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「ブルー・ヘヴン」

「ブルー・ヘヴン」

「ブルー・ヘヴン」

昨年8月に翻訳が出た本で、今年のMWA最優秀長編賞を受賞した。殺人事件を目撃した幼い姉弟とそれを守る老牧場主を巡るサスペンス。終盤で意外な人間関係は明らかになるけれども、これは老牧場主のジェス・ロウリンズの生き方をじっくりと描いて心に残る作品だ。

舞台はアイダホ州北部の小さな町クートネー・ベイ。ロサンゼルス市警を退職した警官が多く移り住んでくるため、ブルー・ヘヴンと呼ばれている。姉弟が目撃した殺人は元警官の4人組によるものだった。気づかれた姉弟は逃げ、ジェスの牧場にたどり着く。ジェスの家は祖父の代からここで牧場を経営してきたが、妻のカレンの浪費癖によって牧場はジェスが知らない間に多額の借金を負い、人手に渡ろうとしていた。カレンは牧場を出て行き、息子は精神を病んでいる。その頃、町には8年前に起きた競馬場での現金強奪事件を調べるため、警察を退職したばかりのエデュアルド・ヴィアトロが訪れていた。

ジェスとヴィアトロは物語の中盤で出会う。2人は真っ当に生きてきた同じタイプの人間であることを知る。「今でも警察官倫理規定の最後を暗唱できる」と言って、暗唱してみせたヴィアトロに対してジェスは言う。

「引退したとは残念だ」ジェスは言った。
「このことばからは引退していない。まだ、な」
ジェスはこうした話題について誰かと話しができることに驚いた。それも、はじめて会った男と。こんな風に考えている人間が他にもいるのだとわかっただけで嬉しかった。

「あんたは面白い男だな、ミスタ・ヴィアトロ」
「水から上がった魚さ、それがいまのおれだ。だがおれは、決意の固い魚だ」
「そうみたいだな」ジェスは応えた。「おれもどうやら、あんたと同じみたいだ」
二人は手を握り合った。

ストレートなサスペンス作品だが、このようにジェスとヴィアトロ、その周囲の人間たちを生き生きと描いていて読ませる。正統派の西部劇のような印象を受けるのはアイダホ州の自然の中で描かれる話であるためか。作者のC・J・ボックスはワイオミング州生まれ。これまでにワイオミング州猟区管理官ジョー・ピケットを主人公にしたシリーズ作品などを書いているそうだ。僕は初めて読んだ。

訳者あとがきには「アバウト・シュミット」のプロデューサー、マイケル・ベスマンとキャメロン・ラムが映画化の権利を獲得したとあり、CJ Box Web Siteにもそう書いてあるが、IMDBにはまだ影も形もない。ジェスのイメージに近いのはあとがきにもあるようにクリント・イーストウッドだろうが、もう無理か。

【amazon】ブルー・ヘヴン (ハヤカワ・ミステリ文庫 ホ 12-1)

「イン・ザ・プール」

「イン・ザ・プール」

「イン・ザ・プール」

「打ちのめされるようなすごい本」で米原万里が褒めていたので読む。奥田英朗の本は数冊買っているが、まともに読んでいなかった。いや、これはおかしい。面白い。続編の「空中ブランコ」は直木賞を取り、この本自体も直木賞候補になったけれども、それが納得できる面白さ。精神科医・伊良部一郎を主人公にした連作短編。医師というよりは単なる混ぜっ返し、駄々っ子のような太った中年の伊良部のもとを訪れるプール依存症、妄想癖、陰茎強直症、不安神経症などさまざまな患者を取り上げ、ストレス社会の中で現代人が抱える心の病を爆笑させながら描き出した小説だ。

読んでいていくつか自分にも思い当たることがある。「イン・ザ・プール」のプール依存症になった男はウォーキング依存症やネット依存症に近かった(今でも?)自分に当てはまるし、たばこの火を消したかどうかに不安を覚え、何度も確認し、外出できなくなる「いてもたっても」の男には、そうそうたばこの火って気になるんだよなと思う。ということは自分も軽度の不安神経症なのか。

まともな治療などせず、注射フェチの伊良部にあきれながらも患者が通院をやめられないのは心の病とは無縁で、人目を気にせず自分の思うとおりに行動する伊良部がある意味、うらやましい存在だからだろう。収録されている5編すべて面白いが、僕が気に入ったのは色っぽい看護師のマユミさんがちょっとだけクローズアップされる「フレンズ」。1日に200通も携帯メールを出す高校生の雄太が患者で、この行動は友だちや仲間がいないことを避けたいという不安の裏返しなのだ。クリスマスに誰からも相手にされなかった雄太は伊良部に電話をかけ、代わったマユミさんと話す。

「マユミさん、彼氏はいるんですか」
「いないよ」
「ぼくじゃだめですか」
「子供はだめ」
間髪を入れず返事された。でも愉快な気分になる。くじけず話を続けた。
「どんな人が理想ですか」
「友だちがいない奴。大勢で遊ぶの、苦手なんだ」
メリークリスマス。雄太は夜空に向かってつぶやいていた。

マユミさんは「孤塁を守ることを恐れない北国の美女」だったのである。

恐らく、この連作短編を書くのに奥田英朗は相当の取材をしているはず。それを表面にはおくびにも出さず、エンタテインメントに仕上げている。こういうのを洗練された手法と言うのだろう。

【amazon】イン・ザ・プール (文春文庫)

「コミュニティ」

「コミュニティ」

「コミュニティ」

先日、amazonから「篠田節子の『コミュニティ』お求めいただけます」とのメールが来たのを覚えていたので、書店で見かけた際に買った。2006年に出た「夜のジンファンデル」を改題した短編集。91年から02年にかけて発表された6編が収録されており、「夜のジンファンデル」以外はホラーの要素が強い。考えてみると、篠田節子の短編集を読むのは初めてだが、どれも面白かった。

「大人の恋愛小説の金字塔」と解説で絶賛されている「夜のジンファンデル」は結婚している男女の秘めた恋心を描き、切なさと官能性を併せ持つ。特に女性に受けが良いのだろうなと思う。古い団地の異常な連帯が明らかになる表題作の「コミュニティ」とブラックな味わいを持つ「永久保存」には超常現象は出てこない。残りの3編「ポケットの中の晩餐」「絆」「恨み祓い師」がホラーらしいホラーということになる。

「ポケットの中の晩餐」は読んでいて筒井康隆の「鍵」(「バブリング創世記」に収録)を思い出した。「鍵」は鍵を巡って過去をたどりながら、数々の出来事を思い出していく話で、男にとってはラストの場面が悪夢のように怖い。解説で井上ひさしが絶賛していた。「ポケットの中の晩餐」はアニメーションのメカニックデザイナーとして成功した男が故郷に帰ってくる話。故郷といっても電車で40分だが、男は13年間帰っていなかった。男は中学時代、やや知的障害がある深雪という少女と交流があった。家のパン屋を手伝っていた深雪のポケットには驚くほど大量の食べ物が詰め込まれていた。高校を中退して東京に行った男は父親の事業の失敗で故郷に帰り、出会った深雪を抱く。その後、深雪は子宮外妊娠で死んでいたことが分かる。そして、今回の帰郷で男は深雪と再び出会うのだ。

「絆」は不倫の恋を続けていた女が手切れ金代わりにリゾートマンションを贈られる話。そのマンションには大きな冷蔵庫があった。ある夜、女は冷蔵庫の中から扉を叩くような音を聞き、冷蔵庫から男の子が出てくるのを見る。やがてこのマンションでは有名女優の娘が死んでいたことが分かる。娘ではなく、息子ではなかったのか。気味の悪くなった女は冷蔵庫を捨てるが、それが新たな悲劇をもたらすことになる。

「恨み祓い師」は古い貸家に住む年老いた母娘にまつわる話。シリーズ化しても面白そうな題材だった。篠田節子がどれぐらいの短編を書いているのか知らないが、この作品集、当たり外れがない。新作の長編「薄暮」も読んでみたくなった。

【amazon】コミュニティ (集英社文庫 し 23-8)

「ダブリンで死んだ娘」

「ダブリンで死んだ娘」

「ダブリンで死んだ娘」

2008年のMWA最優秀長編賞候補作。著者のベンジャミン・ブラックは「現代アイルランドを代表する作家」ジョン・バンヴィルのペンネームだそうだ。バンヴィルは「海に帰る日」でブッカー賞を受賞した純文学作家で、60歳を越えて初めてミステリを書いた。

1950年代のダブリンを舞台にしたミステリ。すぐに底が割れるし、意外な展開もオチもないが、この本が評価されているのは文体とその描写の深さによるところが大きいのだろう。

主人公は聖家族病院の病理医で検死官のクワーク。ある日、クワークは死体安置室に運び込まれたクリスティーン・フォールズという名前の女性の遺体に目を留める。死因は肺塞栓とされていたが、明らかに出産直後だった。死亡診断書を書いたのは義兄のマル。クワークは不審を抱くが、遺体はすぐに運び去られていた。クリスティーンの過去を知る女性を突き止めるが、その女性は何者かに殺害される。クワーク自身も2人組の男に襲われ、重傷を負う。

孤児院で育ったクワークはマルの父親の判事から助けられ、若い頃はマルと兄弟のように育った。クワークはボストンにいる富豪の娘デリアと結婚、マルはその姉サラと結婚した。デリアは出産の際に死に、生まれたばかりの娘も死んだ。しかし、クワークが本当に愛したのはサラの方だった。クリスティーン・フォールズという女の死がそうした過去と現在の悲劇を浮かび上がらせる契機となる。

「あの頃わたしたち、ここにいて幸せだったでしょう? マルとあなたとわたし…」
「クワークは両手の付け根を包帯に包まれた膝の上に置き、強く押しつけた。満足感とともに感じる疼きは、一部は痛み、一部は自虐的な快感だった。「それに」彼は言った。「それにデリアがいた」
「ええ、デリアがいたわ」

終盤にあるクワークと関係の深い女性が遭遇する出来事は悲劇の上塗りのような様相にしか思えず、これは不要なのではないかと思ってしまうが、過去がもたらした家族の悲劇を象徴してもいる。物語に派手さはないけれども、じっくり読むには最適かもしれない。僕はダラダラ読んだので、ところどころに感心しながらも感銘は受けなかった。

【amazon】ダブリンで死んだ娘 (ランダムハウス講談社文庫 フ 10-1)

「1Q84」

「1Q84」

「1Q84」

物語の発端は200ページを越えたあたりにある。10歳だった天吾がほかに誰もいない教室で同級生の少女・青豆に手を握られるシーン。青豆の両親は「証人会」という宗教団体にいて、青豆もそこの集団生活で育てられた。給食の時にもお祈りをしなくてはならず、クラスの中で浮いた存在。というよりも存在自体を無視されていた。ある時、天吾はクラスメートにからかわれた青豆を助ける。父親がNHKの集金人で日曜日にはいつも父親に連れられて集金に回っていた天吾には青豆の境遇がよく分かったのだ。青豆が手を握ったのは二人がともに不幸な境遇にあったことに理由があったのかもしれない。

彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣りに立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた(天吾の方が十センチばかり身長が高かった)。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。

20年後、天吾は予備校の講師をしながら作家を目指している。青豆はスポーツインストラクターをしながら、殺し屋になっている。天吾はふかえり(深田絵里子)という17歳の美少女の小説「空気さなぎ」をリライトすることになり、青豆は10代の少女に性行為を繰り返しているある宗教団体の教祖の殺害を依頼される。この2人の物語が1984年とは少し異なる世界、月が2つある1Q84年の世界で交互に語られる。それがいずれ交差していくのは目に見えており、これを天吾と青豆のラブストーリーとして読んでも少しも間違いではないだろう。

2人はまともに言葉を交わすこともなく別れたが、それ以来、青豆にとって天吾は唯一の愛する人となった。そして物語の終盤で、ある人物から天吾もまた青豆を求めていることを知らされる。

「そんなことは信じられません。彼が私のことなんか覚えているはずがない」
「いや、天吾くんは君がこの世界に存在することをちゃんと覚えているし、君を求めてもいる。そして、今に至るまで君以外の女性を愛したことは一度もない」
青豆はしばらく言葉を失っていた。そのあいだ激しい落雷は、短い間隔を置いて続いていた。

賛否両論ある小説で、物語が何も解決しないまま終わるのは不満ではあるし、パラレルワールドSFだったら、枝葉末節を省けば、1冊で終わる話ではないかとも思うのだけれど、それよりも読書する楽しみに満ちた小説だと思う。細部のエピソードや描写を読んでいて全然退屈しない。これが優れた小説の一番の美点なのではないかと僕は思う。純文学作家の作品としてはマイケル・シェイボン「ユダヤ警官同盟」などよりは、はるかに面白く読めた。その前にこれが純文学かと思う。エンタテインメント小説と言っても何らおかしくはない。

「説明されなければ分からないことは、説明されても分からない」という言葉が小説の中で何度か繰り返される。これ、物語の詳細を説明するのを省くためではないかという思いもちらりと頭をかすめるが、確かに小説や映画の面白さは説明されて分かるものではない。常々考えていることなので、なるほどなと思った。

村上春樹の小説はこれまで1冊も読んだことがなかった。僕の趣味とも興味とも関係ない作家という感じを持っていた。この小説も書店の店頭で1冊だけ残っていた上巻を見なかったら、買うことはなかっただろう。買って正解だった。村上春樹の他の本も読みたくなった。

【amazon】1Q84 BOOK 1