投稿者「hiro」のアーカイブ

「トラウマ映画館」

町山智浩の「トラウマ映画館」をamazonに注文したのは今年3月末。ところが、売れ行きが良かったためか、お届け時期が4月末から5月初めになると連絡が来た。ちょうど近くの書店で見つけたのでamazonはキャンセルし、書店で買って読んだ。収録されている25本の映画のうち、僕が見ていたのは「マンディンゴ」と「追想」(どちらも高校時代に映画館で見た)の2本だけだったが、内容はとても面白かった。町山智浩がなぜ映画にのめり込んでいったのか、出自を語りながら語る部分が興味深い。映画を語ろうとすれば、自分を語ることは避けられないところがある。

あとがきによると、収録されている作品のほとんどはテレビで見たものらしい。テレビ放映の映画をマニアックな映画ファンはバカにすることが多いし、僕もCM入りの映画はほとんど見ないが、利点もある。本書のあとがきにあるように「予期せぬ出会い」があるからだ。映画館に行ったり、DVDを借りる行為には必ず自分の選択が含まれる。好みに合わない映画は選ばないだろう。テレビ放映の映画は選択の余地がない。いや、見るか見ないかの選択はあるが、何しろ映画にはまり込んでいた子供の頃などは何でもいいから映画を見たいという気分になっているうえ、見ることが日課になっているから何でも無差別に見てしまうのだ。

僕の場合、今村昌平の「果しなき欲望」や日活の「渡り鳥シリーズ」や増村保造「女体」や宮崎駿「太陽の王子 ホルスの大冒険」やB級、C級作品の多くはそうしてテレビで出会ってきた。そして多感な時期に見た映画は強く記憶に刻まれるのだ。その後で完全版の作品を見ても、子供の頃に見たテレビの不完全版の方が印象に強く残っていることが多い。

「トラウマ映画館」に収録された映画4本をWOWOWが4夜連続で放映中だ(WOWOWにはかなりの映画ファンがいるなと思う)。「不意打ち」「裸のジャングル」「質屋」「フェイズIV 戦慄!昆虫パニック」の4本。「不意打ち」は不安を煽るようなオープニング・タイトルが「サイコ」のソール・バスを思わせる。停電でエレベーターに閉じ込められた婦人(オリビア・デ・ハビランド)の家に浮浪者や娼婦や若者たちが侵入して無茶苦茶をする話。終盤の展開は映画が公開された1964年当時としてはショッキングなものだっただろう。テレビでこれを見た子供がトラウマになるのもよく分かる。

もともと、「トラウマ映画館」という本が書かれたのはこの映画のショッキングなシーンを覚えていた作家の平山夢明が町山智浩に「あの映画何だっけ?」と聞いたことから始まるらしい。「不意打ち」が最初に放映され、前後にある町山智浩との解説対談のゲストに平山夢明が出てきたのにはそういう意味がある。この対談はWOWOWオンラインで見ることができる。なかなかの爆笑対談である。添野知生が「戦慄!昆虫パニック」について書いたTalkin’シネマニア!も読み応えがあった。

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「健康食」のウソ

「健康食」のウソ

「健康食」のウソ

 NHK「あさイチ」でDHA(ドコサヘキサエン酸)について「乳児期に摂取するとIQが向上したり、認知症の予防効果がある可能性」があると報じていた。「あさイチ」は出勤途中の車の中で毎日見ている番組で民放のワイドショーに比べれば、はるかにましな内容だと思う。「ためしてガッテン」で取り上げたテーマの焼き直しがよくあるのだが、これもその一つか?

『「健康食」のウソ』の著者・幕内秀夫はDHAを多く含む青魚を食べると頭が良くなるという通説に対して「脳を形成する一つの成分にすぎない物質(DHA)が、なぜ『頭の良さ』と結びつくのか理解に苦しみます。『頭をよくするためにを青魚食べろ』とは、『貧血の人はレバーを食べろ』と同様の大いなる錯覚です」と書く。著者がこの本で言っているのは一つの食品だけで頭が良くなったり、ダイエット効果があったり、健康になることはないというシンプルで当たり前のことだ。

朝バナナダイエットというアホなダイエット法が数年前に流行した。バナナは食物繊維を含むのでお通じが良くなって体重が減ることは考えられる。カロリーも少ないので、それまで食べていた朝食のカロリーを下回れば、痩せることもあるだろう。だが、ダイエットに効果的な成分が含まれているわけではない。このほか、血液をさらさらにする納豆、骨粗鬆症を防ぐ牛乳、腸をきれいにするヨーグルト、がん予防効果がある緑茶、脳の栄養になる砂糖、コレステロールを下げるオリーブ油などなどを著者は明確に否定し、「『一品健康法』のほとんどすべてが一部の成分だけを取りだして論じるワンパターン」と断じている。

驚くのは著者が「飲尿療法」まで試していることだ。どう考えても排泄物である尿を飲んで健康になるわけはないのだが、これも確かに話題になった。著者によれば、「過去二十数年間で最大の話題」という。著者は吐き気に襲われながら半年余り続けた。映画「127時間」で岩に手を挟まれ身動きできなくなった主人公が渇きに耐えかねて自分の尿を飲み、吐くシーンがあったが、あれと同じことを続けたわけだ。その結果、まったく効果はなかったという。困るのはこうした科学的根拠のない療法でも効果のある人がいること。著者はそれについて「プラセボ(偽薬)効果」としている。

ベストセラー「粗食のすすめ」の著者なので、この本で勧めているのもご飯に味噌汁、漬け物というシンプルな和食だ。そして食事だけでは健康にならないと強調する。「健康は生活全体の問題です。そのなかには当然、食事も含まれますが、食事だけで健康を語れるものではありません」。

200ページほどの新書なのでサラッと読めて、中身も堅くない。著者は管理栄養士、フーズ&ヘルス研究所代表。

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「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた最強の柔道家木村政彦とプロレスラー力道山の世紀の一戦は今もYouTubeで見ることができる。力道山側によって意図的に編集されたこの動画だけを見ると、「力道山の空手チョップの威力はなんて凄かったんだろう。力道山の圧勝だ」と思ってしまう。試合が行われた昭和29年当時の人々もみんなそう思った。木村政彦の本当の強さを知る一部の人々を除いて。

著者の増田俊也は世間に定着したこの誤解を正すため、ゆがめられた歴史を修正するために二段組700ページを費やして“事件”の真相を明らかにしていく。著者は1993年の木村政彦の死後、現在まで「十年以上かけて人に会い、数百冊の書籍、数千冊の雑誌、数万日分の新聞」を手繰ってきたという。木村政彦がいかに強かったか、だけではなく、その人となりを浮き彫りにし、戦前から戦後そして現在までの柔道の歩みと変遷、多数の格闘技家の姿を活写する。木村の生き方をさまざまな関係者の声で綴った最終章は、悲憤の涙なくしては読み進められない。何よりも本書には著者の対象への愛と熱気がこもっている。読み始めたら夢中になって読んでしまう第一級の読み物であり、重量級の傑作。格闘技ファンもそうでない人も、本好きなら何を置いても読むべき本である。

著者はプロローグにこう書く。

力道山関係の本は掃いて捨てるほどあるが、木村政彦の本は技術書を除けばゴーストライターに任せた『鬼の柔道』と『わが柔道』という二冊の自伝しかない。
 本書では、捏造されて定着してしまった“あの試合”の真相究明を軸に、力道山への怒りと、さらにそれ以上の哀しみを抱えながら後半生を生き抜いた、サムライ木村の生涯を辿りたい。

木村政彦は1917年、熊本の赤貧の家に生まれた。父親の仕事は川の砂利取り。小学生の頃から、父親の仕事を手伝った木村はそれによって強い足腰と腕力の基礎を作った。小学4年生のころ、柔術の町道場に通い始める。めきめきと力を付けた木村は鎮西中学時代に拓殖大柔道部師範の牛島辰熊からスカウトされる。この“鬼の牛島”との出会いが木村の人生を決定づけた。牛島は自分に果たせなかった天覧試合での優勝を目指して木村を鍛え上げる。木村もそれにこたえ、人の3倍の1日10時間の練習に打ち込む。この厳しい師弟関係を描く前半と力道山戦後に落魄した木村がコーチとして拓殖大柔道部に迎えられてからの物語が個人的には最も心に残った。復帰した木村は後の全日本選手権チャンピオン岩釣兼生と出会い、今度は指導者として日本一を目指すのだ。

グレイシー一族最強と言われるヒクソン・グレイシーは力道山戦のビデオを見せられて著者に言う。「木村は魂を売ってしまったといってもいい。これだけの実績のある武道家がフェイク(八百長)の舞台に上がること自体が間違っている」。木村がプロレスラーに転向したのは戦後の柔道を取り巻く外的要因と木村自身の経済的要因がある。台本(ブック)があり、真剣勝負とは相容れないプロレスの世界に身を置いたことが間違いの始まりではあっただろう。三倍努力のトレーニングによって怪物のような筋肉を身にまとい、一時期、世界最強の座にいた木村はシャープ兄弟との14連戦で力道山に常に負け役を強いられる。それに怒っての力道山戦だったはずだが、力道山が示した引き分けの台本を信じたために、取り返しのつかない事態を招いてしまうのだ。

「私はあえて断言する。あのとき、もし木村政彦がはじめから真剣勝負のつもりでリングに上がっていれば、間違いなく力道山に勝っていたと」とプロローグに書いた著者は長く詳細な検証の末、第28章で「木村政彦は、あの日、負けたのだ」と書くに至る。負けを認めることは著者にとって苦渋の思いだろう。それは読者にとっても同じことだ。しかし、綿密な取材で木村政彦の全体像と時代背景を描くことで、本書からは偉大さと同時に弱さを併せ持った木村政彦という人間の悲劇に対して強い共感の思いがわき上がってくる。著者はこの試合を木村と牛島にとっての“魔の刻”と表現する。個人の力ではどうにもならない運命の時。この本は木村の負けを認めることでより一層深みを増し、輝きを増している。

木村の死の7カ月後に行われた第1回UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)で優勝したホイス・グレイシーは「マサヒコ・キムラは我々にとって特別な存在です」と語ったという。力道山戦の3年前、木村はグレイシー柔術の創始者であるエリオ・グレイシーとの凄絶な死闘を制し、その名をブラジルの地に深く刻んだからだ。日本では既に表舞台から消え、忘れ去られていたが、木村の名前は南米ブラジルのグレイシー柔術関係者の間で脈々と生き続けていた。著者はこのことによって、グレイシー一族が木村の名誉を回復した、と書いているけれども、木村政彦の名誉を本当に回復したのはこの本にほかならない。木村政彦はこの本によって救われたのだ。木村政彦はこの本によって復権を果たすことができた。

重厚長大かつ分厚く熱い感動を呼ぶ希有なノンフィクションだと思う。

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「南沙織がいたころ」

「南沙織がいたころ」

「南沙織がいたころ」

 既にある資料をまとめることにも意味がある。すべての人がその資料を持っているわけではないのだから。著者の永井良和は関西大学社会学部教授。十代のころに南沙織のファンで、当時から集めてきた資料を基に南沙織のデビューから引退、現在までの歩みを振り返っている。ジャーナリストであれば、本人へのインタビューを試みるだろう。それがないのが少し物足りないが、遠くから見つめるファンの視点で南沙織を論じても悪くはない。前半を読んでいると、自分が南沙織のファンだったころのことが次々に思い出されてくる。かつての“サオリスト”にとって、記憶の喚起装置としての機能がこの本にはある。ただ、最終章の沖縄との関係を論じる部分は僕には余計に思えた。

南沙織はフィリピン人の父親と日本人の母親とのハーフと言われていたが、本当の父親は日本人なのだそうだ。フィリピン人の父親が本当の父親ではないということは著書「二十歳ばなれ」(1976年)にも書いてあった。しかし、そこで僕らが思ったのは本当の父親は別のフィリピン人だろうということで、本当の父親が日本人であることを南沙織自身が明らかにしたのは2008年のことだという。

南沙織が歌手として活動したのは1971年からの7年半。山口百恵とほぼ同じぐらいの期間だ。山口百恵が「時代と寝た」と評されたのに対して、南沙織は普通の少女(ordinary girl)であることにこだわった。デビューから1年後の引退宣言騒ぎも、上智大学国際学部に進学したのも、学校に通う普通の少女でいたかったためだ。テレビで見る南沙織を僕は「少し不器用な人」と感じていた。芸能界をすいすい泳ぐ人ではない感じがテレビからもうかがえたのだ。引退がキャンディーズや山口百恵のように派手な幕引きではなかったことも南沙織らしい。

コンサートに行ったのは1回だけ。レコードはLPを2枚とシングル盤数枚しか買っていない。熱烈なファンとは言えないかもしれないが、テレビや本書にも出てくる雑誌「明星」や「平凡」で南沙織の動向は常にウォッチしていた。レコードの売り上げで小柳ルミ子に負けようが、人気で天地真理に負けようが、そんなことはかまわなかった。自分が好きなアイドルが一番である必要はない。

南沙織の言葉で印象深く覚えているのは母親から言われたという結婚相手に関する助言。「ハンサムな人はダメよ」と言われたそうなのだ。「ジャガイモみたいな人がいい」。引退後に篠山紀信と結婚した時に僕はなるほどと思った。

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「マイ・バック・ページ ある60年代の物語」

「マイ・バック・ページ ある60年代の物語」

「マイ・バック・ページ ある60年代の物語」

映画化決定に合わせて復刊され、昨年11月に買っておいたのをようやく読んだ。というか、3年前に川本三郎と鈴木邦夫の対談集「本と映画と『70年』を語ろう 」を読んで以来読みたかった本だった。評論家の川本三郎が朝日ジャーナル記者だった1971年当時、朝霞自衛官殺害事件に巻き込まれて解雇された事件を振り返る回想録。事件の詳細は「逮捕までI」「逮捕までII」「逮捕そして解雇」の最後の3章で描かれる。それ以前の9章は週刊朝日時代と朝日ジャーナル時代の仕事が全共闘運動に陰りが見え始めた時期の世相と合わせて語られ、興味深い読み物になっている。

読み終わって、青春の愚行という言葉が思い浮かぶ。その時に最良の選択と思ってしたことが後になってとんでもない事態を引き起こす。それは若さゆえの愚行なのだ。だから、この本の内容は厳しいけれど、甘酸っぱい部分も含んでいる。

著者は週刊朝日編集部の記者から取材に協力してほしいと要請を受ける。京浜安保共闘のメンバーと名乗るKという男の取材だった。Kを取材した著者はCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の歌と宮沢賢治の小説の好みが共通することでKを信用してしまう。Kと著者は頻繁に連絡を取り合うようになる。Kは全共闘のメンバーからは知られていず、素性に不審なところがあった。やがてKは自衛隊朝霞駐屯地を襲撃し、自衛官を殺害する。Kから連絡を受けた著者は取材の後、事実を裏付けるために自衛官のしていた腕章を預かってしまう。それが証憑隠滅事件へとつながっていく。

「朝霞自衛官殺害事件」を検索したら、Wikipediaに「発生直後から、マスコミはこの事件を大きく取り上げていたが、10月5日発売の朝日ジャーナルに『謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見』という記事が掲載された」とあった。あん? 本書の中で著者は記事は掲載しなかったと書いている。朝日ジャーナル自体が掲載に及び腰だったし、そういう環境にもなかったのだ。Wikipediaの記述が間違っているのか? Wikipediaにはさらに著者が逮捕された件について、「朝日ジャーナルの記者川本三郎(当時27歳)は、犯人から『警衛腕章』を受け取り、証拠隠滅のために自宅裏で焼いていた」とある。本書によれば、川本三郎は社内の友人に頼んで処分してもらっている。それがなんで「自宅裏で焼いた」という記述になるのか理解に苦しむ。

いや、自宅裏で焼いたかどうかは実はどうでもいい。いずれにしても川本三郎が指示したことだから。腕章を預かった川本三郎が処分した事実に間違いはない。だが、記事が掲載されたかされなかったかは、本書の中では大きな問題なのである。川本三郎はこう書いている。

しかしいまにして思えば事態をオープンにしたほうがよかったのだと思う。私がKをインタビューしたこと、しかし、ニュース・ソースの秘匿の原則があるからKの名前を明らかにすることはできないこと。そのことを編集会議で正々堂々と明言して、Kとのインタビューを記事にすべきだったのだ。

単にWikipediaの間違いであるなら、それはそれでいいが、なぜ「10月5日発売の」と指定までして間違いが起きるのかやっぱり理解に苦しむ。

こういう本は第三者が書いた方が良かったのだと思う。第三者が事実を検証して書いていき、事件の詳細を明らかにすれば、余計な詮索は受けないで済む。事件の当事者には書きにくいことがどうしてもあるだろう。第三者が書けば、当事者が都合の良いことしか書いていないという批判を封じることもできる。

本書を僕は面白く読んだし、好感を持ったけれど、そういう部分にわだかまりが残る。いっそのこと小説にしてしまえば、良かったのかもしれない。

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