‘映画化’ タグのついている投稿

「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」

2010 年 2 月 7 日 日曜日
「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」

「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」

買ったのは昨年7月。これがミレニアムシリーズの最後の1冊かと思うと、もったいなくて読む気にならず、昨年12月から読み始めたが、他の本も並行して読んでいたために途中で中断。映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」を見たことでようやく再開、読み終えた。

第2作「火と戯れる女」のラストから始まる直接的な続編である。第1作の「ドラゴン・タトゥーの女」から少しずつ描かれてきたリスベット・サランデルの過去が第2作ですべて明らかになり、今回は少女時代のリスベットに不当で残虐な仕打ちをした公安警察の一部に対する決着が図られる。下巻の終盤、裁判の場面がこの小説の白眉。主人公ミカエル・ブルクヴィストの妹で弁護士のアニカ・ジャンニーニの弁護の手腕が鮮やかだ。そしてここで強調されるのは第1作の原題でもあった「女を憎む男たち」というテーマ。解説の池上冬樹も引用しているけれども、ミカエルはアニカにこう言う。

「だから言ったろ、この裁判にはおまえがうってつけだって。この事件の核心は結局のところ、スパイとか国の秘密組織じゃなくて、よくある女性への暴力とそれを可能にする男どもなんだ」

人権派のジャーナリストだった作者のスティーグ・ラーソンらしい言葉だ。ミレニアムシリーズはミステリのいろんな要素を集めたエンタテインメントであるけれども、こうした芯の硬さが作品の魅力になっていると思う。

リスベットは前作の最後で瀕死の重傷を負い、本書の上巻は病院に入院しているのであまり動きがない。リスベットファンとしては残念なのだが、終盤に活躍の場面が用意されている。第2作で行方をくらました金髪の巨人との決着が待っているのだ。

リスベットの妹の動向が分からないという部分は残っているのだけれど、ミレニアムシリーズはこの第3部まででリスベットの話としては完結している。作者が急逝したために予定されていた第4部、第5部は幻となってしまったが、ミステリ史に残る傑作であることは間違いないと思う。

ちなみに映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」の字幕監修はこの原作の共同翻訳者であるヘレンハルメ美穂が当たっている。この映画のパンフレットにはラーソンの唯一のインタビューが掲載されている。その中でラーソンは「推理小説を読んでいて、苛立つことがあります。それは、主要人物が通常ひとりからふたりに限られていて、しかもその人物の属する社会の外の環境描写に欠けていることです」と語っている。ミレニアムシリーズにさまざまな多くの人物が登場するのはその苛立ちを払拭するためだったのかもしれない。

【amazon】ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

「私の中のあなた」

2009 年 11 月 2 日 月曜日
「私の中のあなた」

「私の中のあなた」

読んだ動機が映画(感想は「私の中のあなた」: Sorry, Wrong Access)との結末の違いを確認するためだったので、あまり良い読み方とは言えない。ほとんど映画と同じ話なので、家族愛ものとしてよくまとまっているというぐらいの感想しか出てこない。しかし問題の結末は驚いた。こういう展開にするとは思わなかった。原題の「My Sister’s Keeper」、邦題の「私の中のあなた」に合いすぎる内容なのだ。合いすぎて厳しすぎて不快に思う人もいるのではないか。これを短編でやられたら、本を投げ捨てるだろう。映画にも向かなかったと思う。結末を変えて映画は正解だった。

同時にこれは遺伝子操作で出産するデザイナー・ベイビーに対する作者のジョディ・ピコーの考え方を表したものでもあると思う。映画があいまいに終わらせていた部分をはっきり描いているのだ。姉のドナーとして妹を出産するということが是か非か、それが浮き彫りになる。

映画とは登場人物の設定などに細かい違いがある。一番の違いはアナの弁護士キャンベルの元恋人で訴訟後見人のジュリアが出てくること。キャンベルとジュリアの高校時代からの関係がキャンベルの病気を絡めて描かれる。キャンベルは高校時代、突然、ジュリアを捨てる。事故によって病気になったキャンベルは両親にもそれを隠していたのだ。それが映画でも描かれた裁判の中での発作で周囲に明らかになり、キャンベルとジュリアは復縁を果たす。

「それともうひとつ、今度はあなたがわたしと別れるんじゃない。わたしがあなたと別れるのよ」
その言葉はぼくの気持ちをさらに落ち込ませる。傷ついた顔を見せまいとするが、今はそのエネルギーの持ち合わせがない。「だったら、もう行ってくれ」
ジュリアは僕に寄り添って言う。「ええ、そうする。あと50年か60年経ったらね」

ただ、これは本筋にあまり絡まない部分なので映画で省略しても差し支えないだろう。こういう部分まで描いていたら、映画は長くなりすぎるし、焦点もぼけたかもしれない。

映画で印象的だったケイトとテイラーの短い恋のエピソードは40ページ足らずしかなく、本と映画との描こうとしたものの違いがよく分かる。映画の主人公はあくまでもケイトなのだ。登場人物のそれぞれの視点から物語を語る手法は映画で序盤に使われていたが、小説はこれで統一されている。ケイトの視点はエピローグにしか登場しない。映画はテーマを突き詰めず、家族愛・難病ものにしてしまっているのが欠点だが、この原作の映画化として、まとめ方はそれしかなかったのだろうなと思う。

【amazon】私の中のあなた 上 (ハヤカワ文庫NV)

「ゼロの焦点」

2009 年 9 月 12 日 土曜日
「ゼロの焦点」

「ゼロの焦点」

以前、知り合いと話していて、ミステリが好きということが分かった。何を読んでいるのか聞いたら、「松本清張はほとんど読んでます」と言う。僕は松本清張の小説を読んだことがなかった。「砂の器」を少しかじっただけ。この本を手に取ったのは犬童一心監督の映画が11月に公開されるのに合わせて、松本清張を少し読んでみようかという気分になったからだ。というか出張の際に書店に寄ったら、買いたい本もほかに見つからなかった。

印象としてはまるでテレビの2時間ドラマ。なにしろ50年前の作品なので、今のミステリの水準に比べると、手法を著しく古く感じる。特に最終章で主人公の推理が延々と説明される部分は興ざめで、これはプロットであって小説ではないと思う。犯人が殺人を犯さざるを得なかった経緯を小説にするのが本当ではないか。

困ったことに、夫の失踪の謎を追う主人公が事件の捜査を続ける理由も説得力を欠く。夫の行方は分かったのだから、その先はあなたにとっては不要なんじゃない、と思えてくる。探偵役の動機が弱いのだ。関係者が次々に殺されていくので、犯人の目星も早い段階でついてくる。これを名作というのは少し違うのではないか。最近のミステリを読み慣れている人なら、そう思うはずだ。

では全然つまらなかったかというと、そんなことはなく、そういう古い推理小説として時代色を楽しんだ。終戦から13年の昭和33年、まだ戦後が色濃く残っている時代。「もはや戦後ではない」と経済白書が記したのは昭和31年だけれど、人々はまだ戦後を引きずっている。そういう部分が面白かった。

主人公の板根禎子は見合いで、広告会社の金沢出張所に勤める鵜原憲一と結婚する。夫は結婚を契機に、東京に異動の予定だった。結婚して10日後、仕事の引き継ぎで金沢に行った夫は帰る予定の日を過ぎても帰らなかった。禎子は金沢に行き、夫の足取りを追い始める。そして夫には隠された生活があったことが分かってくる。同時に夫の兄や出張所の社員など夫の失踪を調べ始めた周辺の人間が次々に殺される。

「君は若い身体をしているんだね」と夫に言われ、禎子は誰と比較しているんだろうと思う。

禎子は顔をおおいながら、夫は自分の身体と比較しているのであろうかと思った。三十六歳と二十六歳の十歳の開きが気になるのか。が、夫の目にも口調にも、その羨望らしいものは少しもなかった。禎子は、それで初めて気がついた。夫は過去の女の誰かと比較しているのではないか。たしかにそんな言い方であった。夫のそういう過去については、禎子には未知であった。これから夫について未開のことがしだいに溶解してくるに違いないが、その部分だけが一番最後になるのではないかと思った。

相手のことをよく知らずに結婚することは現代ではほとんどないだろうが、この時代にはあったのだ。予告編を見ると、映画はそうした時代を舞台にしているようだ。そうでなくてはこの話は成立しない。あらすじを読むと、いろいろと変更点もある。犬童一心監督がどう映画化しているのか気になる。

ただし、映画の予告編で「アカデミー賞に輝く3女優が共演」というのはどうかと思う。広末涼子は「おくりびと」でアカデミー外国語映画賞を受賞、中谷美紀と木村多江は日本アカデミー賞で主演女優賞を受賞しているからだが、日本とアメリカのアカデミー賞を同じ名前だからと言って同列に扱うのはなんだこれ、と思ってしまう。

【amazon】ゼロの焦点 (新潮文庫)

「女の子ものがたり」

2009 年 8 月 29 日 土曜日
「女の子ものがたり」

「女の子ものがたり」

西原理恵子の自叙伝的漫画。読みながら、業田良家「自虐の詩」に似ているなと思った。共通するのは貧しさと女の子の友情である。作品としては「自虐の詩」の方が上だと感じるのは主人公と2人の友だちの間の友情の描写がやや説得力を欠くからか。3人は同じような境遇で、小学生のころから行動をともにするが、主人公以外の2人は不幸な結婚をする。その不幸の遠因も貧しさにあるのだろうけれど、主人公だけが町を出て、あとから振り返って「もう、こんな友だちは一生できないと思う」と振り返るのは少し違うんじゃないかと思えてくるのだ。主人公がそう思うにいたる過程が描き切れていないと思う。

主人公のなつみは家族3人で父親の実家のある町に引っ越してくる。山と田んぼと工場のある町。拾った黒猫を一緒の世話したことで、みさちゃん、きいちゃんという2人の女の子と親しくなる。みさちゃんの家は半分がゴミ。団地に住むきいちゃんの母親は世界で一番怖そうな母親だった。なつみの両親もなつみが寝た後でけんかをする。それぞれに貧しくて幸福とは言えない3人は別々の中学校に入っても、行動をともにする。

「自虐の詩」と似てると感じたのはなつみにまなちゃんという親友ができるエピソード。まなちゃんは成績が良くてスポーツができて美人で背が高くて家も大きい。まなちゃんと一緒に下校していたなつみは、みさちゃんときいちゃんが男子にいつものよういじめられている場面に遭遇する。そこでまなちゃんは2人を助けるが、その後で主人公は「まなちゃん、わたしね、あんたのこと大っきらい」と思うのだ。「みさちゃんもきいちゃんもきらいだけど、あんたのことがいちばんきらい」。

同じ境遇だから避けたがった「自虐の詩」の幸江と熊本さんの関係に比べると、このあたりの主人公の心境をもっと詳しく描いて欲しくなる。2人のことを嫌いと思うなつみがラストで「みさちゃんときいちゃんが好きだ」と思うようになる変化の決定的な要因がここにはない。

この原作、映画になって今日から東京などで公開された。少女時代を演じるのが大後寿々花、波留、高山侑子というのはきれいすぎる感じもある。原作にない現在のエピソードを含めて映画化してあるようだが、出来はどうなのだろう。

【amazon】女の子ものがたり

「イン・ザ・プール」

2009 年 7 月 23 日 木曜日
「イン・ザ・プール」

「イン・ザ・プール」

「打ちのめされるようなすごい本」で米原万里が褒めていたので読む。奥田英朗の本は数冊買っているが、まともに読んでいなかった。いや、これはおかしい。面白い。続編の「空中ブランコ」は直木賞を取り、この本自体も直木賞候補になったけれども、それが納得できる面白さ。精神科医・伊良部一郎を主人公にした連作短編。医師というよりは単なる混ぜっ返し、駄々っ子のような太った中年の伊良部のもとを訪れるプール依存症、妄想癖、陰茎強直症、不安神経症などさまざまな患者を取り上げ、ストレス社会の中で現代人が抱える心の病を爆笑させながら描き出した小説だ。

読んでいていくつか自分にも思い当たることがある。「イン・ザ・プール」のプール依存症になった男はウォーキング依存症やネット依存症に近かった(今でも?)自分に当てはまるし、たばこの火を消したかどうかに不安を覚え、何度も確認し、外出できなくなる「いてもたっても」の男には、そうそうたばこの火って気になるんだよなと思う。ということは自分も軽度の不安神経症なのか。

まともな治療などせず、注射フェチの伊良部にあきれながらも患者が通院をやめられないのは心の病とは無縁で、人目を気にせず自分の思うとおりに行動する伊良部がある意味、うらやましい存在だからだろう。収録されている5編すべて面白いが、僕が気に入ったのは色っぽい看護師のマユミさんがちょっとだけクローズアップされる「フレンズ」。1日に200通も携帯メールを出す高校生の雄太が患者で、この行動は友だちや仲間がいないことを避けたいという不安の裏返しなのだ。クリスマスに誰からも相手にされなかった雄太は伊良部に電話をかけ、代わったマユミさんと話す。

「マユミさん、彼氏はいるんですか」
「いないよ」
「ぼくじゃだめですか」
「子供はだめ」
間髪を入れず返事された。でも愉快な気分になる。くじけず話を続けた。
「どんな人が理想ですか」
「友だちがいない奴。大勢で遊ぶの、苦手なんだ」
メリークリスマス。雄太は夜空に向かってつぶやいていた。

マユミさんは「孤塁を守ることを恐れない北国の美女」だったのである。

恐らく、この連作短編を書くのに奥田英朗は相当の取材をしているはず。それを表面にはおくびにも出さず、エンタテインメントに仕上げている。こういうのを洗練された手法と言うのだろう。

【amazon】イン・ザ・プール (文春文庫)

「MW」(ムウ)

2009 年 6 月 4 日 木曜日
「MW」

「MW」

玉木宏、山田孝之主演で映画化された。予告編が面白そうだったので、手塚治虫の原作を読む。ヒューマニズムを基調にした作品が多い手塚治虫としては異色の内容で、悪事の限りを尽くす男が主人公。問題作と言われるのも納得だが、犯罪を続ける主人公の動機と設定、その発展のさせ方の説得力がやや弱いと思う。復讐のためという動機なら分かりやすいが、これに毒ガスの影響による狂気という要因が加わる。終盤に至って主人公の動機はあきれるほど自分勝手かつ幼稚なものに変わってしまう。ここが説得力に欠けるのだ。1976年から78年にかけての雑誌連載なので、物語の設定にはベトナム戦争の影響があるが、戦争批判にはなり得ていない。女装しても違和感がない美しい主人公の造型は魅力的で、作品を読ませる力があるのだけれど、すっきりしない部分が残った。

南西諸島の沖ノ真船島(おきのまふねじま)で某国の毒ガスMWが漏れ、島民全員が死ぬ。本土から来ていた結城美知夫と賀来巌は洞窟にいて辛くも難を逃れた。事件は日本政府と某国によって完全に隠蔽された。15年後、結城はエリート銀行員となっているが、その裏で誘拐や殺人の犯罪を重ねる。毒ガス事件の関係者への復讐が目的だった。神父となった賀来は結城の犯罪をやめさせようとするが、同時に結城とホモセクシュアルな関係にもある。悪の道をためらいなく突っ走る結城と、結城の行為を否定しながら結城に惹かれる賀来。やがて結城の目的が世界に惨禍をもたらすことであることが分かってくる。

事件の隠蔽にかかわった大物政治家の名前が中田英覚である点など時代を感じさせる(ロッキード事件で田中角栄が逮捕されたのは1976年だった)。ストレートに世相を反映させると、物語は古びるのも早いが、当時のことを知らない若い世代には関係ないかもしれない。

結城はバイセクシュアルだが、寝た女をためらいなく殺すところなどを見ると、ホモセクシュアルの傾向の方が強いのだろう。結城の美しさと、結城との関係は間違いと悩む賀来の在り方を見て、山岸涼子「日出処の天子」の影響があるのではないかと思ったが、発表はこちらの方が早かった。ということは山岸涼子が影響を受けたのか。手塚治虫はやはり偉大な先駆者であり、その影響力は大きかったのだと思う。

【amazon】MW(ムウ) (1) (小学館文庫)

「路上のソリスト」

2009 年 5 月 11 日 月曜日
「路上のソリスト」

「路上のソリスト」

サブタイトルは「失われた夢 壊れた心 天才路上音楽家と私の日々」。ロサンゼルス・タイムズの記者とホームレスの音楽家との交流を描く。ジョー・ライトが監督した同名映画の原作となったノンフィクションで、そうでなければ、手には取らなかっただろう。著者がまえがきに書いているように、これは2005年から2007年までの2年間の物語であり、「この物語がこの先どうなるかのかは分からない」。フィクションのようにすべてが丸く収まったハッピーエンドを迎えるわけではないのだ。文体は平易で読みやすいけれども、文章的に強く印象に残る部分は個人的にはあまりなかった。それでも統合失調症やホームレスの問題を提起した内容は読ませるし、現状を伝えることには意味がある。

コラムの題材を探していたスティーヴ・ロペスはホームレスがたむろするスキッド・ロウで弦が2本しかないバイオリンを弾く五十代のホームレス、ナサニエル・アンソニー・エアーズと出会う。ロペスは音楽には素人だったが、心ひかれるものを感じた。これはコラムに書けると思ったロペスは何度もナサニエルのもとに通うようになり、ナサニエルがニューヨークの有名な音楽学校ジュリアードの出身であることが分かる。ナサニエルはジュリアード在学中に統合失調症となり、退学した。それでも音楽への夢をあきらめられずに、というより、音楽を心のよりどころとして、路上でバイオリンを奏でているのだった。ナサニエルについて書いたコラムは反響を呼び、支援のためのバイオリンやチェロが送られてくる。ロペスは危険な路上ではなく、心を病んだホームレスを支援するアパートにナサニエルが住むように勧めるが、ことはそう簡単には運ばなかった。

こういう物語を読んで思うのは数多くのホームレスの中から1人だけを救済することに意味があるのかということ。蜘蛛の糸にしがみついたカンダタがそうであったように、ナサニエルも他のホームレスたちに理不尽な怒鳴り声をあげる。起伏の激しい言動は病気のためであるにせよ、人間的にも問題があるのである。著者自身、ラスト近くで「もう1回でもここに来てみろ、それがてめえの最後だ」との罵声を浴びせられる。それで交流が終わらなかったのは著者がナサニエルに対して友情を感じていたからだ。ロペスとナサニエルのほかに、この物語にはホームレスや統合失調症の人を支援する人々が描かれる。こうした人たちの粘り強い活動がなければ、現状の改善は進まない。1人でできることには限界がある。しかし、何もやらないよりはやった方がいい。

ナサニエルのジュリアード時代の同期には世界的なチェリストのヨーヨー・マがいた。終盤にあるヨーヨー・マとナサニエルが会うシーンはこのチェリストの穏やかな人間性がうかがえる。

「あなたに会ったことがどういう意味を持つかを、いいますよ」とヨーヨー・マはミスター・エアーズの目をまっすぐに見て言った。「それは、ほんとうに、心から音楽を愛している人と会ったということなんです。わたしたちは兄弟なんですよ」

人間性と言えば、本書の前半で統合失調症についてのトム・クルーズの発言を著者は強く批判している。クルーズはテレビのショーでこう言ったそうだ。

「ぼくは一度も精神医学などというものを認めたことはない」とクルーズは『トゥデイ』のホスト、マット・ロウアーに話した。「サイエントロジストになる前にも、ぼくは一度も精神医学を認めたことはない。さらに精神医学の歴史を勉強しはじめてからは、どうして自分が心理学を信じなかったかがますますよく理解できるようになったよ」。

統合失調症は「ドーパミンと呼ばれる神経伝達物質の機能不全を含め、さまざまな異常が起こる生物学的な脳の障害が起こり、そのために妄想や現実がゆがんで見えたりするようになることが研究の結果明らかになっている」そうだ。クルーズのような有名な俳優がテレビで間違った自説を披露することほど有害なものはない。

【amazon】路上のソリスト

「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」

2009 年 5 月 10 日 日曜日
「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」

「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」

タイトルロールのドラゴン・タトゥーの女、リスベット・サランデルがすこぶる魅力的だ。身長154センチ、体重42キロ。小柄で24歳なのに14歳ぐらいにしか見えない。背中にはドラゴンの刺青、顔にピアス。黒いTシャツに革ジャンのパンクルック。中学校中退。感情表現が欠如し、上司を絶望の淵に追い込むほど協調性がない。社会不適格者。しかし、こういう外見、性格からは想像がつかない天才的なリサーチャーで、驚異的なハッカーの技術を駆使して調査の相手を裏も表も綿密に調べ上げる。物語の主人公は雑誌「ミレニアム」の編集者ミカエル・ブルムクヴィストだが、リスベットが出て来た途端に話は溌剌とする。リスベットのキャラクターを創造したことで、この小説の成功は決まったようなものだっただろう。作者のスティーグ・ラーソンが第2部「ミレニアム2 火と戯れる女」でリスベットを主人公にしたのは当然だと思える。

ミカエルは大物実業家のヴェンネルストレムの悪事について書いた記事が事実無根と訴えられ、名誉毀損で有罪となった。ミカエルは事情があって控訴せず、雑誌社をしばらく離れることになる。そこへ大手企業の前会長ヘンリック・ヴァンゲルが声をかけてくる。兄の孫娘で1966年に失踪したハリエットについて調べて欲しいというのだ。ハリエットは殺されたらしいが、死体は見つかっていない。ヴェンネルストレムはかつてヴァンゲルの会社にいたことがあり、そこでも悪事を働いたらしい。その悪事を教えるということを条件にミカエルは調査を始める。やがて、ハリエットの失踪は猟奇的な連続殺人事件に関係していることが分かってくる。果たして犯人は誰なのか。調査能力を買われたリスベットもミカエルに協力し、約40年前の事件の真相に迫っていく。

物語の真ん中に猟奇的殺人事件、その前後にヴェンネルストレムとミカエルの確執を置いた構成。殺人事件だけだったら、よくあるサイコものに終わっていただろうが、ミカエルのジャーナリストとしての意地とその人間関係を描くことで充実したエンタテインメントになっている。

43歳のミカエルと娘ほども年齢の異なるリスベットは調査を進めるうちに親しくなっていく。そしてリスベットは自覚する。

クリスマスの翌日の朝、彼女にとってすべてが恐ろしいほど明瞭になった。どうしてこんなことになったのか分からない。二十五年の人生で初めて、彼女は恋に落ちたのだ。

当初は5部作の予定だったらしいが、作者は第4部の執筆にかかったところで急死した。3部まででも話は完結しているとのことなので、安心して第2部を読みたい。

第1部は映画化されており、IMDB(Män som hatar kvinnor)では7.8の高得点。予告編を見ると、原作よりもサスペンスタッチ、猟奇的なタッチを強調した作品になっているようだ。リスベットのイメージも原作とは違う。スウェーデン映画なので、日本公開の予定があるかどうかは分からないが、ぜひ公開してほしいところだ。

【amazon】ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上