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「ダブリンで死んだ娘」

「ダブリンで死んだ娘」

「ダブリンで死んだ娘」

2008年のMWA最優秀長編賞候補作。著者のベンジャミン・ブラックは「現代アイルランドを代表する作家」ジョン・バンヴィルのペンネームだそうだ。バンヴィルは「海に帰る日」でブッカー賞を受賞した純文学作家で、60歳を越えて初めてミステリを書いた。

1950年代のダブリンを舞台にしたミステリ。すぐに底が割れるし、意外な展開もオチもないが、この本が評価されているのは文体とその描写の深さによるところが大きいのだろう。

主人公は聖家族病院の病理医で検死官のクワーク。ある日、クワークは死体安置室に運び込まれたクリスティーン・フォールズという名前の女性の遺体に目を留める。死因は肺塞栓とされていたが、明らかに出産直後だった。死亡診断書を書いたのは義兄のマル。クワークは不審を抱くが、遺体はすぐに運び去られていた。クリスティーンの過去を知る女性を突き止めるが、その女性は何者かに殺害される。クワーク自身も2人組の男に襲われ、重傷を負う。

孤児院で育ったクワークはマルの父親の判事から助けられ、若い頃はマルと兄弟のように育った。クワークはボストンにいる富豪の娘デリアと結婚、マルはその姉サラと結婚した。デリアは出産の際に死に、生まれたばかりの娘も死んだ。しかし、クワークが本当に愛したのはサラの方だった。クリスティーン・フォールズという女の死がそうした過去と現在の悲劇を浮かび上がらせる契機となる。

「あの頃わたしたち、ここにいて幸せだったでしょう? マルとあなたとわたし…」
「クワークは両手の付け根を包帯に包まれた膝の上に置き、強く押しつけた。満足感とともに感じる疼きは、一部は痛み、一部は自虐的な快感だった。「それに」彼は言った。「それにデリアがいた」
「ええ、デリアがいたわ」

終盤にあるクワークと関係の深い女性が遭遇する出来事は悲劇の上塗りのような様相にしか思えず、これは不要なのではないかと思ってしまうが、過去がもたらした家族の悲劇を象徴してもいる。物語に派手さはないけれども、じっくり読むには最適かもしれない。僕はダラダラ読んだので、ところどころに感心しながらも感銘は受けなかった。

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「1Q84」

「1Q84」

「1Q84」

物語の発端は200ページを越えたあたりにある。10歳だった天吾がほかに誰もいない教室で同級生の少女・青豆に手を握られるシーン。青豆の両親は「証人会」という宗教団体にいて、青豆もそこの集団生活で育てられた。給食の時にもお祈りをしなくてはならず、クラスの中で浮いた存在。というよりも存在自体を無視されていた。ある時、天吾はクラスメートにからかわれた青豆を助ける。父親がNHKの集金人で日曜日にはいつも父親に連れられて集金に回っていた天吾には青豆の境遇がよく分かったのだ。青豆が手を握ったのは二人がともに不幸な境遇にあったことに理由があったのかもしれない。

彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣りに立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた(天吾の方が十センチばかり身長が高かった)。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。

20年後、天吾は予備校の講師をしながら作家を目指している。青豆はスポーツインストラクターをしながら、殺し屋になっている。天吾はふかえり(深田絵里子)という17歳の美少女の小説「空気さなぎ」をリライトすることになり、青豆は10代の少女に性行為を繰り返しているある宗教団体の教祖の殺害を依頼される。この2人の物語が1984年とは少し異なる世界、月が2つある1Q84年の世界で交互に語られる。それがいずれ交差していくのは目に見えており、これを天吾と青豆のラブストーリーとして読んでも少しも間違いではないだろう。

2人はまともに言葉を交わすこともなく別れたが、それ以来、青豆にとって天吾は唯一の愛する人となった。そして物語の終盤で、ある人物から天吾もまた青豆を求めていることを知らされる。

「そんなことは信じられません。彼が私のことなんか覚えているはずがない」
「いや、天吾くんは君がこの世界に存在することをちゃんと覚えているし、君を求めてもいる。そして、今に至るまで君以外の女性を愛したことは一度もない」
青豆はしばらく言葉を失っていた。そのあいだ激しい落雷は、短い間隔を置いて続いていた。

賛否両論ある小説で、物語が何も解決しないまま終わるのは不満ではあるし、パラレルワールドSFだったら、枝葉末節を省けば、1冊で終わる話ではないかとも思うのだけれど、それよりも読書する楽しみに満ちた小説だと思う。細部のエピソードや描写を読んでいて全然退屈しない。これが優れた小説の一番の美点なのではないかと僕は思う。純文学作家の作品としてはマイケル・シェイボン「ユダヤ警官同盟」などよりは、はるかに面白く読めた。その前にこれが純文学かと思う。エンタテインメント小説と言っても何らおかしくはない。

「説明されなければ分からないことは、説明されても分からない」という言葉が小説の中で何度か繰り返される。これ、物語の詳細を説明するのを省くためではないかという思いもちらりと頭をかすめるが、確かに小説や映画の面白さは説明されて分かるものではない。常々考えていることなので、なるほどなと思った。

村上春樹の小説はこれまで1冊も読んだことがなかった。僕の趣味とも興味とも関係ない作家という感じを持っていた。この小説も書店の店頭で1冊だけ残っていた上巻を見なかったら、買うことはなかっただろう。買って正解だった。村上春樹の他の本も読みたくなった。

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「ミレニアム2 火と戯れる女」

ボクサーのパオロ・ロベルトが金髪の巨人と戦う第25章から止まらない。怒濤の展開で読むのをやめることは不可能だ。

パオロはわけがわからず立ちつくした。たったいま、パンチが四発入った。ふつうの相手ならとっくにダウンしている。自分はコーナーに下がり、レフェリーがカウントを取り始めるところだ。それなのに、この男には一発も効いていないらしい。
”なんてこった。この野郎、ふつうじゃねえ”

「ミレニアム2 火と戯れる女」

「ミレニアム2 火と戯れる女」

全身を筋肉で覆われたこの金髪の巨人になぜパンチが効かないのかは合理的に説明される。作者のスティーグ・ラーソンがスウェーデンの実在のボクサーであるパオロ・ロベルトをこの小説に登場させたのはこの場面を描くのに都合が良かったからだろう。実在のボクサーなら余計な説明は要らない。

第4部のタイトル「ターミネーター・モード」はこの不死身の金髪の巨人を指すと同時に主人公リスベット・サランデルも指している。前作「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」の感想に「リスベットのキャラクターを創造したことで、この小説の成功は決まったようなものだっただろう」と書いたが、今回はそのリスベットが主人公なのだから、面白くないはずがない。

今回は人身売買・強制売春とリスベットの過去が主眼である。リスベットはなぜ社会不適格者の烙印を押され、後見人が付いているのか。それが明らかになる。天才的なハッカーであるリスベットは前作の最後で悪徳企業から30億クローネの預金を奪取した。序盤に描かれるのはそのリスベットがグラナダで優雅に暮らす姿。しかし、リスベットの卑劣な後見人でリスベットに手痛い仕打ちを受けた弁護士のビュルマンは密かにリスベットへの復讐を画策していた。一方、月刊誌「ミレニアム」の編集部はフリージャーナリストのダグとその妻ミアが持ち込んだ人身売買と強制売春の特集と本を発行する準備をしていた。そのダグとミア、ビュルマンが殺害される。現場に落ちていた拳銃にリスベットの指紋があったことから、リスベットは警察から追われることになる。「ミレニアム」発行責任者のミカエル・ブルムクヴィストはリスベットの無実を信じて事件の調査を始める。

事件はリスベットの過去と深い関係がある。これはリスベットの少女時代に起きた“最悪の出来事”に対する決着、リベンジの話でもある。

終盤、リスベットに待ち受けるショッキングな運命は映画に前例がある。これは現実的にはほぼ不可能な展開であり、映画だから許されることだと映画を見たときに思った。スティーグ・ラーソン、この映画を見ているのではないか。現実的には不可能であっても、読者はそれを望んでいる。それをラーソンは理解していた。エンタテインメント小説にもそんなあり得ない展開が許されるのだ。

反極右・反人種差別を掲げるジャーナリストだったという作者の硬派な考え方は小説の基調となっており、それをエンタテインメントでくるんだ作品に仕上げている。第1作だけでも十分な資格があったが、年末のベストテン入りはこの作品でさらに決定的になったと思う。急逝した作者の最後の作品となる第3作の刊行が待ち遠しい。

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「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」

「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」

「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」

タイトルロールのドラゴン・タトゥーの女、リスベット・サランデルがすこぶる魅力的だ。身長154センチ、体重42キロ。小柄で24歳なのに14歳ぐらいにしか見えない。背中にはドラゴンの刺青、顔にピアス。黒いTシャツに革ジャンのパンクルック。中学校中退。感情表現が欠如し、上司を絶望の淵に追い込むほど協調性がない。社会不適格者。しかし、こういう外見、性格からは想像がつかない天才的なリサーチャーで、驚異的なハッカーの技術を駆使して調査の相手を裏も表も綿密に調べ上げる。物語の主人公は雑誌「ミレニアム」の編集者ミカエル・ブルムクヴィストだが、リスベットが出て来た途端に話は溌剌とする。リスベットのキャラクターを創造したことで、この小説の成功は決まったようなものだっただろう。作者のスティーグ・ラーソンが第2部「ミレニアム2 火と戯れる女」でリスベットを主人公にしたのは当然だと思える。

ミカエルは大物実業家のヴェンネルストレムの悪事について書いた記事が事実無根と訴えられ、名誉毀損で有罪となった。ミカエルは事情があって控訴せず、雑誌社をしばらく離れることになる。そこへ大手企業の前会長ヘンリック・ヴァンゲルが声をかけてくる。兄の孫娘で1966年に失踪したハリエットについて調べて欲しいというのだ。ハリエットは殺されたらしいが、死体は見つかっていない。ヴェンネルストレムはかつてヴァンゲルの会社にいたことがあり、そこでも悪事を働いたらしい。その悪事を教えるということを条件にミカエルは調査を始める。やがて、ハリエットの失踪は猟奇的な連続殺人事件に関係していることが分かってくる。果たして犯人は誰なのか。調査能力を買われたリスベットもミカエルに協力し、約40年前の事件の真相に迫っていく。

物語の真ん中に猟奇的殺人事件、その前後にヴェンネルストレムとミカエルの確執を置いた構成。殺人事件だけだったら、よくあるサイコものに終わっていただろうが、ミカエルのジャーナリストとしての意地とその人間関係を描くことで充実したエンタテインメントになっている。

43歳のミカエルと娘ほども年齢の異なるリスベットは調査を進めるうちに親しくなっていく。そしてリスベットは自覚する。

クリスマスの翌日の朝、彼女にとってすべてが恐ろしいほど明瞭になった。どうしてこんなことになったのか分からない。二十五年の人生で初めて、彼女は恋に落ちたのだ。

当初は5部作の予定だったらしいが、作者は第4部の執筆にかかったところで急死した。3部まででも話は完結しているとのことなので、安心して第2部を読みたい。

第1部は映画化されており、IMDB(Män som hatar kvinnor)では7.8の高得点。予告編を見ると、原作よりもサスペンスタッチ、猟奇的なタッチを強調した作品になっているようだ。リスベットのイメージも原作とは違う。スウェーデン映画なので、日本公開の予定があるかどうかは分からないが、ぜひ公開してほしいところだ。
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「ユダヤ警官同盟」

「ユダヤ警官同盟」

「ユダヤ警官同盟」

「とてつもないミステリ、上陸」と大書されたオビには「ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞三冠制覇」ともある。SFの主要な賞を制覇したうえに、2008年のエドガー賞(MWA最優秀長編賞)の最終候補にも残ったそうなのである。だからSF、ミステリの両方にアピールするこういうオビになったのだろう。もっとも、エドガー賞最終候補(MWAホームページ参照)の中には「川は静かに流れ」があったので、受賞できなかったのは当然と思う。

僕はミステリとしてよりもSF3賞受賞作のつもりで読んだ。2007年、アラスカの太平洋岸に近いバラノフ島が舞台。ここは第二次大戦前にドイツで迫害を受けたユダヤ人を受け入れる土地としてアメリカが用意したが、1948年、イスラエルが建国後3カ月で崩壊したために大量の難民が流入し、人口300万人を超えている。島はユダヤ人自治区となり、シトカ特別区と呼ばれている。こうした架空の設定の下、ホテルで薬物中毒の男が殺害される事件が起きる。同じホテルを定宿にしていた酒浸りの殺人課刑事マイヤー・ランツマンが事件の捜査を始める。

設定はSFだが、SF的なアイデアの発展はない。ミステリとして優れているわけでもない。オビに書いてあるようなハードボイルドでさえない。おまけに100ページ読んでも面白くならない。上巻を読み終わっても面白くなく、下巻に入って少し面白くなったかという程度。これはこちらのユダヤ人(問題)に対する知識が不足しているためもあるだろうが、エンタテインメントを期待して読むと、途中で放り出す人がいるのではないか。ユダヤ人向けの小説なのだと思う。

下巻が面白くなるのは主人公が危機に陥るのと、殺人事件の背景、聖地に帰ろうとするユダヤ人たちの動きが出てくるからだが、これも大きく盛り上がるわけではない。タイトルの「ユダヤ警官同盟」とはユダヤ人警官のための国際的な友誼団体エサウの手のこと。この団体の会員証には捜査上の権限など何もないが、銃撃事件で停職となり、警察バッジを取り上げられた主人公は捜査のためにバッジ代わりとして苦し紛れに使うのだ。だから内容に深く関係しているわけではない。

あとがきを書いている訳者の黒原敏行は同じような歴史改変SFの例としてフィリップ・K・ディック「高い城の男」、思考実験のSFとして小松左京「日本沈没」を挙げている。僕はこの2冊のどちらも面白かった。特に前者はナチス・ドイツが勝った世界を舞台にストーリーが進行しながら、終盤に主人公が世界の揺らぎを感じる場面(ナチスが負けた世界を見る場面)があって、いかにもSFだった。ディックだから当たり前である。

作者のマイケル・シェイボンは元々は純文学作家でピューリッツアー賞も受賞しているが、純文学にとどまらず、境界侵犯的(トランスグレッシブ)小説を書いているという。本書もSFとミステリに境界侵犯した本。個人的には境界侵犯の仕方が足りないと思う。純文学的側面が優れているとも思えない。ミステリで純文学なら、ケム・ナンのあの瑞々しい傑作「源にふれろ」ぐらいの充実度が欲しくなる。SF3賞受賞もユダヤ人の力が働いたためではないかと思えてくる。

ジョエル&イーサン・コーエン兄弟が映画化の予定とのことだが、IMDB(The Yiddish Policemen’s Union )にも詳しい情報はなく、まだ計画段階。公開は2010年以降になるらしい。

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