思う。アカデミー助演男優賞を受賞したモーガン・フリーマンのキャラクターは小説には出てこない。かなり脚色が加えてあるのだろう。

著者のトゥールはボクシングのカットマンで、この1冊を残しただけで世を去った。敗者に向ける視線が切実さと厳しさを併せ持っているのは自身も苦労人だからだと思う。