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「君のためなら千回でも」

「君のためなら千回でも」

「君のためなら千回でも」

同名映画の原作。2006年に出たカーレド・ホッセイニ「カイト・ランナー」を改題してハヤカワepi文庫から出ている。読み終わった印象としては上巻100点満点、下巻70点といったところ。下巻、タリバンが支配するアフガニスタンに入るくだりの展開が冒険小説的なのが惜しい。いや、冒険小説は好 きなのだが、文芸作品として読んでいたので、通俗小説のような展開に違和感があった。それに話のつじつまが合いすぎるのも難に思えてくる。エピソードに符合するエピソードが余計に感じるのである。これは処女小説であるがゆえの瑕疵と言うべきか。ただし、普遍性のある話である。罪と贖罪、父と息子、家族の物語。主人公を取り巻く人物たちが圧倒的に素晴らしく、胸を揺さぶる。

まだ平和だったころのアフガニスタン。主人公のアミールは裕福な家庭に生まれる。母親は出産時に死亡。父親のババは男気のある実業家で周囲の尊敬を集めている。アミールは父親と正反対の物静かな性格で、父親の愛を得ようとして得られない「エデンの東」のジェームズ・ディーンのような親子関係にある。アミールの家にはハザラ人で召使いのアリとその子どもハッサンが土の小屋で暮らしている。ババとアリは幼いころから一緒に育った。アリは3歳のころに小児麻痺にかかり右足が不自由だが、2人の結びつきは強い。ハッサンは口唇裂で、身持ちの悪かった母親はハッサンを生んだ後、家を出てしまう。母親がいない同じ境遇の下、アミールとハッサンもまたババとアリのような絆に結ばれている。しかし、アミールの心の中にはハッサンを見下した部分があった。

こうした設定の下、物語は「わたしが今のわたしになった」1975年12月の出来事を描く。臆病なアミールはある事件でハッサンを見捨てて逃げてしまう。しかもすべてを知られたと思ったアミールはハッサンにつらく当たり、決定的に卑劣なことをしてアリとハッサンを家から追い出す。ソ連のアフガニスタン侵攻でアメリカに渡ったアミールのもとへ、20数年後、ババの仕事上のパートナーでアミールのよき理解者だったラヒムから電話がかかってくる。「来るんだ。もう一度やり直す道がある」。ラヒムもまたすべてを知っていたのだ。そしてアミールは封じ込めていた過去と向き合うことになる。

原題の「The Kite Runner」(凧追い)は凧揚げ競争で糸の切れた凧を手に入れようと追いかける子供のこと。言うまでもなく凧追いが抜群にうまかったハッサンを指している。不幸な境遇にあるアリとハッサンのまっすぐに生きる姿、曲がったことが嫌いなババの描写が胸を打つ。それに比べれば、主人公のアミールは全然立派ではないのだが、一般的な人はこういう存在だろう。それでもアミールは命がけでアフガニスタンに帰り、過去の罪を清算するためにある任務を果たすことになる。

上巻のアミールは単なる語り手にすぎないが、後半は本当の主人公になるわけだ。本の帯にある「全世界を感動で包み込み800万人が涙に濡れた」という言葉に全面的に賛成はしないけれども、読んで損はない小説だと思う。全体の構成に難は感じるが、少なくとも、僕も涙に濡れた描写があったのは間違いない。

「夜の声」

「夜の声」

「夜の声」

ウィリアム・ホープ・ホジスンの短編集。創元推理文庫の初版は1985年で長らく絶版になっていたが、昨年9月に復刊された。「闇の声」のタイトルで知られる「マタンゴ」の基になった小説で、20ページの短編。

暗く星のない夜、北太平洋の海上でスクーナー(帆船の一種)にボートが近づいてくる。ボートに乗った男は離れた所から「灯を消してくれ」と言い、食べ物を要望する。姿を見せないまま食料を受け取った男は数時間後、再びスクーナーに近づき、暗闇の中で自分と一緒にいる女の話を語り始める。この男女が乗っていたアルバトロス号という船は嵐で浸水し、沈没しそうになる。他の乗組員はボートで脱出。取り残された2人はいかだを作って脱出し、4日後に霧に覆われたラグーンの中で無人の帆船を見つける。帆船の中はキノコで覆い尽くされていた。食料は少なく、やがて女はキノコを食べてしまう。

「マタンゴ」と違うのはキノコを食べる前から男女の体には小さなキノコが生え始めること。吉村達也の「マタンゴ 最後の逆襲」(まだ読み終えていない)は胞子が感染原因と説明しているが、この小説の設定がヒントになったのかもしれない。

「夜の声」を原案にして「マタンゴ」の脚本を書いたのは福島正実と星新一。あれだけの醜い人間ドラマを入れたのはえらいと思う。もっとも星新一は脚本の出来には不満があったようで、後年、エッセイで「あの結末はつじつまが合わない」と書いていた。

「夜の声」の巻末の解説は「マタンゴ」には触れていない。まあ、カルト映画ファン以外には通用しないから、仕方ないでしょうね。

「ミサイルマン」

「ミサイルマン」

「ミサイルマン」

6月に出た平山夢明の短編集。「このミス」1位になった「独白するユニバーサル横メルカトル」が面白かったので読む。最初の「テロルの創世」はカズオ・イシグロ「わたしを離さないで」と同じシチュエーションである。これ、雑誌掲載は2001年。この着想、誰でも思いつくものらしい。短編というより長編の導入部という感じで、この話の続きが読みたくなる。続く「Necksucker Blues」「けだもの」はそれぞれ吸血鬼と狼男を扱っている。ここまでの3編を読んで平山夢明はSF方面の作家だなという思いを強くする。特に「けだもの」の悲哀がいい。

次の「枷(コード)」はグチャグチャ、ゲロゲロの世界。表題作で快楽殺人犯を扱った「ミサイルマン」と「それでもお前は俺のハニー」もそういう傾向の話。ま、このあたりは好みもあるが、僕はちょっと苦手だ。「ある彼岸の接近」はオーソドックスなホラーで、敷地内に墓のある家を買った家族が化け物に襲来される。これ、不気味な雰囲気がいい。最初の3編を読んだ段階では評価を高くしたが、その後の話で少し下がったか。それでも平山夢明の書く話は面白いと思う。次も出たら買う。

「クローズド・ノート」

「クローズド・ノート」

「クローズド・ノート」

昨日半分ぐらいまで読んだ雫井脩介「クローズド・ノート」の続きを読む。映画の予告編は何か深刻な感じだが、原作は少女漫画のような感じ。主人公のキャラクターが少し抜けててかわいいのである。雫井脩介だけれどもミステリではなく、恋愛小説。タッチが軽いのは携帯向けサイトの文庫読み放題に連載されたものだからか。

主人公の香恵は教育大学の学生で文具店でアルバイトをしている。引っ越したアパートに前の住人のノートが残されていた。ノートの持ち主は真野伊吹。小学校の先生で、ノートには生徒との交流が生き生きと綴られていた。香恵は万年筆売り場の担当になるが、そこに無精ひげを生やした男が来る。試し書きに猫の絵を描いた男、石飛隆作に徐々に香恵は引かれていく。

Web本の雑誌の評価を見ると、酷評している人もいる。僕はそこまでとは思わないが、これはもう少し書き込むべき話のように思う。できれば、主人公の恋愛感情は背景にして真野伊吹先生の人となりをもっと詳しく読みたかったところだ。不登校の児童との交流が描かれる前半に比べて、後半、隆との恋愛がメインになってくると、前半の魅力が薄くなっているように思う。香恵を語り手にした隆と伊吹の恋愛小説にすれば良かったのだ。

映画の方もあまり評判はよろしくないようだ。以下はYUIが歌う映画の主題歌のPV(予告編は公式サイトにもあるが、このサイト重すぎて話にならない。なんで、こんなに重いのか)。

あとがきにはこの小説の成り立ちが書かれていて、そこだけしんみりさせる。真野伊吹のモデルは、学校の先生で事故死した雫井脩介の姉とのこと。だから小説の中に姉が残した実際の手記の一部が引用されている。

映画への期待は、主役ではないけれども、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」で好演した永作博美が出ていることか。

「ぼっけえ、きょうてえ」

体調不良で今日は1日寝ていた。で、岩井志麻子の「ぼっけえ、きょうてえ」の残りの3編を読む。小さな村でコレラが蔓延する「密告函」などは今の状況にぴったりと思いつつ読んだが、興味を惹かれたのは最後の「依って件の如し」。件は、くだんと読む。「半人半牛の姿をした怪物」のことである。

Wikipediaによれば、件は「歴史に残る大凶事の前兆として生まれ、数々の予言をし、凶事が終われば死ぬ」などの説がある。件を初めて知ったのは小学生のころ。石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)の漫画「くだんのはは」でだった(調べてみたら、掲載誌は1970年の別冊少年マガジン)。

これは後に小松左京の原作も読んだ。ぼんやりと記憶があるのはNHKがテレビドラマにもしていたんじゃないかということ。1970年代に小松左京のSFは土曜ドラマの枠でいくつかドラマ化された。この他に覚えているのは「終わりなき負債」とか。たぶん、SFファンのディレクターがいたのだろう。

小松左京原作の件は頭が牛で体が人間の女性。もう内容はあまり覚えていないが、第2次大戦中に凶事を予言するような話だったと思う。石ノ森章太郎の漫画は長らく単行本未収録だったが、「歯車 石ノ森章太郎プレミアムコレクション」(単行本未収録と絶版作品を集めた本)に入っているそうだ。この本には「マタンゴ」も入っているそうなので、amazonに注文。これだけだと、送料がかかるので「バトルスター・ギャラクティカ サイロンの攻撃」(2004年発売の新シリーズのDVD)も一緒に頼んだ。

岩井志麻子版の件は怪物というよりも主人公の目に怪物に映る姿を表している。というか、他の3編にもはっきりとした妖怪・怪物のたぐいは出てこない。「ぼっけえ、きょうてえ」にしても合理的に説明が付く話ではないか。

岩井志麻子の小説はホラーではないと思う。描かれているのは貧しい小さな村に住む人間たちの業や心の闇、土俗的な風習であり、そこから怪異のような現象が立ち上がってくる。しかし、これはあくまで主人公の目を通して見た怪異に過ぎないように思える。“とても怖い”のは怪異現象ではなく、人間の方なのだ。