マリオ・ジャコメッリはイタリアのアマチュア・カメラマンで、2000年に死去した。作品は世界的に高い評価を受けているそうだが、日本で本格的に紹介されたのは昨年3月から5月まで東京で開かれた写真展「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」による。この本は昨年5月に放送されたNHK日曜美術館の「この人が語る私の愛する写真家 辺見庸 私とマリオ・ジャコメッリ」を元にして大幅に加筆したもの。100ページ余りの薄い本だが、内容は堅い。
辺見庸は5年前に脳血管障害で生と死の間をさまよった。ジャコメッリも20代のころ、自動車レース中の事故で瀕死の重傷を負った。そうした体験はその後の作品に大きな影響を与えるという。辺見庸はジャコメッリの作品について、こう書く。
かれの映像は見る者の無意識と身体に、しばしば予想をこえるつよさで「作用」してくる。つまり、映像によって心にあるいは躰の奥に<刺青>が彫られるような不思議な感覚を覚えるのである。それは感動などというクリシエではおおいつくせはしない特別の感覚である。眠っていた記憶の繊毛たちがいっせいにさわさわと動きだし、見る者はいつしか、語ろうとして語りえない夢幻の世界への回廊を夢遊病者のようにあるいているのだ。
そしてジャコメッリの作品には異界=死が漂っていると指摘する。確かに、本書に収録されたモノクロームの写真には死の雰囲気が漂う。小さな村「スカンノ」やホスピスの人々は死と隣り合わせにいるように、あるいは死者の世界の人のように異様に写し取られている。よく白黒映画なのにカラーを感じると言う時があるけれども、ジャコメッリの作品には風景を写したものでさえ、カラーを感じない。白と黒があるのみだ。しかし、この白と黒は深い意味を感じさせる。それはとりもなおさず、死をイメージさせるからなのだろう。
英語のフォトグラフに写真という訳語を当てたのは不幸だった、と辺見庸は言う。これによって写真は真実を写し取るものという無意識の制限が生まれるからだ。合成写真もあるというジャコメッリの作品は写真による表現を追い求めたもので、ここにはやらせなどという低次元のものはない。写真で映画のようにフィクションを意図しても全然構わないのだ。
辺見庸の本を読んだのはあの傑作「もの食う人々」以来。「私とマリオ・ジャコメッリ」を買った後、書店の文庫本コーナーで立ち読みしたら、最後の従軍慰安婦の場面でやっぱり胸をかきむしられるような気分になった。以前読んだ本は倉庫の段ボール箱の中にあり、なかなか読めないので、思わず買ってしまいそうになった。
【amazon】私とマリオ・ジャコメッリ―「生」と「死」のあわいを見つめて