投稿者「hiro」のアーカイブ

「コミュニティ」

「コミュニティ」

「コミュニティ」

先日、amazonから「篠田節子の『コミュニティ』お求めいただけます」とのメールが来たのを覚えていたので、書店で見かけた際に買った。2006年に出た「夜のジンファンデル」を改題した短編集。91年から02年にかけて発表された6編が収録されており、「夜のジンファンデル」以外はホラーの要素が強い。考えてみると、篠田節子の短編集を読むのは初めてだが、どれも面白かった。

「大人の恋愛小説の金字塔」と解説で絶賛されている「夜のジンファンデル」は結婚している男女の秘めた恋心を描き、切なさと官能性を併せ持つ。特に女性に受けが良いのだろうなと思う。古い団地の異常な連帯が明らかになる表題作の「コミュニティ」とブラックな味わいを持つ「永久保存」には超常現象は出てこない。残りの3編「ポケットの中の晩餐」「絆」「恨み祓い師」がホラーらしいホラーということになる。

「ポケットの中の晩餐」は読んでいて筒井康隆の「鍵」(「バブリング創世記」に収録)を思い出した。「鍵」は鍵を巡って過去をたどりながら、数々の出来事を思い出していく話で、男にとってはラストの場面が悪夢のように怖い。解説で井上ひさしが絶賛していた。「ポケットの中の晩餐」はアニメーションのメカニックデザイナーとして成功した男が故郷に帰ってくる話。故郷といっても電車で40分だが、男は13年間帰っていなかった。男は中学時代、やや知的障害がある深雪という少女と交流があった。家のパン屋を手伝っていた深雪のポケットには驚くほど大量の食べ物が詰め込まれていた。高校を中退して東京に行った男は父親の事業の失敗で故郷に帰り、出会った深雪を抱く。その後、深雪は子宮外妊娠で死んでいたことが分かる。そして、今回の帰郷で男は深雪と再び出会うのだ。

「絆」は不倫の恋を続けていた女が手切れ金代わりにリゾートマンションを贈られる話。そのマンションには大きな冷蔵庫があった。ある夜、女は冷蔵庫の中から扉を叩くような音を聞き、冷蔵庫から男の子が出てくるのを見る。やがてこのマンションでは有名女優の娘が死んでいたことが分かる。娘ではなく、息子ではなかったのか。気味の悪くなった女は冷蔵庫を捨てるが、それが新たな悲劇をもたらすことになる。

「恨み祓い師」は古い貸家に住む年老いた母娘にまつわる話。シリーズ化しても面白そうな題材だった。篠田節子がどれぐらいの短編を書いているのか知らないが、この作品集、当たり外れがない。新作の長編「薄暮」も読んでみたくなった。

【amazon】コミュニティ (集英社文庫 し 23-8)

「打ちのめされるようなすごい本」

「打ちのめされるようなすごい本」

「打ちのめされるようなすごい本」

ロシア語通訳で作家だった米原万里の書評集。前半は週刊文春に月1回連載していた「私の読書日記」、後半はさまざまなメディアに書いた書評が収録されている。タイトルは取り上げた本のことを指しているが、この本自体が凄い本である。著者の博識と読書量の多さ、的確な批評に驚く。米原万里という人はテレビで何回か見ているけれども、こんなに凄い人だったのかと遅まきながら思う。

優れた書評は読者に読む気を起こさせるものだ。例えば、「ご忠告申し上げるが、一度読み出したら読み終えるまで寝食などはどうでもよくなる」などという褒め方を読んだら、読まずにおくものかという気にさせられてしまうだろう。

著者が「打ちのめされるようなすごい小説」として紹介しているのは丸谷才一の「笹まくら」。それと比較してトマス・H・クックを取り上げている。丸谷才一に比べれば、クックは「「ミステリー畑では抜きんでて細やかなはずのクックの文章の肌理が可哀想になるぐらいに粗く感じられ、登場人物たちが仰々しく単細胞に見えてくる」そうだ。そうか、「笹まくら」はそんなに凄いのかと思い、書店に走ったが、「笹まくら」どころか丸谷才一の本は1冊もなかった。小さな書店ではないのに、どういうことだ。単行本がないのは分かるにしても、文庫本さえないのは情けない。

クックは僕にとって買っても読んでいない作家の代表格で本棚にはMWA賞受賞の「緋色の記憶」(99年2月出版の第11刷)など4冊あった。評価が高いのでついつい買っていたのだが、ちょうど僕がパソコンの本ばかり大量に読んでいたころだったので、積ん読状態になっていた。これから読む。

著者は2006年5月25日に癌のため亡くなった。「私の読書日記」の最後の3回はその闘病過程を綴った「癌治療本を我が身を以て検証」である。「覚悟はしていたが、抗癌剤治療を受けた直後の1週間は凄まじい嘔吐と吐き気に襲われ、死にたいと思うほどに辛かった」という体験から肉体へのダメージが大きい放射線と抗癌剤療法を避けるため、著者は多数の癌治療関係の本を読む。活性化リンパ球療法や免疫療法、血液酸毒化を避ける食事療法、温熱療法、爪もみ療法などについて読み、実際に病院で治療する。そして2人の医師とけんか別れする。次々に挑戦し、検証し、結論を下していくその姿勢には頭が下がる。

それ以上にどんな治療法も効果を得られなかったことは悲しい。最後の読書日記の日付は2006年5月18日。入稿は早かったのだろうが、死の間際まで書評を書いていたことになる。著者の論旨の明確な毅然とした文章を読めば、これで終わりにしたくはなかったはずだ。残念だ。

【amazon】打ちのめされるようなすごい本 (文春文庫)

「ダブリンで死んだ娘」

「ダブリンで死んだ娘」

「ダブリンで死んだ娘」

2008年のMWA最優秀長編賞候補作。著者のベンジャミン・ブラックは「現代アイルランドを代表する作家」ジョン・バンヴィルのペンネームだそうだ。バンヴィルは「海に帰る日」でブッカー賞を受賞した純文学作家で、60歳を越えて初めてミステリを書いた。

1950年代のダブリンを舞台にしたミステリ。すぐに底が割れるし、意外な展開もオチもないが、この本が評価されているのは文体とその描写の深さによるところが大きいのだろう。

主人公は聖家族病院の病理医で検死官のクワーク。ある日、クワークは死体安置室に運び込まれたクリスティーン・フォールズという名前の女性の遺体に目を留める。死因は肺塞栓とされていたが、明らかに出産直後だった。死亡診断書を書いたのは義兄のマル。クワークは不審を抱くが、遺体はすぐに運び去られていた。クリスティーンの過去を知る女性を突き止めるが、その女性は何者かに殺害される。クワーク自身も2人組の男に襲われ、重傷を負う。

孤児院で育ったクワークはマルの父親の判事から助けられ、若い頃はマルと兄弟のように育った。クワークはボストンにいる富豪の娘デリアと結婚、マルはその姉サラと結婚した。デリアは出産の際に死に、生まれたばかりの娘も死んだ。しかし、クワークが本当に愛したのはサラの方だった。クリスティーン・フォールズという女の死がそうした過去と現在の悲劇を浮かび上がらせる契機となる。

「あの頃わたしたち、ここにいて幸せだったでしょう? マルとあなたとわたし…」
「クワークは両手の付け根を包帯に包まれた膝の上に置き、強く押しつけた。満足感とともに感じる疼きは、一部は痛み、一部は自虐的な快感だった。「それに」彼は言った。「それにデリアがいた」
「ええ、デリアがいたわ」

終盤にあるクワークと関係の深い女性が遭遇する出来事は悲劇の上塗りのような様相にしか思えず、これは不要なのではないかと思ってしまうが、過去がもたらした家族の悲劇を象徴してもいる。物語に派手さはないけれども、じっくり読むには最適かもしれない。僕はダラダラ読んだので、ところどころに感心しながらも感銘は受けなかった。

【amazon】ダブリンで死んだ娘 (ランダムハウス講談社文庫 フ 10-1)

「すぐに使えるWindows Vistaの基本がマスターできる本」

「すぐに使えるWindows Vistaの基本がマスターできる本」

「すぐに使えるWindows Vistaの基本がマスターできる本」

楽天ブックスから届いた。注文したわけではない。「対象商品をご購入された方の中から抽選でプレゼントを行っておりました。厳正なる抽選の結果、ご当選となりました」とのこと。その対象商品というのがよく分からない。最近(4月以降)、楽天ブックスに注文したのは新しい順に「PLUTO8」「MW」「中春こまわり君」「貧困肥満 下流ほど太る新階級社会」の4冊。どれもパソコンに関係する本ではない。

それにWindows7が出ようかという時にVistaの本をもらっても少しもうれしくない。内容は「インターネットを楽しもう」「メールのやりとりを楽しもう」「デジタルカメラの写真で楽しもう」「Windows Vistaを使いこなそう」の4章。どれも基本的なことばかりである。

これ、インプレスジャパン発行の非売品で、発行は2007年。何かの景品にしようと思って大量に発注したのが余ったので在庫一掃代わりに、楽天ブックスをよく利用するユーザーに送ったのではないかと思う。

「PLUTO8」は楽天ブックスに注文したのに届かなかった。クロネコヤマトに電話で問い合わせてみたら、確かに届けたとのこと。メール便だったので、受け取った人がいないのだ。うちの郵便受けからなくなったのか、それとも家の中で紛失したのか、はっきりしない。まあ、楽天のポイントで交換したものだし、高い本でもないので、改めて買った。感想を書かなかったのはこれだけ読んで書いても7巻とほとんど変わらない感想になるから。1巻から通して読んで改めて書こうと思い、そのままにしている。

そのうち、全体について書きます(たぶん)。

「1Q84」

「1Q84」

「1Q84」

物語の発端は200ページを越えたあたりにある。10歳だった天吾がほかに誰もいない教室で同級生の少女・青豆に手を握られるシーン。青豆の両親は「証人会」という宗教団体にいて、青豆もそこの集団生活で育てられた。給食の時にもお祈りをしなくてはならず、クラスの中で浮いた存在。というよりも存在自体を無視されていた。ある時、天吾はクラスメートにからかわれた青豆を助ける。父親がNHKの集金人で日曜日にはいつも父親に連れられて集金に回っていた天吾には青豆の境遇がよく分かったのだ。青豆が手を握ったのは二人がともに不幸な境遇にあったことに理由があったのかもしれない。

彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣りに立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた(天吾の方が十センチばかり身長が高かった)。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。

20年後、天吾は予備校の講師をしながら作家を目指している。青豆はスポーツインストラクターをしながら、殺し屋になっている。天吾はふかえり(深田絵里子)という17歳の美少女の小説「空気さなぎ」をリライトすることになり、青豆は10代の少女に性行為を繰り返しているある宗教団体の教祖の殺害を依頼される。この2人の物語が1984年とは少し異なる世界、月が2つある1Q84年の世界で交互に語られる。それがいずれ交差していくのは目に見えており、これを天吾と青豆のラブストーリーとして読んでも少しも間違いではないだろう。

2人はまともに言葉を交わすこともなく別れたが、それ以来、青豆にとって天吾は唯一の愛する人となった。そして物語の終盤で、ある人物から天吾もまた青豆を求めていることを知らされる。

「そんなことは信じられません。彼が私のことなんか覚えているはずがない」
「いや、天吾くんは君がこの世界に存在することをちゃんと覚えているし、君を求めてもいる。そして、今に至るまで君以外の女性を愛したことは一度もない」
青豆はしばらく言葉を失っていた。そのあいだ激しい落雷は、短い間隔を置いて続いていた。

賛否両論ある小説で、物語が何も解決しないまま終わるのは不満ではあるし、パラレルワールドSFだったら、枝葉末節を省けば、1冊で終わる話ではないかとも思うのだけれど、それよりも読書する楽しみに満ちた小説だと思う。細部のエピソードや描写を読んでいて全然退屈しない。これが優れた小説の一番の美点なのではないかと僕は思う。純文学作家の作品としてはマイケル・シェイボン「ユダヤ警官同盟」などよりは、はるかに面白く読めた。その前にこれが純文学かと思う。エンタテインメント小説と言っても何らおかしくはない。

「説明されなければ分からないことは、説明されても分からない」という言葉が小説の中で何度か繰り返される。これ、物語の詳細を説明するのを省くためではないかという思いもちらりと頭をかすめるが、確かに小説や映画の面白さは説明されて分かるものではない。常々考えていることなので、なるほどなと思った。

村上春樹の小説はこれまで1冊も読んだことがなかった。僕の趣味とも興味とも関係ない作家という感じを持っていた。この小説も書店の店頭で1冊だけ残っていた上巻を見なかったら、買うことはなかっただろう。買って正解だった。村上春樹の他の本も読みたくなった。

【amazon】1Q84 BOOK 1