投稿者「hiro」のアーカイブ

「逆境ナイン」

映画の公開に合わせて復刊されたとのこと。amazonに注文したのが届いた。全6巻。映画同様にギャグが盛り込んであるが、読んでいるうちに野球漫画としても真っ当だと感じてくる。コメディ一辺倒ではなく、映画とはタッチの異なる部分も多いけれど、映画同様に好感の持てる作品だと思う。絵のタッチは永井豪を思わせる部分もある。

映画は甲子園県予選優勝で終わったが、原作では甲子園優勝まで。といっても、甲子園の場面は第6巻だけで、県予選がこの漫画の中心にあることに違いはない。

映画との細かい違いは野球部監督はセパタクローの選手ではなく、日の出商業との県予選決勝は112-0ではなく、112-3だった、など。映画の脚本はスラップスティックとして組み立てるために、原作のギャグのおいしいところを拾っている感じ。しかし、うまいまとめ方だと思う。映画でちょっと疑問に思ったのは、主人公の不屈闘志が県予選の試合を放棄して遊園地でデートするシーン。これは原作ではちゃんと理由が用意してあった。ただ、これがいかにも後付けの理由。作者は「あとがき漫画」でこのあたりの展開は「逆境だった」と書いている。

「本音を申せば」

鹿児島のOさんからの手紙に「もう買いましたか」と書かれていた。小林信彦の週刊文春のエッセイをまとめた本のことである。Oさんも小林信彦のファンで以前、電話で「昨年の分はまだ出ないんですかね」という話をしていた。これで7冊目だそうである。

毎年この本を買うのは僕自身の映画の見方が間違っていないかどうかを確認するためにほかならない。映画に関する文章は多くはないが、意見が合っているとホッとするのだ。

例えば、「コールドマウンテン」について小林信彦はこう書く。

この映画は<ハリウッド久々のメロドラマ>という風に喧伝されていて、物語の骨格はそうなのだが、実は反戦映画だと思う。

僕はこう書いている。「そうした女たちの目から見た戦争批判をこの映画はさらりと描いている。この軸足を少しもぶれさせなかったことで、映画は凡百のラブストーリーを軽く超えていく」。まあまあではないか。

「華氏911」については

ドキュメンタリーとしてフェアでない、という人もいるが、<完全にフェアなドキュメンタリー>なんてあるのか。

僕は「内容に偏りがあるという批判は分かるが、主義主張を込めないドキュメンタリーには意味がない」。

ただ、「ハウルの動く城」について、「語りたい強烈なエネルギーがない」とした上で「自分の体験からみて、これは作者が<枯れた>からだ、と感じた」という指摘は僕にはできない。だから分かったような分からないような感想にしかならないのだなあと反省する。

小林信彦は以前からこの連載をクロニクルと位置づけている。連載は8年目に入った。小泉政権や中越地震に関するタイムリーな文章が収められたこの連載はもう立派なクロニクルだと思う。後世の人はこの本を読んで、小泉純一郎という総理の下の日本はなんとひどい国だったかと思うことだろう。

「失踪日記」

借りて読む。漫画家の吾妻ひでおがホームレス、アル中、ガス会社の孫請け会社の肉体労働者となった体験を描く。「全部実話です(笑)」とある。それぞれのトリビアな部分が面白くて一気に読んだ。物足りない部分があるとすれば、それは原因の追究があまりないからだ。漫画ではそうした精神的な部分を描くのは難しいのかもしれない。

失踪の理由は簡単に説明されている。漫画が描けなくなった(アイデアに行き詰まった)からだ。吾妻ひでおの場合、経済的な理由ではなく、日常からの逃避でホームレスになったわけだ。締め切りに追われた生活というのは精神的によくないのだろう。だから、仕事を離れてリフレッシュすることは重要なのだが、なかなか普通の会社ではそうもいかない。そういう場合、酒を飲むことは逃避の代替行為としての意味合いが大きくなる。アル中になることとホームレスになることの間に大きな隔たりはない。

ついでに言えば、映画を見たり、本を読んだりするのもそうした代替行為の一環である。まあ、映画や本の中毒になったところで、社会的な立場に影響はないのですけどね。

「きみに読む物語」

映画を見たとき、原作は薄っぺらな話ではないのかと思ったが、予想は当たった。帯にあるのは「全米450万部 奇跡の恋愛小説」という言葉。ほんとにこんな簡単な小説が450万部も売れるとは奇跡以外のなにものでもない。250ページほどの短い小説で、最初の40ぺージ余りがノアとアリーの若いころの話、続いて再会した2日間が130ページほど、最後の年老いてからの話が70ページ余りである。これを読むと、映画の脚本はかなりうまく脚色しているなと思う。小説よりも映画の方が優れている数少ない例と言える。

若い頃の話などは、小説ではほとんどプロットそのままと言ってもいいぐらいの描写だが、映画はここに重点をおいてじっくり描いていた。原作にないエピソードも入れており、描写が細かい。そうしないと、再会後の2人の気持ちの高まりに説得力がないのである。原作にはアリーの母親が若い頃の恋を話すエピソードもない。

アメリカのベストセラーは分厚くて詳細な描写があるのが普通だが、この小説、描写に関しては本当に薄いし、構成も簡単だ。ただ、よく分かったのはアリーがロンをどう思っているのかという部分。ロンはただの仕事人間であり、アリーとの出会いも映画とは異なる。原作ではこう書かれている。

あとでアリーは、ロンと最後に話をしたときのことを思い出そうとした。ロンはじっくり聴いてくれたが、言葉のやりとりはあまりなかった。彼は会話を楽しむタイプではなく、アリーの父のように、考えや感情を人とわかちあうのが苦手だった。彼にもっと近づきたいと説明しても、手ごたえのある返事はなかった。

こういう部分をもっと強調してくれれば、映画に対する印象も変わったと思う。原作者のニコラス・スパークスは「メッセージ・イン・ア・ボトル」の作家で、これがデビュー作とのこと。続編が出たそうだが、もう読むことはないだろう。

「ミリオンダラー・ベイビー」

風邪で昨日からダウンしているので、先日買った映画「ミリオンダラー・ベイビー」の原作を読む。F・X・トゥール「テン・カウント」に収録されている。60ページ足らずの短編。

32歳の女性ボクサー、マギーが老トレーナーのフランクに指導を頼む。女が殴られるのを見るのが嫌いなフランクは最初は断っていたが、熱心に練習するマギーに資質があると見て、指導するようになる。マギーは日を追うごとに上達し、試合でも連戦連勝。多額のファイトマネーを稼ぐようになり、「世界初のミリオン・ダラー・ベイビィ(100万ドル稼ぐ女性ボクサー)になるか」とマスコミの注目も集めるようになる。しかし、ロシアの女性ボクサーとの試合が2人の運命を変える。

貧しい境遇にある女性ボクサーが順調に勝ち上がっていく話と見当をつけていたので、後半の展開は思いもよらないものだった。大変厳しいラストで、このままでは映画になりにくいのではないかと思う。アカデミー助演男優賞を受賞したモーガン・フリーマンのキャラクターは小説には出てこない。かなり脚色が加えてあるのだろう。

著者のトゥールはボクシングのカットマンで、この1冊を残しただけで世を去った。敗者に向ける視線が切実さと厳しさを併せ持っているのは自身も苦労人だからだと思う。