投稿者「hiro」のアーカイブ

「山の郵便配達」

短編で42ページしかないのですぐに読める。これを読むと、映画がいかに良くできているか分かる。まず、老婆に手紙を読んでやる場面が小説にはないし、村の娘と息子との交流もほんの少しだけ。父親が息子を案内して最後の配達に出かけるというプロットだけが同じで、ス・ウの脚本は小説を驚くほど豊かに膨らませている。細部を具体的に語り、父子の関係に的確なエピソードを付け加え、小説を見事に語り直している。その手法に感心させられた。映画は小説以上の出来と言っていい。

ただし、映画には父親の足を痛めつけた川の水の冷たさが少し欠けている。具体的な描写を織り込んだ結果、父親のキャラクターが先日書いたような生真面目すぎるものになったのも残念。もちろん、小説でも生真面目な男なのだが、それ以上に感じるのは老いを迎えた男の切なさなのである。映画はもっと父親の視点で統一した方が良かったのかもしれない。

細部を膨らませすぎることで余計な要素が交じる場合もあるのだ。しかし、これは小さな傷で、この短い小説からあの映画を作り上げたスタッフの手腕は褒められるべきだろう。

小説では天秤棒を担いで郵便袋を運ぶ。映画のリュックサックより、これは大変だと思う。犬に“次男坊”という名前もなかった。

「ザ・スタンド」

2 月3日の日記に162ページまで読んだと書いているから、読み始めたのは1日ごろだろう。読み終わるのに3週間あまりかかったことになる。寝る前と昼間に少しずつ、しかし、引き込まれながら読んで、少しも退屈することはなかった。破滅後の世界での善と悪の対決という簡単な筋だから物語の先が知りたいという気持ちはなく、しかもテレビシリーズ(監督はミック・ギャリス)を見て筋はすっかり知っているのだから、これは僕にとって描写を楽しむ小説だった。その意味では本当に満足できた。読書することの楽しみを再び教えてもくれた。

確かに「ミステリマガジン」が指摘しているように下巻に入ってストーリーがトントン進みすぎるきらいはある。ここはもっとじっくり描いて、さらに長い物語にしてほしかったぐらいである。読んでも読んでも終わらない小説、しかし退屈しない小説というのは本当に珍しい。そういう物語がスティーブン・キングには書けるのではないか。

テレビシリーズは悪くはなかったが、原作よりキャラクターの魅力が大きく減っている。闇の男ランドル・フラッグと結ばれる哀しい運命にあるナディーンは原作の方がより美人だし、重要な役回りだ。スチューを演じたゲイリー・シニーズとニックを演じたロブ・ロウはほぼイメージ通り。というか先にテレビを見ているのでこの2人を思い浮かべながら、読むことになった。フラニー役のモリー・リングウォルドの場合もそうだった。テレビシリーズを見たことの欠点はこち らの想像力に足かせをはめられることだろう。テレビのあの小さなブラウン管は描写に適したものではなく、やはり筋を語るメディアなのだと思う。

「ザ・スタンド」が面白かったので続いて、1年ほどまえに途中まで読んで中断していた「フリッカー、あるいは映画の魔」を読み始めた。パソコン関係の本はしばらくお休みである。

「狗神」

300ページ余りなのでスラスラ読める。「徹底的に改変」というのは「SFオンライン」に書いてあったことだが、それはクライマックスに関してのことのようだ。物語の設定と展開は母親の扱いなど細部に違う部分はあるが、映画は原作をほぼ忠実になぞっている。クライマックスは確かに映画とは異なる。しかし、この程度のクライマックスならば、映画のように描いても別に悪くはない。原作には鵺が登場するが、それが大きな活躍をするわけでもない。しかし、なぜ登場したかという理由は重要な部分ではある。

「狗神」は坂東眞砂子の初期の作品に当たり、直木賞を受賞した「山妣(やまはは)」のような重厚な描写には欠けている。主人公・美希の置かれた境遇など映画よりは書き込んであるけれど、全体として比較すると、この原作をあそこまで豊かに映画化した原田真人の手腕は褒められていいだろう。となると、問題はクライマックスの描き方にあったということになる。あそこさえもっと迫力たっぷりに描いておけば、映画は十分に傑作と呼べるものになっていたと思う。話が収斂していくものとしては少し弱いのである。狗神筋の一族のカタストロフはもっと凄惨に描くべきだったのではないか。

「勇気凛々ルリの色 福音について」

浅田次郎の連載エッセイの3冊目。文庫に入ったので読んだ。相変わらず爆笑に次ぐ爆笑、そしてホロリとさせる好エッセイ集だ。直木賞を受賞した前後の1年間の出来事が綴られている。「蒼穹の昴」で直木賞に落選したその夜、女性編集者が叱咤する場面がいい。

「書くのよ。今すぐ、書くのよ。あなたから小説を取ったら、骨のかけらも残らない」
頭の中がまっしろで、何も書くことができなかった。書けない、書けない、書けない、と私は泣いた。
「書けないのなら、今まで書けなかったことを書けばいい。どうしても小説にできないことを書くのは、今しかない。今日しかない。私はあなたの原稿を三年も待った。あと二日だけ待ってやる。さあ、書くのよ」
立ち上がることすらできぬまま、私はペンを執り、思い出すだにおぞましい幼児体験を小説にした。

そうして出来上がったのが直木賞を受賞した短編集「鉄道員」の中で最も完成度の高い「角筈にて」だったというのが実に良くできた話である。

いとことの思い出を綴った「ヒロシの死について」は伯父からもらった10円を握りしめて、いとこたちとみやげもの屋に行く話。浅田次郎は店についた時、10円をなくしていることに気づき、石段で膝を抱えて泣く。いとこたちはあめ玉を買ってほとんど帰ってしまったが、ただ1人年長のヒロシが必死に落とした10円を探し始める。

山奥の冬の陽は、つるべ落としに昏れてしまった。
「あったよ! ジロウ、あった、あった」
ヒロシはそう言って、私に十円玉を握らせた。とたんに私は、ヒロシのやさしい笑顔を正視できずに、声を上げて泣いた。子供心にも、その十円玉の出所がわかったからである。それはヒロシのポケットの中の十円玉に違いなかった。

まるで「泥の河」のようなエピソードから現在のヒロシの話につながる。ヒロシは重度の障害を持って生まれた17歳の娘ミッチャンの世話をする傍ら、多忙な営業マンとして懸命に働き力つきた。その翌日、娘も死んでしまう。「残された家族のことを考えて、ヒロシはミッチャンを連れて行った」「ミッチャンは大好きなおとうさんについて行った」との解釈に対して浅田次郎はこう考える。

ヒロシは、医学的にはとうに終わっているはずのミッチャンの生命を、あらん限りの愛情を持って支えていたのだろう。そして、その死がついに支えきれぬところまで迫っていることを感じたあの夜、心のそこから、娘とともに逝くことを祈ったのであろう。天が、その真摯な祈りを聞き届けたのである。
そうでなければ、四十六歳の男の死顔があれほど安らかなはずはない。

浅田次郎は泣かせの天才だなと思う。小説ではそれがちょっと鼻につく部分もあって、僕は「鉄道員」以後の小説は読んでいないが、このエッセイは楽しみにしている。相変わらずのハゲ、巨頭の爆笑話もあって、このエッセイ、一つ泣いて読み終わったら、次は爆笑というまことに喜怒哀楽の激しい本である。売れっ子小説家の想像を絶する多忙さも分かる。風邪をひき、体力がないときに布団の中で読むには絶好の本だった。

「ローズマリーの息子」

ハヤカワ文庫に入ったので読んでみた。「ローズマリーの赤ちゃん」の30年ぶりの続編。2年前に単行本が出た際、かなりの悪評を読んでいたので、予想よりは面白かった。問題はラストの処理でしょう。ここで賛否両論あるのは分かる。気に入らないのならその直前までの話と思えばいい。ま、それ以前に小説としての膨らみが足りないのが決定的で、アイラ・レヴィンはもともと長大な小説を書く人ではないが、このプロットだけのような作りでは物足りない。

話はローズマリーが27年ぶりに昏睡から覚める場面で始まる。息子アンディは世界的な指導者になっており、1999年12月31日に世界中の人々が一斉にロウソクに灯をともし、ミレニアムを迎えようというプロジェクトを進めている。もちろん、悪魔とローズマリーとの間に出来た子どもであるから、何か裏にあるのは読者には承知のことで、それがどう描かれるかが焦点となる。

アイラ・レヴィンは24歳で「死の接吻」でデビューし、2作目として14年後に「ローズマリーの赤ちゃん」を書いた。その天才作家としてのキャリアはここでほぼ終わった。後に続く作品は才能の出涸らしみたいなものである。ただしこの2作(特に後者)が永遠に残る傑作であることは疑問の余地がない。

「ローズマリーの赤ちゃん」を読んだのは高校生のころだが、後半の展開に読んでいて息苦しくなったのを覚えている。ロマン・ポランスキー監督で映画化もされたが、映画自体は良くできていても、とてもこの傑作に及ぶものではなかった。続編は映画プロデューサーの要請で書かれたものらしい。天才も年を取れば、ただの人になるという見本のような出来には違いないし、時代設定からして、もはや映画化も無理のような気がする。昨年たくさん出たミレニアムもの(Y2Kとか)の1作ということになるだろう。ラストに目をつぶれば、暇つぶしにはなると思う。